「自信なんてものに頼ってたらダメになる」
こんにちは、Mistirです。
岡本太郎が上に書いたようなことを言ってました。
自信があるから何かをする。そんなことは浅ましい。
確かにその通りで、自信が有る無しに関わらずやるべきことが存在する場合って多々ある。
ビジネスもそうだろう。
自信がないからやりません。
そんなことは通じません。
そういうときって必ずある。
自信がなくてもやる。
でも、自信がないことはできるなら避けたい。
それが真実かもしれない。
ただ、自信がないからってことで避けてると、できることがどんどん狭まっていく。
窮屈になる。
それはとても嫌だ。
できることを広げたいとするならば、「自信」なんていう曖昧な尺度を捨て去る努力をする他ないんじゃないかって、ある頃から思うようになった。
タスクの細分化、自動化。
意志力を使わずに自分を動かすこと。
別に上の本を読む必要は無い。
有用な本だけどね。
自信が尺度にならないなら、物事を定量化して捉えるしか無い。
全ての物事を数値で捉える。
ダイエットがとりわけ分かりやすい。
体重という尺度がある。
体重を減らしたいという大目標を立てる。
したいことは、ジョギングと食事制限。一週間、自分の身体で実験をする。
一週間で何を削り得たか。何キロ走れたか。走った日数は?この強度でどれくらい続けられると思ったか?目標は上方修正すべきか否か?
ここに「自信」なんていう要素は全く関係ない。
あるのは、冷徹な「数字」と「やるかやらないか」っていう、それだけの話だ。
……とはいえ。
例えば「明日42キロ走ってくれ。1時間以内に。お前だけの力で」
って言われたとする。
あ、この場合「車を使ってもいいんだよな?」みたいなトンチ合戦的な意味じゃなくて、言葉通りの意味として考えて下さい。
そのとき、僕らは即座に「無理です」って応えるだろう、誰でも。
「何故」「無理です」って応えるのだろう?
「不可能」と判断したからだ。誰でも判断できる。
でも、何故「不可能」と判断するのだろう?
それは、「自信がないから」?
これが「42キロ走ってくれ、3時間以内に」だったら「やれます」って応える人も出てくるだろう。
結局それは、「自信がある」ってことになってしまいはしないか。
こういうことを考えると、やはり「やるかやらないか」の選定基準としては「自信」っていうのはどうしても登場しうるのではないか、と思わないでもない。
だけどまぁ、極端な話を考えず、「目先のやりたいこと」を考えるとき。
「痩せたい」でも「禁煙したい」でもいい。
そのとき、やっぱり「自信」は邪魔になるのではないか。
少なくとも……
「自信など邪魔だ」と、そう考えておいたほうが楽なのかもしれないね。
合理的判断としての、自信からの脱却。
誰かに頼られるためには、自分が自分を頼ることは必要だとは思う。でもそれって「自信」ナノ?っていう問題はあるけど、それはまたいつか解決しよう。
ではまた次の記事で。