こんにちは、大学では哲学しようと思ってたらフランス文学勉強してたMistirです。
今日はリクエストに答えるよ!
なるほどなるほど。お答えいたしましょう。
カントの倫理学によると理性の命ずるトコロに従わぬ善は善にならなかったと思いますし、ニーチェは同情を根本的にダメって言いますから募金がそもそもダメで……
……って、多分こんな話誰も求めてないし僕も無理っすw
ってことで、哲学的観点っつーより普段僕が考えてることを素直に語ります。
こういう話をすると、あまりにも有名なこのセリフがチラつく。
ハガレン(鋼の錬金術師)が元ネタなんですよね、このセリフ。
さて、このセリフをめぐって以下のような記事が。
ザーッと見て、「ずれてるなぁ……」って感じで見てました。
その中で……しかもコメント欄で「お、ようやく僕の思ってることを語ってる人がいる!」と思ったものを引用します。
偽善って日本語が、二種類の行動について指してると思う
俺らが嫌う類の偽善は「純粋な善意かも知れないけど結果的に善行になってない行動」で、
「やらない善よりやる偽善」が指すほうの偽善は「純粋な善意じゃなくても結果的に善行になってる行動」っていう
そう、そうなんですよ。
「偽善」って言葉がブレてる。
僕の記憶が正しければ、ハガレンのこのセリフは
医者が敵を治療しようとする
↓
敵「お前ら自分のポイント上げるためにそうしてるだけだろ!」
↓
医者「うるせえ!やらない善よりやる偽善だ!」
って文脈なんですね。
このパターンを内的偽善と名付けましょう。
つまり、批判者は「内面の打算」を批判している。
ついでにほんのちょっと知ったかぶりすると、カント倫理学の場合「実際に自分が心からそうしなければと思ってやった行為じゃない限り『善』と認められない」ってルールがあるので、このおじさんが実際に「ポイント上げるため」に治療行為してた場合それは完全にアウトです。ま、そういうカントのノリをフランスのシラーは思いっきりバカにしててこれが笑えるのですが……余談ですね。
内的偽善と名付けられる偽善があるってことは、外的偽善もあるわけですね。
僕が思い出すのは、これだ。
高校生の頃に、反割り箸運動があった。箸が森林伐採に繋がっているとのこと。だが割り箸程度に本物の木を使うわけもなく、実際には間伐材を使っている日本の零細企業を潰しただけの活動だった。その時も運動の中心はアーティストだったので、アーティストのエコ活動には不信感がある。
— 山本ゆうご (@yugo_yamamoto) 2011, 9月 18
これが実話なのかどうかはここでは保留して、事例として分かりやすいためにこのツイートを参照して語ることにしよう。
アーティストの内面のバカらしさ、あるいは「内的偽善」と同様に功名心かもしれないけど、それと加えると「結果」も批判されていることにお気付きだろう。
偽善について語るとき、まずこの2つは分離しなければならない。
……さて。
おそらくだけど……。
この論理展開、おそらくだけど厳密な「学問」の領域で語ろうとすると、多分ボコボコにされる。
何故かっつーと、今回分かりやすく二分したけど、本当はここまで明確に二分できないから。
特に「外的偽善」の方がごちゃごちゃしてて、「じゃあ結果的に誰も不幸になってないなら批判されないの?」とか「いや、コレ結局批判されてるのアーティストの功名心じゃね?」って話になってきて、実にややこしい。
ついでに言えば、「風が吹けば桶屋が儲かるメソッド」を適用すればもっともっと語れてしまう。どういうことか。
「やらない善よりやる偽善だ!」と言ったこの人が
救った人たちが超覚醒を遂げて、1億人規模の大虐殺をしてしまうかもしれない。
もちろんこれは極論だけど、極論を考えることは非常に思考の整理に役立つ。
またまた余談だけど、高校生諸君で学校の勉強に悩んでる人は「極端に考える」ことをオススメする。
例えば円安と円高の仕組みって教わるじゃん?それ考えるとき、僕は暗記せずに「1ドル1円の世界Aと1ドル100000000000億円の世界Bでは何が起こるのか」を試験本番に考えるっつーことをしてた。
例えば世界Aの場合。
アメリカ人「車10000ドルで売りマース!いつも通りデース!」
日本人「マジか1万円でええんか……」
つまり買う側、輸入側が超得をする。
逆ならどうか。
アメリカ人「車10000ドルで売りマース!やっぱりいつも通りデース!」
日本人「国家予算でも足りねえ」
そういうことです。
余談終わり。
……何の話だっけ?そうそう、「内的偽善」でも十分に「結果」としての害悪を導き出せるよ、って話だ。
さらに言えば、「え?僕が助けた人が1万人殺したところでそれ僕の責任?」って話まで持ち込むと、もう話終わりません。
多分そういった厳密な議論は趣味としてやる分には良いだろうけど、僕にリクエストされた方はそれを求めてないと思うし、僕もここまで考えてると普段募金さえできなくなっちゃうから……
だから、思考のサポートツールとして程度に捉えてくださいね。この「内的偽善」と「外的偽善」の考え方。
その前提の上で考えてみましょう。
僕が募金します。
募金された人は助かります。
僕は(仮に名誉を求めていたとして)名誉と自己満足が得られます。
Win-Win!
それを見たAさんが僕を批判しました、「お前は見栄張ってるだけやろ」と。
僕は多分こう言います。
お前誰だよ!僕がいつお前に迷惑かけた!黙れ人間のゴミめが!!!!
まあ、多分この流れはそんなに不自然じゃないでしょう。
一方。
僕はアーティストです。
割り箸運動に反対してエコを歌いました。
結果、零細企業が潰れ、たくさんの人が路頭に迷いました。
それを見たAさんが僕を批判しました。「お前は見栄張ってるだけやろ」と。
そのとき……
多分、僕は言い返せねえなぁ。
後者の「お前は見栄張ってるだけやろ」には、やっぱり「その結果としてどれだけの人間が不幸になったんだ」が含意されてると思うんだ。
そろそろ結論に入ろうか。
僕は「内的偽善」はやっていいと思ってる。批判するAさんなんて放っておけば良い。多分Aさんも僕ほど深くは考えてない。
「外的偽善」は、まあなるべくやめといたほうが良いが、どうしてもやるべきだと思ったときはやったほうが良い。
「え?外的偽善は問答無用でやめたほうが良いんじゃないのか」
と思った?
例えば、「愛する人を守るために1000人を傷つける」。これも外的偽善に入れるならどうでしょう。
もしかしたらこれは別のレイヤーでとらえたほうが良いかもしれないけど、あえて一緒にしよう。解決法が同じだから。
じゃ、どうやって「内的偽善」と「外的偽善」を見分けるのか?あるいはどうやって「これは外的偽善に位置するかもしれないけど、それでもやったほうが良いのだ」って判断するのか?
さー、本当にややこしくややこしく語ったこの記事の極めてシンプルな結論。
「自分がやれば良いと思ったらやりゃいい」。
「その上で批判されたなら、それは受け入れりゃいい」。
「その批判が間違ってるなら、無視するか間違ってるって主張すりゃいい」。
そういうことです。
どういうことだよ!
……いつものアドラー先生に頼ります。
いやー、いつ読んでもキレイにまとまってますねぇ。
……アレ?
俺、語った意味あったか……?
ま、いっか!!
さて、ここからは別の話を。
非常に興味深い話だ。
非常に興味深い話なんだが……
これはまた別の日に語ったほうが良いかもなぁ。
みんな、そろそろ疲れたでしょう?
つまるところ、この記事は「続きます」。
次のテーマは
「人に好かれるために行う行為の気持ち悪さ」と
「善を受け入れることを強制する世の中の気持ち悪さ」
の二本でお送りします!
僕の記事がこんなに「キレイに」終わるわけがないじゃないですか……
次は多分、口悪くなるな……
ま、なるべく丁寧に語るので読んでね!
ここまでお読みいただきありがとうございました。
ではまた。次の更新は明日か明後日かな。
【追記】
続きです。
いつも楽しく見ています。この度はこの問題とも関係して、かねてより気になっていることがあってコメントしました。
mistirさんは「募金をすること」もっと言うと「募金をしたと公言すること」が時折偽善であると非難の対象になることについてどう思われますか?
先日国連の児童ポルノ問題が取りざたされてから、表現規制反対派として、また一方で実際の児童への救済を是非強めてほしいと考えている立場から、自分でできることは何か考えた結果、児童保育施設や支援団体に寄付を行うことにしました
しかしそれを公に発言するべきか考えあぐねているのは、日本では寄付を行うこと、行ったと発言することを偽善と見做し非難の対象になりうることを知っていたからです。
私としては「ネット上で議論を紛糾させることも必要だが、現実の児童を保護する視点が抜けているのでは」と一種問題提起したい気持ちもあって公表したいと考えていたのですが、そういった懸念から結局発言できていません
どうしてこの社会では募金をすることやしたと発言することがしばしば非難の対象になるのか、一度考察を伺いたいです。
よろしくお願いします。