吾輩は陰キャである。
名前をMistirという。
どこでこうなったのか頓(とん)と見当がつかぬ。何でも薄暗いじめじめした所でわんわん泣いていた事だけは記憶している。吾輩はここで始めて人間というものを見た。
しかもあとで聞くとそれは陽キャという人間中で一番獰悪(どうあく)な種族であったそうだ。この陽キャというのは時折吾輩を嘲笑うが基本同一種族のみで完結しており、吾輩に干渉しないことのほうが多い。だが吾輩を含む我々陰キャは同一種族のみで完結しているようで微妙に完結しておらず、かの陽キャらの生態を眺め見て「我らはこうはならぬ」という醜悪で贋作に他ならぬ決心を抱き、その実羨望に満たされながら血涙を流すのだ。
ーーMistir『吾輩は陰キャである』より引用
茶番ここまで。
もうやりたいこと終わったのであとはおまけです。
「陰」とか「陽」ってそもそもなんなんだ
「陰キャ」「陽キャ」っていう言葉がよく見られるようになって久しい。
「陰キャ」とは「陰気なキャラ」のことであり、どうやらそこから「抜け出す」方法だとか、そういった記事もネット上に見られるようだ。
吾輩……僕はずっと「陰キャ」という概念について考えている。
きっかけは僕の好きな某バーチャルYouTuberが一部から
「◯◯は陰キャ感が抑えきれないから苦手」
みたいに言われてたからだ。
実際そのバーチャルYouTuberは「パリピ(パーリィピーポー ≒ 陽キャ)」への異様なまでのヘイトを隠していないし、確かに……
そこはかとない「陰キャ」感は拭えない。
というかそもそも、そのバーチャルYouTuberの何が僕は好きかって、その「そこはかとない陰のオーラ」なのである。
だけど不思議な話だ。
そのバーチャルYouTuberは別に根暗なわけじゃない。
ちょっとサイコパス気味だけど、例えば「陰気でコミュニケーションが取れない」とか、そういった型には当てはまっていないはずなのだ。
にも関わらず。
確かに、「陰」としか解釈できない何らかの「オーラ」をまとっている。
……もしかすると。
「陰」「陽」という概念は、「陰気」とかそういった概念に収まりきらない……なんらかの、もっと大きな概念なのではないか?
みなさんの周りにもいるだろう。「ポジティブでコミュニケーションに難があるわけでもないのに陰のオーラを纏っている人」が。
そういった意味で考えると、僕は確実に陰キャである。
上手く言えないが、とにかく確実に陰キャなのである。
あらかじめ断っておくと、「◯◯な人は陰キャ」といったような丁寧な「分類」を行ったり、その分類の根拠について論理的に語ったりしたいわけではない。
理由は明確で、先程述べたような
「ポジティブでコミュニケーションに難があるわけでもないのに陰のオーラを纏っている人」
について、どうしてそう思わされるのかといった理由など……
どう頑張っても論理的に語れるものではないからだ。
そもそも僕が「陰キャ」について延々と考えている理由も知人から「闇の存在」と呼ばれて、ずっとそのことについて考えていたからでもある。
確かに僕は「闇の存在」だ……というそんな確信がどこかにあるのだ。
※厨二病だと一笑に付して頂いても一向に構わないのだが、当ブログを昔からお読みいただいている方にはなんとなく理解頂けると思う。
じゃあ結局何が言いたいんだ?というと……
結論を言えば
「どう頑張っても、どう足掻いても『陰』としか言いようのない存在がいて、抜け出そうと思って努力すれば抜け出せなくもないのだろうけど、多くの場合非効率だし意味ない」ということ。
その上で、陰キャである吾輩が結局どういったスタンスでこの世を生き延びているのかという話がしたい。
それだけである。
さて。
太宰治の『人間失格』後半のシーンに主人公とその知り合いが
「ある言葉についてそれが喜劇的な言葉なのか悲劇的な言葉なのか考えるゲーム」
をするシーンがある。
自分たちはその時、喜劇名詞、悲劇名詞の当てっこをはじめました。これは、自分の発明した遊戯で、名詞には、すべて男性名詞、女性名詞、中性名詞などの別があるけれども、それと同時に、喜劇名詞、悲劇名詞の区別があって然るべきだ、たとえば、汽船と汽車はいずれも悲劇名詞で、市電とバスは、いずれも喜劇名詞、なぜそうなのか、それのわからぬ者は芸術を談ずるに足らん、喜劇に一個でも悲劇名詞をさしはさんでいる劇作家は、既にそれだけで落第、悲劇の場合もまた然り、といったようなわけなのでした。
「いいかい? 煙草は?」
と自分が問います。
「トラ。(悲劇 の略)」
と堀木が言下に答えます。
「薬は?」
「粉薬かい? 丸薬かい?」
「注射」
「トラ」
「そうかな? ホルモン注射もあるしねえ」
「いや、断然トラだ。針が第一、お前、立派なトラじゃないか」
「よし、負けて置こう。しかし、君、薬や医者はね、あれで案外、コメ(喜劇 の略)なんだぜ。死は?」
「コメ。牧師も和尚 も然りじゃね」
「大出来。そうして、生はトラだなあ」
「ちがう。それも、コメ」
「いや、それでは、何でもかでも皆コメになってしまう。ではね、もう一つおたずねするが、漫画家は? よもや、コメとは言えませんでしょう?」
「トラ、トラ。大悲劇名詞!」
「なんだ、大トラは君のほうだぜ」
こんな、下手な駄洒落 みたいな事になってしまっては、つまらないのですけど、しかし自分たちはその遊戯を、世界のサロンにも嘗 つて存しなかった頗 る気のきいたものだと得意がっていたのでした。
このゲームを人にも適用してみて、その人が「陰」か「陽」か考えてみると結構面白い。多分誰の中にも「あまり明るくないけど陽」に属する人や、「めちゃくちゃ明るいのに陰」に属する人、さまざまな人がイメージできるだろう。
※もっともこのゲームはお遊び程度の意味しか持たず、他人に突きつけるべきことではない。
ちなみにこのゲームを歌手(とその曲)でやってみると楽しい。
物悲しいバラードを歌っているから陰、明るい曲を歌っているから陽とは限らないのはよく分かるはずだ。
具体的に言うと炎上しそうだから言わないけど。
で。
そのゲームを「自分を対象に」やってみたら、もう……
どう考えても「陰」にしか自分は属さないのだ。それはもう、確実に。
その根拠を追いかけるつもりはない。
というより、その根拠はこの一言で納得頂けるだろう。
「陽キャはこんなブログ書かへんで」と。
そして気付いたこと
「陽キャ」が苦手だ。
なんか苦手だ。会ったら即座に自分の闇に引きずり込みたくなる。
僕の悪いところである。知っている。
なんというか、誰だって大なり小なり闇は抱えているものだ。
それは分かっている。
だけどこの歳まで生きてきて気付いた。
……その「闇」の総量の大小は、想像を遥かに超えて個々人によって差があるようだ。
で、闇を抱えすぎている場合「努力とマインドセットの整理によって」ある程度以上、解消できるようである。
「昔は陰キャだったけど陽キャになりました」みたいな。
吾輩からすれば、笑止千万である。
闇を抱えて生きていけ。それが鈍く輝くのだ。
そうして吾輩も生きてきた。
だからこそ、賛同者もいたのだ。
……そうやって、生きてきた。のだがなぁ。
気付いたら「陰」というよりも「負」のオーラに飲まれまくってる自分に気づいた。
最近妬みと僻みが凄い。
幸せそうなあらゆるものが妬ましい。
自分よりカッコイイ人が羨ましい。
佐藤健が許せない。何故神はあんな造形をこの世に残したんだ。不平等すぎるだろう。あれはないわ。ない。
……で、気付いたのだ。
「闇に飲まれても、負に落ちてはならない」と。
気付いたら完全に同一視していた。どんどんネガティブを振りまいている自分に気付いた。
それじゃダメなのだ。
オチはない。
とりあえずこの記事……否、おまけパートは日頃僕がネガティブをあまりに振りまいてることに気付いたから、贖罪の意味で書いた。それだけだ。
お読み頂きありがとうございました。
ではまた次の記事でお会いしましょう。