タイトル通りです。
mistclast.hatenablog.com……さすがにびっくりした。
1万3000字って僕の過去最長の記事並みなんだけど……
とりあえず返信する
とりあえず……
引用しつつ返信しますね。
"ロイヤルオーク" 様からのコメントです。
こんにちは!いつも楽しく拝読させて頂いております!
もう吹っ切られてるっぽいですけど、いくつか前のブログで、Mistirさんそのものに関する関心が薄いって悩まれてましたが、
ぶっちゃけた話私はバイク趣味はともかく
哲学的な話をされるMistirさんにはめっちゃ興味があります笑
だから読んでます笑
そういう読者もいるので頑張って下さい笑
ところでそもそもなんですが、
なんでMistirさんが思うようなレスポンスが来ないかって言ったら、
それは「いいね」「それな」「ファンです、頑張って下さい」みたいな軽い・薄い・気休めに近いもの以外の、
親身で内容が濃い、時には対談ができそうなほど深い内容のものを読者が返そうと思ったら、長文になるからってのもあるんじゃないでしょうか?
Twitterという公開の場ですら
短文でさえも「FF外から失礼します」と挨拶する感じのこのSNS社会ですから、
いきなり長文を投下すると引いちゃうと思いますし、私もされたらそう思います笑。
いや、ありがたい限りです。
「僕に関する関心が薄い」ってのは以前書いたこのくだりだと思う。
当然だが、誰もMistirという人間の好きなことに特に興味はないのだ。
それはまぁ当然のことなのでどうでもいい。
が、それを自覚した上で「好きなことだけを書くぞ!」と気合いを入れても、どこか虚しくて、すり抜けていく。
これ、確かに……
「みんなもっと俺に関心を持ってくれ!好きと言ってくれ!」という気持ちがまったくない……と言えば嘘になっちゃうかもしれないけれど……
ここに書いたことにはもう少し裏がありまして。
たまに僕の記事がバズって数百、数百とツイートされることがあるんだけど、そのときに「ああ、あの筆者の書いた文章か」っていう反応はほぼ皆無なのね。
もちろんそんな反応があるのは有名なARuFa氏のように、爆笑記事を安定してコンスタントに供給してる……とか、そういうレベルの人だけだろうから当然と言えば当然。
当然ではあるんだけど……
言い換えるとそれは、バズるのは「たまたまタイミングが良くて社会の関心と噛み合ったから」っていう、それだけの話だってことですよね。
じゃあ、僕が書く記事は
「調査してみたいと思います!(中身のない記事) ……いかがでしたか?」
系の記事と何が違うんだ、って思っちゃうわけですよ。たまに。
それでも自分が「いや、俺はきっちり文章を『書いた』」って断言できるならいいんだけど、そう簡単にはそのレベルの記事って書けないんですよね。
この辺りの記事は確実に「ちゃんと書いた」記事だけど、全部このクオリティで書けてるかというと全然そんなことはない気がする。
ただ、後で詳しく書くけれど、極論「いかがでしたか?」の量産になってしまったとしても、「書くかどうか悩んで疲れる」くらいなら書いちまおう、っていうのが「今」の発想です。
だから「筆者自身にみんなが関心を持ってくれない」っていうのは、言葉通りの意味ではそこまで悩んではいません。
引用に戻ります。
ただ、一個前のMistirさんの記事を拝読するに、「もっと構って♡」と言ってると勝手に解釈したので笑、前から言ってみたいことがあったので、引くほど長いと思いますが、思ったことを書かせてもらいます(既に長い)。
なんでわざわざ書くかと申しますと、Mistirさんが100%考えてなさそうな考え方だからです。
おんなじ思考法をされてネガティブが晴れないなら、全く違う考え方も検討された方が、ネガティブを晴らすにあたって効率的ではないでしょうか?
140字以内の感想だと寂しい、万単位の感想だと重い。いきなりこんなの投下されて、心の底から心中お察しします。
私には、以下の内容を、140字以内にわかるようにまとめる文才が無いのです。
Mistirさんは前から趣味のこととか仕事のこととか社会のこととかいろいろ悩まれて、それに疲れておられるようですが、
それはぶっちゃけると社会や時事やご自身の生活に対して理性的な凄い分析をいつもされていますが、
同時にそれらに対して凄く怒ったり鬱っぽくなってたりと、情報や世界のさまざまなものに対して感情で過敏に反応し過ぎてるからではないでしょうか?
特にSNSをやっている人は大体共通すると思いますが、過多な情報に対して、刺激依存症になってるからではないでしょうか?(実際何度もTwitterやめようとされてますし)
つまり、物事に対して激しく感情を揺さぶられるのを、やめられる努力をされてはどうでしょうか?
楽しくブログを書いて生きるために分析をされているはずなのに、なぜか分析をすることによってそれに対して激しく喜怒哀楽が出て(特に怒哀)、感情に振り回されてるようにずっと見えてます。
社会や時事に関して何を感じても、その問題は、解決しようと心から思いつつ、同時にそれを解決できる適切な行動を誰かが取らない限り、何も変わるわけがないのです。
Mistirさんご自身が行動を起こそうとまで思っていないならば、感情的になっても不毛ですし、別に個人が全ての社会問題に関与しなければならないことなんてないので、
今の自分に対して著しい不利益でも起きない限り、淡々とブログにだけ理性的に書いて、後は感情的にも放置で良いのではないでしょうか?
「もっと構って♡」は正しいです。もっと構って♡
ブログ書いてる人間で「俺は反応なくてもいい」なんて言える人間は超少数派か、嘘つきかのどっちかだと思ってます。
その上で、……
> 物事に対して激しく感情を揺さぶられるのを、やめられる努力をされてはどうでしょうか?
僕が「100%考えていない考え方」だと挙げられているけど、申し訳ないですが……
残念ながら、ハズレです。
というのも、僕はこの本を忘れた頃に読み返すようにしてます。
反応しない練習 あらゆる悩みが消えていくブッダの超・合理的な「考え方」
- 作者: 草薙龍瞬
- 出版社/メーカー: KADOKAWA/中経出版
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そのまんまですね。
アドラー心理学もそうですが……
結局、外の世界に対して勝手に「心が反応して」疲れてる、っていうのはもちろんあるでしょう。
それでTwitterをやめたり、ネットから離れてみたり、色々やってみた。
それは明確な「社会に対する反応を休止する」ための試みだった。当然のようにマインドフルネス関連の本も読み漁った。
世界のエリートがやっている 最高の休息法――「脳科学×瞑想」で集中力が高まる
- 作者: 久賀谷亮
- 出版社/メーカー: ダイヤモンド社
- 発売日: 2016/07/29
- メディア: 単行本(ソフトカバー)
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けれど、結局特に変化はなかったわけです。
というよりどうも「人生の縛りプレイ」しているような気分になってきて、それはそれでどうなんだと思えてきた。
究極的に要約してしまうと「現状を『満たされている』と認識する」ために心を磨くっていうのが上記2冊の到着地点になるわけですが、それって難しい……というより、ほぼ不可能だと思うんですよ。
その点で言えばTODOリストの運用を変えることの方がライフハックとして劇的な効果があった。その件はまた別の機会に書きます。
「現状を『満たされている』と認識する」ことを念頭に置くと、もしも「今の仕事は十分だ」と1年前の自分が思っていたら、今僕は独立できていなかったでしょうし、「今の仕事は不十分だ」って何かしら思いながら独立した今の自分を僕は肯定しているわけで。
もちろんそれは「正しく『不満』を昇華できた例だ」というように「後付け」で解釈することはできますよ?
でも「これは『正しい』不満だ」とか「これは『正しくない』不満だ」とか判断してる暇があるなら、……
……ちょっと狂気じみてますが、片っ端から不満を挙げて、片っ端から解消していくっていう、その方が性に合ってるのかなーという気がしてきているのです、最近。
> 淡々とブログにだけ理性的に書いて、後は感情的にも放置で良いのではないでしょうか?
これは本当にそう思います。未だにそうしようと思ってはいます。できるかどうかは別にして。
続けます。
また、私生活に関してどう感じるのかも月並みによく言われることではありますが、全ては気の持ちようです。
前からMistirさんは、
『「コロコロコミックの主人公的な対象への執着 ≒ 自我の対象への同一化」に対する羨望』を望まれている(た)とか、今回の記事でも『そんな中で、ルーティーンをルーティーンにしないためにこそ頑張るわけなんだけど。』等と書かれています。要は、ご自身のアイデンティティに直結する永続的で刺激的な何かを生活においてなんとなく探し求められていると推察しているのですが、
人よりも様々な観点から分析できるあなたがここまで探しても見つからないのであれば、
それは無いということなので、その道とは違う生き方を探すことを検討された方が良いのではないでしょうか?
そして私が思うに、
そもそも刺激的なものを追い求めているせいで現に今、Mistirさんは苦しまれているのだから、
実は刺激的な生活を追うのは、違法ドラッグのように楽しいものと見せかけて、トータルを客観的に分析してみたら、実は苦しみの方が多いものなのではないのでしょうか?
もっと言えば、物事に執着するから、人は苦しくなりそうなので、むしろ物事に対する感情を手放す・一定の距離感を保つ・物事に対して過敏に反応しがちなのを意識的に抑制するなど、
同じことをやり続けてダメなのですから、逆な方を前向きに検討されてみてはどうでしょうか?
じゃあ刺激的以外の対案は何だと言われましたら、
それはどんな状況においても穏やかであることではないでしょうか?
ずっと穏やかでいるには常に落ち着いていなくてはなりません。
刺激的で興奮している時の心は、落ち着いているものなのでしょうか?
もしかすると、いつも穏やかでいればそれでいいのに、いちいち刺激的に一喜一憂するから、心が疲れるのではないのでしょうか?
一日中穏やかであった日と、一日中感情が揺さぶられた日を比較できれば、検証できると思いますが、今までされたことはあるのでしょうか?
刺激的なものを追うことだけが全てだと、生き方に対する見解を、固執され続けていたのではないのでしょうか?
人間の日常の心がどのような精神状態であるべきなのかについては、私が今言ったこと以外でも、多角的な観点から検討されると良いと思いますが、
今この社会において、「地球は丸い」とか、「天動説ではなく地動説」のように、普遍的で誰もが認める現代科学的なものとして、語られている説は、実は「一見」見当たらないのではないでしょうか?
もしそうだったとしたら、そもそも目標とか、ゴールを見つける段階で、既に大変で重大なことなのではないのでしょうか?
うーん、やっぱりよく分かってくれてますね。
その通り。感情が揺さぶられる何かを探してる。
フラワーカンパニーズ 『深夜高速(25th Annivarsary Mix)』
「生きていてよかった」、そんな夜を探してる。
……と、こうやって音楽で例えること自体が僕の精神性を物語ってて、僕は僕を、僕の人生を「ストーリーに押し込めようとしてる」っていう実感はある。
自分の人生が映画じみていれば映画じみているほどいい。
最近はマシになったけれど、多分少しそういう発想の傾向が強い。
それが良いことか、悪いことか。
そうやって二分すること自体が良いことか、悪いことか。
……よく分からないけれど……
このあたりで、最近の心境の変化について少しお話したいと思う。
最近またホリエモンの本をまた読むようになっているんだけど……
僕がホリエモンにここまで関心を寄せてしまうのは、「分かるようで本質的に分からない、本質的に分からないようで、そして自分と対極的な存在であるようでいて、どこか近いところがある」と感じているからだ。
そりゃ、他人のことは本質的に分からない。
当然だ。
でもホリエモンに関しては言ってることは分かるんだけれど極論が多いとか、そういうこと以上に「何故ここまでビジネスを広げることを人生の大前提みたいな場所に置けるんだろう?」という疑問が強かった。
僕個人としては、仕事は生きるために必要な最低限をクリアした後は趣味みたいなものだと思っている。
だからあまりにも仕事に精力的な人の気持ちがいまいち分からなかった。
僕がバイクを好きなように彼らは仕事について語る。
それは彼らの趣味だから構わない。
けれど、それが「この世で最も重要なこと」のように語るのは、正直少し傲慢ではないか?
というような……腹立たしさというほどではないけれど、少なくとも……
少し、嫌だ。
そんな気持ちがあった。
それが最近、この記述でやっとホリエモンの言いたいことが分かった気がした。
『時間革命』の記載なんだけど、
まず言えるのは、やりたいことや夢中になれることは、探すようなものではないということだ。
これはすべてに言えることだが、そもそもぼくは「個人の努力」を信じていない。
ぼくの頭のなかにあるのは、一本の大きな「川」だ。
そこにプカプカと浮かびながら、流されているのがぼくたち人間である。
必死で手足をバタつかせれば、川の対岸に行けたりすることはあるかもしれない。がんばって練習をすれば、泳ぎがうまくなったりもするだろうし、もともと泳ぎの能力が高い人もいるに違いない。
だがそれでも、流れに逆らって泳ぎ続けることはできない。
下流に向かってただ流されるしかないという点では、みんな一緒である。
だからぼくは、ムダな努力はしない。流されるがままだ。
力を抜いて水面に浮かんでいれば、余計なストレスはないし、運悪く水を飲んでしまうこともない。じつに快適なものだ。
そうやってリラックスしていると、ときどき川のどこからか「果物」がこちらに流れてくる。手を伸ばしてかじってみると、とてつもなくうまい。そうやって次々に視界に入ってきた「果物」に夢中になっているのが、ぼくの人生だ。
(中略)「川の流れに逆らうな」という話をすると、意外そうな顔をする人がけっこういる。
「スケジュールを埋め尽くし、『多動』の状態をつくれ」というぼくの主張が、どうやらこの「流されるがまま」と矛盾する感じがするようだ。
そういう人は、「動き回る」とか「夢中になる」という言葉を聞いたとき、何かものすごいエネルギーを注ぎ込むようなアクションをイメージしているのではないだろうか。実際、そうやって周囲に「熱」をまき散らしながら動いているビジネスパーソンはやたらと目立つので、こうした誤解が起こるのかもしれない
ただ、ぼくが言う「多動」は、こういう暑苦しい人たちのものとは根本的に違う。いつも説明に苦慮するのだが、あえて言葉にすれば「クールな熱中」とか「集中しているけどリラックス」というのが実感に近い。
川に流されながら、力を抜いてプカプカと浮かんでいると、次から次へとおいしそうな「果物」が現れる。ぼくはそれぞれに夢中になっているけど、わざわざ遠くに泳いでいったりはしないし、流れていくものを必死に追いかけたりもしない。
つまり、夢中になれるものが"向こうからやってくる"ような感覚であり、「多動」というのは、ある意味では究極の"受け身"なのだ。堀江 貴文『時間革命 1秒もムダに生きるな』21-22
この本全体と、この部分からホリエモンの思想の主軸がやっと分かったように思った。
それは「仏教的無常観の超積極的肯定」だと思う。
本人も仏教的だと指摘されることがある、と言っている。
それでやっとホリエモンの生き方自体も、ホリエモンの生き方に興味を持ってしまう自分自身のこともはっきりと「理解できた」気がした。
先述した草薙龍瞬氏の書籍やアドラー心理学系の本を読んで
「反応しない」
ことの大切さは嫌ほど分かるのだけれど、結局それは「実践する」となると物凄く難しいものであると今は思っている。というか、不可能だ。
「俺はもう穏やかだぜ」とか、そう思ってる人がいたら100%錯覚だ。
それならば……というわけではないけれど。
僕にできるのはホリエモンのトレースのほうがよっぽど近いかな、という気持ちになっている。
仏教的無常観とホリエモンの思想についての話は物凄く長くなってしまいそうなのでゆっくりとまた語りたいところです。
続けます。
……と言いたいところですが。
大体の疑問点にはもう答えた気がするので、これくらいにしておきます。
(というか1つ目のコメント1万2千字程度の中に?を104個も入れるのはさすがにやりすぎです。どれにどう答えたら良いのかわからなくなります……)
要するに、僕は多分安定した何かしらを未だに心のどこかで求めている。
一方で僕にできることは、多分ホリエモン流の「とにかく手を伸ばすこと」だけだと最近強く思うのです。
それは確信に近く、今こうやって文章を書いているのもその実践の一つです。
そうやっていれば、不安も悩みも忘れられるのは事実ですし。
そうやって「死への恐怖を忘れるために必死で動く」ホリエモンにちょっと近付いていく……のは多少複雑ではありますが。
ホリエモンになりたいわけではないので……
さて。
ここまでが……
1つ目のコメントへの返信です。
2つ目。
やったー!定期的にインターネッツの世界でバズるブロガーに褒めて貰えた
うれぴーーーーーーーーーーーーーーーーーー!!!!!!!!!!
とでもなると思ったか笑
甘いですね、それこそがまさに感情に振り回されるということなのです。
何様だ貴様wwww
あとこのツイートのことなら、驚きはしてるし「分かってくれてるなぁ」とは言ったけど褒めてるわけじゃねえ!!!!
待ってくれ、ちょっと待ってくれ。
— Mistir (@mistclast) October 5, 2019
僕のブログにコメントしてくれてるの、フォロワーさん?
ちょっとゆっくり読んでまた返事します。https://t.co/qcH9K1ctiI
……続けます。
現にあなたも今、Twitterを見るにこのままいなくなるかもしれないってちょっとだけ心配になったりしてませんでしたか笑
大丈夫ですよ、無視されない限り去りはしません。
なんかお話しして頂けそうだったので、変にヤキモキされるのも忍びないと思ったので取りあえず返信しました。
心穏やかにいたらどう?って提案させて頂いているのに、もしヤキモキさせているとしたら、かなり鬼畜なのではないでしょうか?笑
……念のため釘を刺しておきますが……
別に去って頂いても問題ないです……
ごめん……
いや、反応頂けるのはありがたいですし読んで頂けるのもありがたいですが……
ごめんなさい、2つ目のコメントは反応に困ります正直……
(コメント全文はこちらの記事を参照してください。)
……
歯切れが悪いまま終わります。
……
終わり!閉廷!以上!皆解散!
お読みいただきありがとうございました。
ではまた。