バイクでキャンプに行く。
ヘタなことにお金を使うより、星空の下で火を眺めて過ごすほうがよほど有意義で、これこそが良い人生だと思う。
一方で思う。
バイクもキャンプもタダではない。
……「これって『昼はうなぎ、夜はフレンチを食べながら清貧を説く』某大学教授と同じじゃね?」という考えがよぎる。
筆者は「絶対にこうはなるまい」と強く思い続けて生きてきた。
他にも「今の日本は拝金主義過ぎます。それはそうとして私はマンションの高層階に住んでますし、タクシーに月20万円使います。これはお金をあくまでツールとして使っているだけなので拝金主義的な発想ではありません」と主張する某氏のことを、筆者は強く強く強く批判する。
……というか、批判を通り越して憎しみに近い気持ちを抱いている。
それは筆者自身が貧乏の中で生きてきたから、という事情もあるのだが……
強いて言えば、このような人たちが知識人として持ち上げられた未来に、「貧乏だった頃の筆者」であるとか、そういった空間で「悪あがきしていた筆者」のような存在は、存在しない・してはならないものとして扱われるのではないか、と思えるからなのかもしれない。
もちろん、彼らの中に「貧困への想像力」というのはあるつもりなのだろう。
だがそれは極めて抽象的な想像力であり、個別具体的なものであるとは思えない。
一方で、筆者はどうなのか……
と、その話の前に、少し寄り道したい。
一本の缶コーヒー
缶コーヒーが好きだ。
手で淹れたコーヒーに及ぶ味ではないが、自販機で缶コーヒーを買ったときに覚える、独特な贅沢な気分。
他に代えられるものは無いのだ。
東京に上京したての頃、年収は300万円台で、毎日ヒーヒー言いながら生活していた。
一本の缶コーヒーを買うことすら躊躇っていた。
100円単位で日々を過ごしていた。
今は独立したりだとか色々経験して、一人で生きる分には特に問題ない程度には稼げている。
缶コーヒーで躊躇うことは、もうない。
だけど缶コーヒーを買うときに、いつも思い出す。
この一本の重さを。
……これは「俺は金持ちの『彼ら』とは違う価値観を持っているのだ!」と言いたいわけじゃない。
むしろ、どんどん「彼ら」に近づいている自分を意識していて、意識的にそれに対抗している、と言った方が近い。
死んだ友人と働けない友人
話が変わるが、去年4月、友人が死んだ。
最後の花火と言わんばかりに、使える金を全部酒や旅で溶かして、首をくくって死んでしまった。
生きていて欲しかった。
なんでもいいから、生きていて欲しかった。
別の友人だが、小学校の頃から仲が良い友だちに、一度会社で働いたあと働けなくなってしまった友人がいる。
そいつは小学校の頃航海士になりたい、と言っていた。*1
「なんだよ、今からでも目指せるじゃねえかよ。今からでも勉強して、なれよ、航海士」。
筆者は真剣にそう思う。
そして、こう思う。
「矛盾してないか?」と。
生きているだけで、十分なんじゃないのか?
自足的な人たち
最近好きな漫画がある。
詳しくは上記Togetterに任せるとして、現代のホラー呼ばわりされている漫画である。
一方筆者はIT系個人事業主で、現在思いつきで司法試験合格を目指している。*2
字面を見れば、とんでもない金と権力の亡者である。
そんな筆者がなぜ『こづかい万歳』を好むのかと言うと……
比較的好きなようにお金を使える現状、登場する人物を見下し、悦に浸るため……
ではなく。*3
「価値観をリセットするため」なのだと思う。
5巻に「レトロゲームで遊ぶことで精神を小学生の頃に巻き戻し、月1万円で乗り切る」という小学校教師が登場する。
「それもう司法試験合格とかの方が楽では……」と思わないでもないのだが、それはそれとして……
こういった人たちの人生に触れて、「最近レトロゲームで遊んでないな」「というか、レトロゲームでまったり遊ぶっていう気持ちを無くしてるな」と自省するのだ。
決して「そういった生き方も悪くない」と思うわけではない。
筆者は「月1万円で乗り切る」は耐えられない。*4
それでも、何かとても大事なことが『こづかい万歳』には書かれているような気がするのだ。
というより……
「生きる」ことの本質って、ある程度「お金に頼らず」満足する技法を学ぶことにあるんじゃないか、っていうのは常に思う。
大根の可食部の多さに気づくことだとか、散歩の良さに気づくとか、美味しい味噌汁の作り方だとか。
20代で「隠居」してしまった人もいることだし。
彼ら……『こづかい万歳』の登場人物や、年収90万円で東京で生きる大原扁理氏、「日本一有名なニート」のpha氏のような方々を合わせて便宜的に「自足的な人たち」と呼ぶとすると、彼らの生き方や文章は、どこか「ビジネス的成長!」やら「日本再興!」やら言ってる方々と比べると、非常に優しく、今後の時代に必要なもののように見える。
断っておくが、「自足的な人たち」の著書については、生活が苦しかった頃からずっと読んできた。だから「生活がラクになって、『自足的な人たち』の在り方に関心を抱くようになった」わけではないということは強調しておきたい。
……だが。その前提を置いたとしても。
「自足的な人たち」の在り方を肯定しながら、自分自身は事業を営み、あまつさえ司法試験合格すら目指す筆者は、これはもう……とんでもなく醜悪な存在なのではないだろうか……?
これはうなぎを食べながら清貧を説く大学教授と何が違うのだろうか。
消極的想像力を働かせる
色々仕事をしていると、「浪費」が好きな人とも付き合うことがある。
「自分は彼らとは違う」と思う。
……ん?これはマンションの高層階に住んでいる某氏と何が違うのだろうか。
……生活がラクになって、良くも悪くも「彼ら」……うなぎを食べる某氏とか、高層マンションに住む某氏のような、「お金のある彼ら」の気持ちが分かるようになってしまった自分を発見している。
「一度浪費したから浪費が不要だと気付いた」というヒロシと同じだ。
逆に言えば、浪費しないと気づけない。
だから浪費などできなかった、お金に困っていた頃の自分は「お金のある彼ら」の想像力の欠如について、心底不気味だった。
だが今は少し分かる。
多分「お金のある彼ら」の周りには「もっとお金のあるヤツら」がいて、そいつらと比べると「自分のお金の使い方はなんと有意義なのだろう」と、そう考えているのだと思う。
缶コーヒーが気楽に買えるようになって、やっと少し分かった。
それは、「お金のある彼ら」に対して、筆者の側が逆に「想像力」を身につけられた……ということなのかもしれない。
それは多分良いことなのだろうけど……
結局、人は自分の経験したものごとの範疇でしかものを考えられないんだな、と、少し切なくなる。
また、「自分が経験したこと」ですらも、だんだん忘れていく。
一本の缶コーヒーを惜しむ気持ちとか。
死んだ友人に「頑張らなくて良いからとにかく生きていて欲しかった」と思いながら、同時に「生きてるなら、頑張ろうよ!」と思う。
「自足的な人たち」に憧れながら、知識と力を欲するのもやめていない。
生きていると矛盾ばかりだ。
矛盾を抱えている自分に気付く。
疲れる。
そんな人生の中で大事なのは、「お金のある彼ら」と同類に陥らないための、想像力……
と結論付ける前に、ワンクッションある。
多分、「年収300万円台でキツかった」と書くと、「それだけあれば十分じゃないか、自分なんか……」と、そういう批判が出てきて、結果的に無限の「配慮」が必要になるという「想像」も可能だ。
けれどもう、それに関しては「まあそういう人もいるんだろうなぁ」くらいの「消極的想像力」をもった距離感……言い換えれば、「働かせながらも、溺れはしない程度の想像力」をもった距離感で十分なんじゃないかと思っている。
全てに配慮してたら、あまりにキリがない。
だけど世の中を「拝金主義者まみれ」と殴りかかった直後に「私はマンションの高層階に住んでいる」は行き過ぎだと思うし、それは「消極的想像力ですら欠如している」と筆者の基準では認定したくなる。
だが、そこまでは思わない人もたくさんいるだろう。
自分の抱える矛盾やら、想像力の欠如やらを認識した上で、どこかで割り切って、それでも各々が定めた「消極的な想像力」だけは抱えて、生きていく。
一本の缶コーヒーに思いを馳せるように。
友人に死んでほしくなかった気持ちを忘れないように。
都合の良い考え方だと言われればそれまでだけれど……筆者はそうやって緩く考えている。
その「緩さ」を、ただの都合の良さだけに済ませず、昇華させるために必要なのは、骨太な経験や、すぐに役立つものではない「教養」といったものなのではないか、と薄々感じている。
司法試験合格を目指しながら、勉強サボってブログを書き、それなりに働き、ツーリングやキャンプも楽しむ。
清濁併せ呑んで、自分勝手に楽しんで、それでもなお最低限の「消極的想像力」を失わないように生きていけば、どこかで自分なりに自足した生き方に至れるんじゃないか……とか。
そんなことを考えていたら、年が明けた。
新年あけましておめでとうございます。
今年もよろしくお願いします。
こんな感じで、今年も生きていこうと思います。