あんまり死ぬの怖がるとな、死にたくなっちゃんだよ
映画『ソナチネ』より
この記事では、
- 生きる意味が見つからなくて苦しい人
- 死ぬことが怖くて怖くて逆に死にそうな人
- 両方の人
に対し、様々な側面から、なるべく客観的に解決策を提示したい。
「生きる意味がないなら死ぬのなんて怖くないんじゃないの?」と思った人、あなたは健全だ。
いや、健全は言いすぎたかもしれない。
実際生きる意味が分からなすぎて死んでしまった人もいるのだから。
けれど、おそらく、「生きる意味が分からなすぎて死んでしまった人」ですら、死が怖くなかったわけではないと思う。
むしろ逆なのではないか。
生きる意味が分からないことと、死ぬことが怖いことは、十分両立するし、しかもそれどころか、双方が双方を強化する関係にある。
だからこそ、片方を解決することは片方を解決することに繋がる。
半信半疑で良い。多々脱線もする。それでも必要なことだけ書くつもりだ。
気軽に読んで欲しい。
筆者について、あるいは死ぬのが怖いということについて
筆者は軽度のタナトフォビアだ。
「軽度」は自己診断で、もしかすると重度なのかもしれない。というか軽度か重度かの境目なんか知らない。
まぁとにかく、日常生活は送れているレベルだ。
……いや、実は微妙なラインなのかもしれない。
楽しい飲み会の場で、トイレに行ったとき、ふと自分が死にゆく存在だって気付いて、過呼吸に似た症状が出て、落ち着くまで随分時間がかかったことがある。
寝る前に似た発作が出たこともある。
以下の感覚は非常によく分かる。
死恐怖症(タナトフォビア)は漠然と未知の死が怖いというケースと、自分が確実に死する存在であると脳が直感的に理解して発作的な絶望に襲われる2パターンある。普段脳はこの感覚に至らないようにフィルターをかけてるので、後者の感覚を感じたことがある人はそんなに居ない気がする。
— Nem (@Nem_P) 2023年1月23日
ここでいう「フィルター」が、割と頻繁に外れる。
この感覚が無い人が分からない。
それで考えて考えて、昔こんなことを書いた。
このときは対症療法的なところにしかたどり着いていなかった。
今回はもう少し先までたどり着いたつもりだ。
生きる意味について
さて、少し話を変えて生きる意味について語りたい。
急に話が変わるようだが、最終的にはひとつのところに収束するので、気長に読んで欲しい。
最近こんな動画を観た。
この動画は興味深い内容なんだけど、詳細は省くとして、こんなことを言っていた。
人生に目的や意味がないと感じるなら次の質問に答えてください
"何のために生きてる?"
"何のためなら死ねる?"
この質問に答えられないと存在意義を見失います
(上記動画 5:50付近)
おそらくこの学者は、非常に優秀な人なんだろう。
非常に優秀だからこそ、基本的なことが分かっていない。
冷静に考えてみて欲しい。
「人生に目的や意味がないと感じる」人が、「何のために生きてる?」か考えて、答えが出るはずがあるか?
翻訳の問題なのかもしれないけれど、あまりにひどい。
一応原文も確認したけれど、「人生」は客観的意味で、「何のために生きてる?」はおそらく「自分が」という主観的意味なのだと思われる。
いや、だとしても、だ。
「私は客観的に『人生』には意味がないと思いますが、『私の人生』にはこういう『ミッション』があって生きる意味があると思います」ってなる人。
そんな人、いないことはないにせよ、そんないるか?
少なくともここまで読んでくれてる人だったら、ため息しか出ないんじゃないか。
そんなの考えてると頭がおかしくなるわ。
学者先生よ、あなたは「運動したいんですができなくて困ってるんです」って人に「なぜ運動できないのか考えてください」って言うのか?
……いやこれは言う人いそうだな。例えが悪い。
とにかく。
あくまで個人の考えだが、「人生に意味がないと思う」人は「私は何のために生きてるのか」なんて分からないと思う。
もちろんなんらかの宗教的体験や大きな体験を経て、自分の人生に意味を見出す人もいるだろう。その人のことを悪く言う気はない。
でも、それは基本的に自発的に見つけられるものではない。
まして、「何のためなら死ねるか?」
笑わせんじゃないよ。
タナトフォビアがそれに答えるとしたら「死なないためなら死ねる」としか答えられませんわ。
ということで、私は一生幸せになれないことが確定しました。
ゲームオーバーです!
みなさんも僕と一緒に不幸になろうね!
では終わらないのでご安心ください。
大「生きる意味」時代
「生きる意味」が問われるようになって久しい。
宮崎駿『君たちはどう生きるか』はとても良い映画だった。
モチーフ(原作ではない)である吉野源三郎『君たちはどう生きるか』も読んだ。
共産主義思想家による啓蒙書って感じだった。
後半の「どうやって自らの罪を認めて生きていくか」に関してはあまり嫌いじゃないんだけど、個人的にちょっとキツイなと思ったのがここ。
英雄とか偉人とかいわれている人々の中で、本当に尊敬が出来るのは、人類の進歩に役立った人だけだ。そして、彼らの非凡な事業のうち、真に値打のあるものは、ただこの流れに沿って行われた事業だけだ。
岩波文庫『君たちはどう生きるか』p.192
いやぁ……
キツい。
これはナポレオンという偉人について語ったものだけど、全体的にこの論調なのである。
じゃあ、人類に功績を残せなければ「真に値打ちのある」人生じゃないんですかね?
色々な事情でいわゆる「貢献」ができない人もいるわけで。
もちろん、「いやいや、普通に仕事して生きてたらそれで『社会』に貢献してるわけだから、それで十分なんだよ」とか、「自分のできる範囲で『貢献』するのが大事なんだよ、現に何かできることがあるだろう」とか。
色々なことをイマジナリー吉野さんだとか、色々な「善人」が言ってる声が聞こえるんだけど、なんかモヤモヤするんだよな。
そりゃあもちろん僕だって善人じゃないにせよ悪人じゃない(多分)し、居酒屋で大声で自分がいかに成功したかをひたすら自慢して、セクハラもパワハラも誇りに思ってるような「下品なオッサン」が大嫌いだから、これまで人類が発明した様々なものに乗っかりながら「でも俺には関係ねーし」と言って死んでいくことが真っ当な態度だとは思わない。
それでも「人生の意味は『社会』とか『人類』に貢献することです」って言われると「ウッ」ってなっちゃうのだ。
逆らいたくなるほどに。
それに今は「貢献」概念や枠が本当に広くて、目立つものは本当によく目立つ。
YouTubeを開いてみるといい。社会に「貢献」しまくっている人らがたくさん観られる。今すぐ。5秒後に。
僕は大学の頃フランスの思想家ジョルジュ・バタイユの小説を専門に研究していたのだが、何度も何度も何度も何度も読み返した一節がある。
この小説で主人公は情緒不安定を極端にこじらせ、ストリップバー(あるいはそれに近い、いかがわしいバー)に入って、ふらふらになりながらこんなことを思うのだ。
こんな滑稽な状況のうちにあって、不安定な椅子の上でなんとか平衡を保っている私の存在は、人の形をとった不幸そのものであった。これに対して、光に満ち満ちているフロアの上の踊り子たちは、近づきがたい幸福の象徴であった。
伊藤守男訳『空の青み』河出書房 p.68
この濃厚な自嘲、自虐、そして極端な認知。
他人の書いた小説とは思えなかったのだ。
それは僕に限ったことではないと思う。
食われて死ぬ
またまた話が変わるが、最近地元の兵庫に帰省した。
帰省すると必ず姫路市立水族館に行く。
山の上にある珍しい水族館で、それでいて極めて良い水族館だ。
入館料も520円と衝撃的に安い。
もう何度も何度も行っている。
大量のイワシやらサメやらエイが泳ぐ水槽を眺めていた。
この水槽だ。
僕が見たときはこんなふうに「狩り」はしてなかった(というか、おそらくこれは色々な状況が重なって起こったことと思われる)。
が、一匹のイワシがサメかエイに攻撃されたのか、痙攣して沈んでいくのを見た。
もう明らかに今際の際だった。
次第にそのイワシにアジが群がってきた。
延々とつつかれている。
されるがままのイワシは明らかに惨めだった。
かわいそうだからさっさとエイに食べられた方がマシだなと思い、最期の時を見届けようと思った。
ほどなくイワシは沈み、エイが「バクッ」と食べていった。
跡形もなくなった。
イワシは「バ」の時点では生きていて、「クッ」の時点で死んだのだろうか。
そんなことを考えた。
そして僕はうっすら、こんなことを思う。
「人間は生きる意味がある」とか、「人生には意味がある」とか、傲慢過ぎる、と。
吐き気がするくらい傲慢だ。
彼(哀れなイワシ)は、エイに食われるために生きたのだろうか?
もちろん食物連鎖をひとつの宗教的事象として解釈するならそれは間違っていないだろう。
でもそれを正当化するなら、宇宙人が人間を虐殺に来た際にそれを正当化する必要がある。
彼は僕に看取られるために生きたのだろうか?
んなわけない。
そんなの僕が困る。
彼は一生懸命生きただけなのだ。
それを忘れてはならないのだと思う。
1つ目。「生きる意味が見つからなくて苦しい人」に対する答え。
それはもう明らかだ。
大丈夫、そんなもん最初から無い。
……さて、ここまで読んで頂いて、「ああ、仏教的な話ね。そういうのいいから」と思われた方がいるかもしれない。
半分は当たっている。
だが、残り半分は絶対に当たっていない。断言できる。
なぜなら。
この記事は、確かに半分は仏教の話をするつもりだ。
だが、残り半分は脳内物質の話をするつもりなのだから。
「生きる意味」の傲慢さ
「生きる意味」についてもう少し、別の例で語ろう。
やっぱり僕は、これは傲慢だと思うのだ。
昔、学校でアマゴ(川魚)のつかみ取りイベントに参加したことがある。
捕まえた魚は、生きたまま喉から串刺しにされて、生きたまま焼かれた。
せめてちゃんと殺してあげてよ、と思った。
もちろん僕は無理で、別の人が代わりにやってくれた。
その人は僕を情けないと思ったかもしれない。
でも「苦痛なく一撃で殺す方法」をそのとき教えて貰えてたなら、僕はそれをやったと思う。なんでそんな、よりにもよって、一番惨い方法で殺すのか。
YouTubeで生き物系YouTuberの動画を観てみるといい。
料理の動画でもいい。
簡単に、ごく簡単に生き物が死ぬところが観られる。
別にそれ自体は悪いことだとは言わない。
けれど、そんな世界で……
「人間の生きる意味は社会に貢献することです」って何なの?何様?人間様?
っていうのは凄く思う。
別に「人間内部」の話をする中で他の生き物は引き合いに出す必要はない、という考え方もあるだろう。
実際正論だと思う。
けれど、どーーーーーーしてもピンと来ないのである。
やっぱり釈迦の言う「生きる意味はない。生きるのは苦」っていう発想の方が、よっぽどマシ、大マシだと思う。
その上で、僕は「人間は他の生物に申し訳ないと思え!みんな不幸になれ!」と思ってるかというと、そうではない。
むしろ「幸福になる義務がある」と思っている。
それを語るためのヒントは、スリランカ上座仏教長老アルボムッレ・スマナサーラの議論が参考になる。
生きる意味は無いが、幸福になれ
実はここまで書いたことは大半、スマナサーラとイケダハヤトの対談本、『仏教は宗教ではない』に書いてある。*1
スマナサーラによると仏教は神を否定するわ、拝んでも意味はないと言うわ、天国があるとか地獄があるとか不確定なことは言わないわ、宗教という定義には当てはまらないと言う。釈迦ですら「師匠のようなもの」だと。
どこまで鵜呑みにして良いかは分からないが、読んでいると一理あるかもとは思わされる。
その上で「殺生と生きる意味」という章があり、その章の内容を別ルートから記したのがここまでの内容である。
引用しよう。
スマナサーラ 肉は物質ですから、肉を食べることが罪じゃないんです。命を奪うことが問題なんです。と言っても、命を奪わないと、肉を食べることはできないでしょう。この矛盾を見てほしいのです。究極的に何が言いたいかと言うと「生きることにはどんな意味があるのか」ということなんです。「そこまでやってあなたは、何のために生きているのですか」ということです。
イケダ なるほど、究極的な問いですね。
スマナサーラ 答えは「生きることには何の意味もない」なんです。
イケダ すごいですね。仏教ではそこまで断言してしまうんですね(笑)。
スマナサーラ ただ生まれただけです。「迷惑をかけても生き続けたい」と思っているだけなんです。100年長生きしたら、100年間悪いことしているだけ。他の生命に100年間迷惑をかけたでしょう。「長生きはありがたい」とか「健康でありがたい」とか人間は言いますけど、他の生命からすれば、全然ありがたくないんです。
イケダ あはは(笑)。人間が生きれば生きるほど、実際他者の命を奪うわけですからね。
スマナサーラ 逆に、「短命でありがたい」とか「病弱でありがたい」とかもないのです。死にたくないし、苦しいから。だから生きることには全く意味がないのです。
(中略)
スマナサーラ 食べるためなら殺生は構わない、という理屈は成り立たないのですよ。これは、どこに問題があるのかというと、「生きることに価値がある、意味がある」という人間の錯覚に問題があるのです。「生きることに価値がある」と言えれば、自分で殺したものを食べるべきか、殺されたものを食べるべきか答えられますけどね。我々は、ただやむを得ず食べているだけなのです。なぜそれを「やむを得ず食べています」というところに持ってこないのですかね。
イケダ なるほど。
スマナサーラ 食べなければ苦しいし、死にたくもない。生き物を食べるということは、残酷な食物連鎖でもある。だからと言っても食べなければ生きていけないしね。「やむを得ず食べています」という場合は、きちんと食べる量も管理するし、自然を破壊していないし、身体に悪影響も与えていない。「これを食べると健康にいいから」「これを食べると綺麗になる」とか、そういう恐ろしい世界も消えちゃいます。ほとんどの問題が解決するでしょ? だから根本的に土台が間違っていますね。「生きることに価値がある、意味がある」ということにね。生きることは尊くないのです。
イケダ なるほど。尊くないのですね。
スマナサーラ ということで、答えは「スーパーで買ってください」です。
イケダ (笑)。仕方ないですものね。
スマナサーラ たとえば、ふだん100g3000円で売っている牛肉が、特売で1000円で売られている。それを買うことは悪いですかね。高価な牛肉が半額の値段に下がっている、では今日は焼き肉にしましょうか。そんな程度でいいのですよ。
イケダ そんな程度でいいんですね。
スマナサーラ 「あなたはそれ以上どうすることもできないのに、そんなこと考えて何になるのですか?」ということです。理論は合っていますよ。自分が牛肉を食べるのだから、牛は殺されています。しかし、私が牛肉を食べることをやめたとしても、牛は一頭も助かりません。半額にしてでも売られてしまいますからね。日本人みんなが牛肉を止めましょうとなったら、日本の牛は守られます。これって現実的にあり得ない話でしょう。
イケダ まさに、あり得ないです。そこを目指すというのは変な話ですね。
スマナサーラ だから、実行できないことを考えるべきではないですね。時間の無駄です。それより、何か食べてまともな人間になりなさいと(笑)。もし、食べられた牛が幽霊になって現れても、「あっ! こいつはいい人間だ。人を助けるし、親切だ。食べられてよかった。自分が生きていても歳とって死ぬだけだったのだから」と思わせるような人間になったらどうですかね。
イケダ 余計なことを考えている暇があったら、頑張っていい人間になりなさいと。
スマナサーラ 人間に管理できないことはたくさんありますからね。地震を止めることはできないし、津波を止めることもできない。歳をとることも止めることはできないですしね。それに足を引っ張られて苦しんでも、人生勿体無いでしょうに。いつでも有意義なことを考えなさいということです。
『仏教は宗教ではない』「殺生と生きる意味」より引用
長い引用になってしまったが、どうしても上手く削れるところがなかった。
ここには大事なことがあまりにもあまりにも詰まっている。*2
ハーバード大教授には是非何度も読んで頂きたい。
さて。「生きる意味」についての議論は一段落した。
……わけではないのだ、実は。
それに、残り半分の「死ぬことが怖すぎる人へ」の議論は全くやっていない。
どこかのウェスタンな雰囲気の人が僕にこう言っているイメージが見える。
「ヘイヘイそこの兄ちゃんよ、アンタまさか『生きるのには意味がないから死ぬのが怖いなんて無意味』なんて言うつもりじゃねーだろな。それなら俺も銃を抜くのを躊躇わないぜ」と。
まあ落ち着いてくれよ。
僕はそんな机上の空論言わない。
生きることに意味はない。それは分かった。
けれど死ぬのは怖い、当たり前じゃないか。
酒もセックスも、大事な人も、大事な思い出も全部全部プツッと消えて、もう残らない。恐怖ですらも。
そんな恐ろしいこと、あるか?
さて、ここからは「生きる意味はない」ことを前提に、「それでもどうやって生きていくか」と、「死ぬのが怖い人への処方箋」について考えていきたい。
実は、僕の思考としてはここまでが後半で、ここから語ることの方が先にあったのだ。
君たちはどう生きるか
「人生の意味は『社会』とか『人類』に貢献することです」って言われると「ウッ」ってなっちゃうのだ。
某ブログにて
じゃあどうすりゃいいのよ。
スマナサーラはこう答える。
それに足を引っ張られて苦しんでも、人生勿体無いでしょうに。いつでも有意義なことを考えなさいということです。
(上記引用より)
結局こういうことなのだ。
けれど、「アレっ?」と思わないだろうか。
「人生は無意味なら、じゃあ好き勝手に生きたほうが良いのでは?」と。
そりゃ、死刑になっちゃ困るから嫌いな人を殺すわけにはいかない。
ぶん殴るわけにもいかない。
けれど、仕事してないときはずーっとYouTubeダラダラ観て、ポテチ食って、エロ動画観て、酒飲んで、テキトーに死んじゃうのが一番良いんじゃないか?
それで何が悪いんだ?
スマナサーラは「輪廻転生を考えるのは時間の無駄」と言った上で、こう言う。
とにかく、生きている間は、「殺さない、盗まない、邪な行為をしない、嘘を言わない、無駄話をしない、粗悪語を話さない、噂話をしない、余計な欲、余計な怒りを管理して、客観的に物事をみることを守りなさい」と言ったのです。そして、「すべての生命に慈しみを育ててみなさい」と。そうすると、死後がないとしても、この世の中を立派に生きてきたあなたの勝ちです、となるのです。幸福三昧です。では、死後があったとしても、同じくあなたの勝ちです。死後があったら立派に生きてきたこの人は当然よい死後のはずでしょ?
『仏教は宗教ではない』「輪廻転生を考えるのは時間の無駄」より
まさにその通り、と言いたくなる一方、分からないこともある。
なんで「噂話をしない」など、倫理的なあれこれが必要なのか?と。
その方が良い生き方?うーん、確かに分かる気もするけど、なんだかなぁ。
立派になるのが良い生き方?うん?それって……「人生の意味は『社会』とか『人類』に貢献することです」に戻ってない?
そんな疑問に、現代科学の観点からバシッと答えを出そう。
なぜ、ずーっとYouTubeダラダラ観て、ポテチ食って、エロ動画観て、酒飲んで、テキトーに死んじゃったらダメなのか?
それは不幸だからだ。
……いやいや、何も「節制して人格形成云々」と言いたいわけじゃない。
つまり、だ。
「苦痛を避けてぬるい幸福を追い求めてると、苦痛に敏感になって、不幸になる」んですよ。
YouTube、ポテチ、エロ動画、酒。
これらに共通するものは何か?
依存しやすい、ということだ。
依存しやすいとは何か?
楽に手に入る快楽、ということだ。
楽に手に入る快楽に慣れるとどうなるか?
ドーパミンが効きにくくなるのだ。
依存症と希死観念
酒やタバコ、YouTubeで面白い動画を探して実際に面白い動画をみつけたとき、SNSでいいねを貰えたとき、そんなときに人の脳は「ドーパミン」を放出する。
そのとき人は快楽を覚える。
だがこのドーパミン、ドパッと出せば出すほど人間はそれに慣れていき、快楽を得られなくなる。
結果的にもっと、もっと……と対象に耽溺する量が増えていく。
次第に健康に害を及ぼしたり、「それがないと生きる意味がない」という状態になってしまったりする。
これを依存という。
依存の対象を失ったとき、人は死にたくなる。
酒を飲むことだけが楽しいと思っていたアルコール中毒患者が、急に酒を取り上げられたら?
「生きがい」がなくなってしまうわけだ。
だがそれだけではない。
「快楽ばかり追い求めていると、苦痛がやってくる」ことには、他にも科学的な理由があるのだ。
驚くべきことに、快楽と苦痛を処理する脳部位は重複しているらしい。
また、苦痛と快楽はシーソーのようなもので、なるべく水平を保とうとする性質があるらしい。
そして、快楽へ長く深く耽溺し続けると、このシーソーがおかしくなり、「快楽を感じる能力が下がり、苦痛の感じやすさが上がる(『ドーパミン中毒』第1部第3章より)」というのだ。
これは衝撃的ではないか。
苦痛を和らげるため、ストレスを和らげるため、楽しいことをすればするほど、苦痛から癒やされるのではないのか。
癒やされてるはずなのに、苦痛を感じやすくなってしまうなんて、そんなものおかしいではないか。
だが、……妙に実感が湧くのではないだろうか。
そう。
「苦痛を避ける方法は、苦痛から目をそらすこと」ではないのだ。
「苦痛と向き合うこと」なのだ。
苦痛と向き合うこと
『限りある時間の使い方』に興味深い事例が紹介されている。
冷水を被る真言宗の修行についてのアメリカ人僧侶: スティーブ・ヤングの体験だ。
肉体的な苦痛に直面したとき、人は本能的にその感覚から気をそらそうとする。たとえば注射が苦手な人なら、注射を打つあいだ、診療所の味気ないポスターを必死で見つめていたりするだろう。
ヤングも最初はそうだった。凍てつく水が肌を刺すたびに、何か別のことを考えようとしたり、意志の力で冷たさの感覚を消そうとしてみた。目の前の現実がつらすぎて心を別のところに向けるというのは、常識的に考えれば妥当な反応だと思う。
しかし、刺すように冷たい水を何度も何度も浴びるうち、ヤングはそれが誤った戦略であることに気づいた。むしろ意識を冷水に集中させて、強烈な冷たさを全力で感じたほうが、苦痛が軽減されるのだ。
(中略)
修行生活を終えたあと、ヤングは自分の意識が変化していることに気づいた。今ここに集中する技術を身につけたおかげで、日常のさまざまな場面で感じる苦痛が明らかに減っていた。以前なら考えるだけで憂鬱になっていた雑用にも、前向きに取り組める。
問題は活動そのものではなく、自分の心の中の抵抗にあったのだ。
抵抗をやめて、目の前の感覚に注意を向けると、不快感は静かに消えていった。のちに彼は高野山の住職からシンゼン・ヤングという新たな名を与えられ、今では瞑想の指導者として活躍している。『限りある時間の使い方』第6章より
これはマゾヒズムの一種なのではないか、と思っていたのだが、『ドーパミン中毒』を読んでどうやら科学的な根拠があるらしい、と気付いた。
断続的に苦痛に晒されることによって、私たちの快楽と苦痛のシーソーが快楽の側に偏り、時間と共に苦痛を感じにくく、快楽を感じやすくさせるのである。
『ドーパミン中毒』第3部第7章より
これは途方もない衝撃である。
そして、このことは死について、生きることについて考えるための大いなるヒントなのではないか。
死を恐れる要因のひとつ
死の恐怖にとらわれ、いわゆる「発作」に襲われる理由は人それぞれだ。
だが、僕の場合は平穏を感じているときのほうが危ない、という実感がある。
ホリエモンは「死ぬことを考える暇もないほど忙しくする」を対処法としているが、どうもそれはなんか「死ぬことの本質」から逃げているのではないか、という気もしていた。
それで忙しくしまくって、それで最期に「ああ、良い人生だったな」と思うのはどーなのよ、と。
だからといってひねくれて「なるべく苦しまないように生きよう」としてても、苦しい。
しゃーないので酒を飲んだりYouTubeを観たりするわけだが、やっぱり苦しい。
じゃあ死んじゃえばいいじゃん、という話だが、それは「死ぬほど」怖い。
なんだこれは。
でも結局この状態は、「ドーパミンに慣れてしまって苦痛に敏感になっている」という生理的作用に過ぎないのではないか。
長くなったが、結論に向かおう。
僕は今、こう思っている。
「生きることは意味がない」という前提を徹底的に抱えて、釈迦が言ったように「一切皆苦」、人生は苦しいと認識した上で、マゾヒスティックに「苦痛に向き合って」いれば、それなりに良く生きられて、それは間接的に「死に向き合う」ことにもなっていて、最終的に良く死ねるのではないか。
というか……それしかないのではないか。
そもそもこの記事を書いた理由が、仕事が結構楽になって、家で自由に好き勝手やっていると、どんどん苦痛に弱くなっている自分に気付いたからだった。
それは人間的に弱くなっているだけかと思っていた。
広い意味ではそれも間違いではないのだが、「苦痛と快楽のシーソー」について、快楽側に偏る行動ばかりした結果、恒常的に苦痛を感じる状態になっていたということなのだと思う。
そして僕の場合、この状態になると死の恐怖がやってくる。
もっともっと幸福になりたくなるから、もっともっと苦痛を避けたくなるから。
その結果、「死」という究極の苦痛が究極にフォーカスされてしまうのだと思う。
死を隣に生きている人間の方が死を感じない。
これは理由があることなのだろう。
実際、バイクにハマり切っていたとき、僕は死から最も遠いところにいた。
もちろん、この発想も対症療法に過ぎない。
根源的な「死そのものの恐怖」「死そのもの」の問題は、何一つ解決しない。
けれど、そればっかりは(少なくとも現代科学では)本当にどうしようもないのだ。
三度目の引用になるが、
それに足を引っ張られて苦しんでも、人生勿体無いでしょうに。いつでも有意義なことを考えなさいということです。
ということなのだろう。
釈迦が全部語ってるし、しかもそれに科学的な根拠まであるとしたら、もう僕らに何も言うことはない。*3
まとめ
「人生の意味は『社会』とか『人類』に貢献することです」って言われると「ウッ」ってなっちゃうのだ。
改めて、これに対する僕の答え……つまり、そんな僕がタナトフォビアの発作に陥らずどう生きるべきかについて具体的に要約したい。
- まず、ご立派な方が「社会貢献がどーたらこーたら」「人生の意味を探せ」とか言おうが、「人生に意味はない」というところからスタートする。だから「人生のミッション」的なものもいらない。(エラい人が「人生の意味を探せ」と言うなら「君、釈迦よりエラいの?」って聞けば良い)
- その上で、延々SNS見たり酒飲みまくったりドーパミンが変に出まくる行動はなるべく控える。
- なるべく苦しみを避けずに向き合いながら、その上でなるべく死なないように楽しく生きとく。
- そのついでにテキトーに社会貢献しとく。
それしかないのだと思う。
それくらいで良いのだと思う。
それで死ぬとき、「無意味だったししゃーないか。まあ悪くなかった」って思えたら勝ちだし、「あまり良くなかったけど、まあ無意味だし」と思えたらそれはそれで勝ちだ。
「俺の人生は意味があった」とか思いながら死ぬ、これはどうもあまり良くなさそうだ。だとすると、イワシくんの人生(魚生?)に意味はあったのか?とか、じゃあ意味があるこの人生が失われる死はえげつねぇ!怖い!って考えちゃうから。
じゃあ今すぐ殺されても良いのか?と聞かれると、それは良くないとスマナサーラも答えるはずだ。
自殺について、はっきりこう語っている。
ただで死ねるのになんでわざわざ自殺するんですかね。
(中略)
自殺する願望を無くすために、宗教は「自殺は重罪です」と言っています。他殺は重罪であると言えば納得いきますが、自殺は重罪だと言うのは理解できません。気が弱い人を脅す話かもしれません。宗教の脅しに騙されてでも、自殺はしないほうがいいに決まっている。しかし、長く生きたからと言って、何か得られるわけでもないんです。誰だってあっけなく死ぬんです。だから、かっこよく生きてみればいいのではないでしょうか? 善いことをして、人を助けてあげて、皆の役に立つ人間になって、明るく生きてみればいいんです。充実感を感じられるように生きてみればいいんです。自分がどのように生きるのか、というプログラムは、自分で作るのです。自分が決めたことを、結果が出るまでやるのです。死の間際になったら、「何の悔いもない」と宣言して亡くなれれば、正しく生きた人間だと言えるでしょう。『やさしく自由に生きる智慧』「自殺は負け」より
結局のところ、どこまでもシンプルなのだ。
読者の方の中にも、最近生きてて苦しい、苦痛に弱くなったと思う人がいたら、「幸せを探索する行動」や「依存」が凄く増えてる可能性を探してみて欲しい。
「適度だったり、人生にプラスになっている行動」は「趣味」だとか「仕事」だとかと呼ばれる。一方、「過度だったりマイナス」なら「依存」だ。
「依存」あるいは「快楽の追及」「苦痛からの逃避」と「生きる意味」「死への恐怖」は密接に結びついている。
意識が高いがアホな人(特定個人を指すのではない)に、「君も社会貢献しろよHAHAHA」などと言われても、なおさら快楽を追求したくなるだけだろう。そしたら余計に死にたくなる。けど死ぬのは怖い。
でも、僕がここで書いた論理なら、ちょっとは、ほんのちょっとは、いったん目の前のスマホをスポーンと投げて苦痛と向き合ってもええかもしれない、と思えるのではないか。
だとしたら、これ以上の喜びはない。
お読み頂きありがとうございました。
今回は久々に過去のノリでブログを書いてみました。
ではまた次の記事で。
参考になる本その他
スマナサーラとイケダハヤト対談の合本版。上下で分かれた電子書籍ならKndle Unlimited会員は無料で読めます。
依存症をサクッと学びたい人のために。
冒頭のあまりにも鋭い一言の引用元。