Midnight Note

明日はどこまで行こうか。どこまで行けるだろうか。

中庸であること、中道であること

極論まみれの世の中だ。

負の意味では「日本は終わってる」とかそういうやつ。
正の意味では大谷翔平とか藤井聡太とか。
この二人が極端だったとしても「東大は誰でも入れる」とか、そういうことを本気で言う人がいたり、他にもキラキラした成功者ばかりSNSで目立ったりしている。

本当はみんな分かっているのだ。
日本はまあ部分的にダメダメな部分はあるかもしれないが、終わってはいない。
だって終わっていたら今あなたは日本人じゃないはずだから。
日本が継続しているからこそあなたは日本人として生きているのでしょう。
当たり前の話だ。

そして東大には誰でもは入れない。
キラキラした成功者もずっとキラキラしてるわけじゃない。
家で人には言えないエグいAVとか観てる日もあるでしょう。

極論ばかりに触れていると頭がおかしくなる。だからそういった種々の極論から距離を置く、というのはメンタルのために重要である。
……のは分かるのだが。
どうしろと。

というお話です。

中庸と中道

ここから少し長々しい概念の解説が続く。
面倒ならば次の「明けぬ夜はない」まで流し読みか、あるいはスキップして頂いて構わない。

儒教とギリシャ哲学においては「中庸」、仏教においては「中道」という概念が極めて重要だ。
筆者は儒教とギリシャ哲学には疎く、仏教も素人に毛が生えたレベルでしか知らないため、あまり深くは語れない。
ただ、倫理学に深く関わるこの3領域で、少なからずの共通性があるこの概念が重要視されているということには深い意味があるように思う。

儒教における「中庸」を極めてシンプルに説明している以下の記事から引用しよう。

iec.co.jp

 「論語・擁也」に見える孔子の言葉で、原文は、「中庸の徳たる、其れ到れるかな。民鮮きこと久し」となっています。

つまり、「不足でもなく、余分のところもなく、丁度適当にバランスよく行動できるということは、人徳としては最高のものです。しかし、そのような人を見ることは少なくなりました」と嘆いているのです。

中庸は孔子の教えの究極的なポイントであるということから、いろいろの学説がありますが、あまり難しく考えず上記のようにシンプルに理解してよいと思います。

少し踏み込んだ解釈をしているのはこちらの記事。

www.nara-jigenji.com

「中庸の徳たるや、それ至れるかな」

のアレですね。これもまた、「単純に食べ過ぎも全く食べないのもよくない、ほどほどに。」などと孔子を侮辱するのも甚だしい矮小化を行われてかわいそうな概念です。さらにこれがアリストテレスの「メソテース」の和訳に使われてしまい、さらに混乱することになった結果、論語とアリストテレスの共通項である「極端を避ける」という側面のみが過分に表にでている印象があります。
ただ、中庸・メソテースどちらの場合も、理論的知性の対象ではなく、実践的知性の領域に属する「賢さ」として挙げられている点は注目すべきかと思っています。ですから「中庸」において、聖人でも獲得が容易ではないが、一般人でも獲得できるとされているように、「メソテース」でもこれが習性的徳のあり方として挙げられているわけです。つまり、行為に即して適切な「ちょうどいい」をチョイスする能力ということになります。確かにその場その場で一番いい行動をとるのは難しいですよね。

なかなか真剣に考えると難しいのだが、「中庸」が徳であるとか賢さであるとか、あるいは理性であるとかに関連して最上のものとして扱われていることは興味深い。

儒教やギリシャ哲学における「中庸」は「極端を避ける」を含まなくはないのだが、それだけではなく、極端を避けた結果得られる最適な行動とは何かという点について実践的にフォーカスした概念である、と考えて良いだろうか。

仏教における「中道」はどうも、その概念をさらに特化したものといえそうだ。
ブッダは元々王子の身分であり、贅沢な生活も可能であったのだが、それを捨てて苦行の道を選んだ。
「苦行釈迦像」は苦行時代のブッダを模したもので、なかなか衝撃的だ。

ukima.info

だがブッダは苦行だけでは悟れないことを理解し「世界を『正しく観る』」ことで悟りに至った……というのが筆者の理解である。
そういったブッダの経験を活かした(??)概念が「中道」だ。

「中道」とは、文字通り「中央の道」を意味し、極端な行動や思考を避け、均衡と調和を保つ生き方を指します。

これは、過度な自己抑制や苦行を行うことなく、また、放縦や過度な欲望に走ることなく、心地よいバランスを保ちながら生きることを意味します。

tokuzoji.or.jp

「中庸」と似た概念ではあるが、中庸が人としての徳、つまり在り方としてそれを目標とすべきとしているのに対し、「中道」は究極的には涅槃、……誤解を承知で言ってしまえば「心の究極の平穏」のために追求すべき、と言っているという違いがあるだろうか。

上座部仏教のスマナサーラあたりは「中道」は「八正道」そのものと理解しているようで、なかなか分かりやすい例え方をしてくれている。

快楽行なら、美味しい食べ物を探し求めます。苦行なら、一般人が決して食べたがらないものを摂るか、断食が好ましいと考えます。中道の場合は、そのどちらでもなく、「命をつなぐため」に食事を摂るのです。美味しく感じたならば、直ちに気づいて、こころが欲に汚れないようにする。食べているのがとても不味いものであるならば、嫌な気持ち(怒り)にならないように気をつける。美味しいものを期待することからも、不味いものを避けたい気持ちからも、離れるのです。

j-theravada.com

一方、先程も引用した慈眼寺の副住職などは「中道」を究極的には「空」に繋がる概念として解釈している。*1

www.nara-jigenji.com

こちらはもし興味があればお読み頂きたい。

長々しい概念の説明を続けてしまったが……
ここからが筆者の言いたいことである。

明けぬ夜はない

これは「中道」の思想なのではないか、と思う歌がある。
オーケン(大槻ケンヂ)の『林檎もぎれビーム!』だ。
筆者にとっては強い思い入れのある曲である。

mistclast.hatenablog.com

www.youtube.com

エブリシンガナビーオーライ!
明けぬ夜は無い
それが愛のお仕事そして
「マニュアルなの」

「明けぬ夜はない」のは、それ自体希望も絶望も意味していない。
というか何の意味もない。
強いて言うなら愛のお仕事で、マニュアル。
ただそれだけなのだ。

だがそれでも、夜は明ける。

なお、オーケンは仏教に詳しいものと思われる。
ググると色々出てくるし、なんせ(ボーカルを務める筋肉少女帯の)代表曲が『釈迦』である。

閑話休題。

多分、誰もが……
このブログを読んでくれている人なら尚更多くが、極端な思想を持っている。
大谷翔平になりたい……は極端過ぎるとしても、その1/1000でもいいから、仕事でアイデンティティを満たしたい。自分の技術で承認欲求を満たしたい。

あるいは……
もっと暗いことを考えているかもしれない。

日本は終わっている、と。
自分は何一つ持っていない、と。何一つ興味が持てないと。
そんなことを考えている。はずだ。

だが多分、それは「夜が明けない」という空想、もっと言ってしまえば妄想と同義なのだ。誰がどうしようが、世界のマニュアルとして夜は明ける。
極論としか言いようのない暗い言葉はいつしか忘れ去られ、「この世のキラキラしたものはいつか壊れる。
基本的に仕事でアイデンティティは満たせない。けれど、仕事にアイデンティティを満たす要素が無いか、というとそれは違う。
日本は終わってはいない。けれど本当にどうしようもないところもある。
あなたは、私は、どうしようもなく臆病でダメなところはあるかもしれないが、それに抗うだけの力や心を持っている。あなたは、私は、停滞したいと思っているかもしれないが、前に進みたいとも思っている。

それらは全て、希望でも絶望でもなく、気休めでもなく、ただの事実なのだ。
そういった「ただの事実」と、ありのままに向き合うこと。
そこから全ては始まる。

だが……
「ただの事実」というには重すぎることがこの世にはある。
戦争だったり、凄惨な事件だったり。
そいつらとどう向き合うのか?
……それを考えている中で、本当の「中庸」あるいは「中道」が見えてくるのではないだろうか。まぁ、そもそもそんなことを考える前にまず「ほどほど」という、ある種最も単純で俗な「中庸」を目指すべきではないのかとは思うけれど

結論に代えて

エンディングテーマを流します。
吉井和哉で『○か×』

www.youtube.com

 

*1:もっとも、この考え方はスマナサーラの考え方と矛盾するものとはいえないと解釈している。