Midnight Note

明日はどこまで行こうか。どこまで行けるだろうか。

ツラが良い人が羨ましい

「それはそうだろうよ。幸せになることは簡単なことなんだ」
京極堂が遠くを見た。
「人を辞めてしまえばいいのさ」

京極夏彦『魍魎の匣』より 京極堂こと中禅寺秋彦


嫉妬。
それは人を動かすエネルギーになることもあるが、概ねはただの徒労、無駄でしかない感情。
だが一方で人が抱かずにはいられない感情でもある。

僕は嫉妬の対象がふたつある。
一つはAV男優。
これに関しては語る価値がないというか、語るとタダでさえ皆無に等しい品格が地獄の底まで自分ごと落ち、閻魔大王に叩き斬られそうなのでここで語るのは控えておく。

そしてもう一つは、ツラの良い人たちである。
それは最近明確に自覚した。

嗚呼、哀しみのルッキズム

とは言いつつも、別に筆者はそこまで自分の外見に絶望しているわけではない。
身長はエラく低いが顔はイケメンではないもののヒキガエルやらナメクジと間違えられるレベルではない。はずである。
けれど、たまに。
本当にたまにだけど、虚しくなることがある。
自分がツラやらガワの良さ「それそのもの」だけで他人から求められるってことは無いんだろーな、っていう事実に。

ここで「どういう意味?」って思う人は結構多いと思うので詳細を解説する。

以前ClariSのライブに行ったときのこと。

www.youtube.com

僕はClariSが顔を出していない頃*1からのファンなのだが、顔出し後に初めてライブに行った。
もうなんというか神々しすぎて笑いが止まらなくなってしまった。

顔出しする前から好きだったので別にClariSの二人のルックスに惹かれてファンになったわけではなかったのだが、まあ、控えめに言ってもド級の美人、ド美人である。
それがCDで聴いたままの歌唱力でさらにダンスもキレキレで、そんなもん崇敬の念を抱かないわけがない。

だが同時に、バタイユ『空の青み』のトロップマンのような気持ちになってしまったのも事実だった。

こんな滑稽な情況のうちにあって、不安定な椅子の上でなんとか平衡を保っている私の存在は、人の形をとった不幸そのものであった。これに対して、光に満ちているフロアの上の踊り子たちは、近づき難い幸福の象徴であった。


バタイユ『空の青み』伊東守男訳

いやそんなこと考えずに素直に楽しめよ、と我ながら思う。
けれどあまりに眩しかったのだ。素直になれない程に。

さて。話を戻すとClariSは曲も世界観もツラも良い。
全部良いので話がややこしいが、そんなClariSは「光に満ちた」「近づき難い幸福の象徴」なわけである。

ここで話が転換するが、世の中には「ツラが良い」だけで「近づき難い幸福の象徴」になる人もいるのである。
いやまぁ、そういう人たちもそれなりに……直接的間接的を問わず苦労はしているだろうし、そういった人たちが何の努力もしていないなどと言うつもりはない。
それでも、とにかく。
残念ながら世の中には努力では絶対に「近づき難い幸福の象徴」にはなれない人もいるし、最初からそうなってる人もいるわけである。

そして僕は思う。
生まれながらあるもの、言い換えると後天的な努力だとか価値の創出だとかそういったもの「ではない」領域で「他者から求められる」というのは、どんな気持ちなのだろうか、と。
そして時折、それがたまらなく羨ましくなることがあるのだ。

多分これはオタク的な「全肯定してくれるママみたいな彼女が欲しい」といったような願望のシノニムなのだろう。
どうもここのところ僕は「存在を前提レベルで肯定される」ことに飢えている気がする。
本当はそんなことができるのは自分しかいなくて、他人に求めることではないのは分かっているのだけれど。

それに、ツラが良くても当人にしか見えない苦悩も絶望もある。
それも一応は理解しているつもりだ。
三浦春馬を例に出すまでもない。
あとは明らかにモテそうな美形の女の子が滅茶苦茶病んでたりするってのも、やっぱり当人にしか見えないものがあるんだろうな、と思う。
それでも、僕の中には何かしら複雑な感情がある。

滅茶苦茶な世界

「複雑な感情」、まさに定義通りのコンプレックス。
これが厄介だなあと思うのは、おそらくこのコンプレックスを持ってる人は100%「他者を外見で値踏みしている」ことである。例外は無い。
「自分は容姿に対して複雑な思いを持っているけれど、他人の容姿は良し悪し含めて一切気にしません」なんて成立しようが無いからだ。
自分に対する感情と他者に対する感情、あるいは許容性は差があるかもしれないが、少なくとも「あの人美人だなぁ」「あいつイケメンだなぁ」みたいなことを一切思わない人が、自分自身の中にコンプレックスを持ち得るわけはない。
……というのが僕の考えである。

綺麗事を言えば、「他者」も「自分」も値踏みするべきではない。
まして「あいつは美人」「あいつはブサイク」みたいにいちいち判断してるヤツがいたら、そいつは性根が悪いと判断されても致し方ない。

だが。
それでもあえてはっきり言いたい。
そんな「他人を値踏みするヤツ」は悪いやつなのか?

違う。
世の中が悪い。

周りをご覧なさいよ、看板、広告、芸能関係のあらゆるもの。例外もあるけれど基本的にはツラの良い男女が大半だ。多分何年経っても「日常で見かけるすべての広告がヒキガエルみたいな顔のオッサンオバサンに埋め尽くされる」ことは無いと思われる。

そういった「ツラの良さ」の価値があらゆるところで誇示されてる世の中で「ルッキズムはダメ」とか言っても空虚じゃない?と思うのは僕だけだろうか。

「それとこれとは話が違う、誰かに『美人』って言うのはOKだけど、『ブス』って言うのはダメ。ルッキズムがダメっていうのはそれだけの話。世の中が外見至上主義的に動いてることとそのこととは関係がない」
そういった反論もあり得るし、一種の正論だと思う。
けれど、なぁ……本当にそう単純に割り切れるものなのだろうか。

……まあ、僕はそれでも「全ての広告にはブサイクな男女を使うべきだ」とか言ってるわけじゃない。というか微塵もそうは思わない。そこまで行くとただのホラーだ。
でも逆説的にそれは「ツラの良さ」を尊ぶ文化をうっすらと間接的に肯定しているわけで。そこでは輝けない自分の存在を嫌でも理解できてしまう、というのもなかなか辛いものではある。

まあ、ここまで書いていて既に気づいていたわけだけれど、この社会構造は外見だけじゃなく、金、知性、体力、あらゆるものに言えることだ。
金がない人を馬鹿にしちゃいけない。けれど財を成した者は讃えられる。
知性がない人を馬鹿にしちゃいけない。けれど知性のある者は尊敬される。
体力がない人を馬鹿にしちゃいけない。けれどプロスポーツ選手は絶賛される。
まあその中で外見だけが一番先天的な要素が強いよね、ってだけで、他のものも割と先天的な要素や運に左右されるものである。

幸い今僕はお金、知性、体力について有り余ってはないが、それほど困ってもいない。
多分これは結局僕が「自分に無いもの」に着目しちゃってるだけなんだろうな。

不幸になるために

幸福になるには人間をやめてしまえば良いと京極堂は言った。
なら不幸になるには?これも簡単な話だ。
自力では得られないものを全力で欲しがり、得られないことを恨み続ければ良い。
誰のセリフかというと、水上湊というヤツがさっき考えたセリフである。

幸せに生きるためには、結局「ニーバーの祈り」に書かれていることが全てなのだ。

神よ、変えることのできないものを静穏に受け入れる力を与えてください。
変えるべきものを変える勇気を、
そして、変えられないものと変えるべきものを区別する賢さを与えてください。

ja.wikipedia.org


分かっちゃいる。
分かっちゃいるんだ。
けどやっぱ、「近づき難い幸福の象徴」になれるもんならなりたいもんだね、とは、たまに……本当にたまにだけど、思う。
それはもう仕方ないじゃないか。

だからもう、そんなしょーもないコンプレックスも受け入れて……

ちょっとでも無様じゃない身体になるように、肉体改造でも頑張るか〜とか考えながら生きているところだ。
結局、それしか無いのである。

余談

PS5買ったのをきっかけに、ちょっと前にやってた『原神』をたまに起動する。

www.playstation.com

PS5だと露骨に画面が綺麗で、えっちな見た目のキャラを舐め回すように見るためだけに起動している。
しかしこのゲームは全員、自分が可愛い、自分がイケメンだと思ってないと着れないような衣装を着ている。
そんなもん他のゲームでもそうだろ、と思われるかもしれないけど、『原神』ではより強く感じる。

この服えっちすぎるだろ!!!!!

……もしかしたら僕、こういう服を着れるくらいに自分の肉体とか外見に自信が欲しいだけなんじゃね?とも思わなくもない。

……違う、違うぞ!?
これは抽象的な話であって、具体的に僕が↑の服を着たいわけじゃないからな?断じて違うからな!?


〜完〜

*1:とは言っても顔出ししたのは最近だけれど