というタイトルで書き始めると、抵抗のある人も多いだろう。
名作『寄生獣』を援用するまでもない。
心に余裕があること、無駄を愛せること、それこそが人間の本質だ。
でもなぁ、って話。
前置き
ここからしばらくは「無駄」という言葉をあえて定義せず、曖昧に議論を続けてみる。
偏差値を上げることに必死だったあの頃。
賢くなることに必死だったあの頃。
僕は大量の本を読んでいた。
とは言ってもニーチェに傾倒していたとかマルクスに傾倒していたとかではない。
ミステリやらその他エンタメ小説、文学的小説だとしてもせいぜいが村上春樹や筒井康隆だ。
それでも大量に本を読むことにはそれなりの根気やら何やらを要した。
そんな中で、読んだらアホになりそうなライトノベルを読むことも必ず欠かしていなかった。
未だに覚えている……と言いつつうろ覚えなのだが「敵キャラに豚骨ラーメンのスープをかけて倒す」というヒロインが登場するアホくさすぎる小説も読んだ。
結構人気ラノベだったので知ってる人もいるかもしれない。
そんなバカな本を読むのは、おそらく当時の自分の知性にとっては「無駄」どころか「必要」だった。
今はどうだ。
定期的に僕は何もできなくなる。
厳密に言うとエロ本とクソまとめサイトとバキ童チャンネルその他しか眺められなくなる。
これはまぁ、正直客観的に言って「無駄」だ。
けれど自分にとっては必要なのかもしれない。
と言いつつしょうもない「無駄」を積み重ねながら生き続けてきた。
趣味が充実していないわけではない。
週末にはバイクか車で300km以上先の地まで走る。
まあなんとなく「充実してる」っぽい、そんな感じがする。
でも他の時間はバキ童である。
いやまぁずっとバキ童観てるわけじゃねえけど。
で、ここからが実質的本題なんだけれど。
たまに漫画なんかに「何も有意義なことが出来てない。休みの日はNetflixでドラマしか観れない」みたいなキャラが出たりする。
……ゑ???
それだいぶ……有意義では……?
いや少なくともほぼ同い歳の童貞のオホ声聞くよりは……よっぽど……
あ、念のためですがバキ童ことぐんぴぃのことはリスペクトしてます。
してねぇとこんな観てねぇ。
そろそろ本題に入る。
無駄の定義、無駄の質
そもそも「無駄」ってなんだろうか。
最も狭い意味として「お金にならないこと全て」あるいは「生きるのに必要ないこと全て」と定義してみる。
そうするとあらゆる文化は「無駄」になる。
あるいは「金になる文化」だけが「無駄じゃない」ことになる。
実際そういう価値観の人がいてびっくりすることがある。
おそらくだが、このブログをここまで読んでくれている人はそのような価値観を好まない人だろうと思う。
そういった価値観に対するカウンターとしてよく「無駄も大事だ」というようなことが言われる。
だけどそう言うときに想定される「無駄」って、例えば……
天気の良い朝に近所の公園に散歩して自然を愛でることだとか、行ったことのない博物館に行ってみるだとか。そういうことなんだよね。
「無駄」の対義語を「有益」だとすると、確かにそれらは直接的な「利益」は産まない。
けれど「有意義」だとすると、どう考えても「有意義」だ。
こんなことをグダグダと考えたきっかけは、バキ童ばっかり観ている自分に気付いたこともあるけれど、もう一つ。
少し前に某ジャーナリスト?が「自民党支持者は劣等民族」とか言って笑ってたということが挙げられる。
冷静に考えて、その発言が「有益」だったり「有意義」だったりするだろうか?
誰もがただただ不快になるだけ。
同じ政治思想の人々を貶めるだけ。
政治思想が異なる人々に「ああ、こういう人たちと俺らは戦ってんのか。じゃあ俺たちが正しいな」という確信を与えるだけ。
本当の、本当の、本当に、無駄。
あまりにも愚かしい。
「無駄なことも大切」という言葉に、相手を「劣等民族」と貶める行為は含まれない。
本当の本当の本当に無駄なことは、やっぱり無駄でしかない。
……とここまで考えて、「いや、彼にとっては『有益』な発言だったんでしょう。彼はそうやって友達を増やしてきたんだから。実際一緒にいた人も笑ってたわけだし」とも思う自分もいる。
いや、そもそも単純に言って気持ち良かったから言っただけなのかもしれない。
そりゃ気持ち良いよな。気に入らない人たちに「劣等民族」っていうレッテル貼るの。
そういえばそうだ。
極論、人は「無駄」なことは一つもしないとも言える。
何かしら「有意義」だと思っているからこそ、やるわけだ。
歴史上の悲劇も、悲劇の主犯がそれを「必要」としたから起こった。
残念ながら客観的尺度は主観的行為に影響を及ぼすとは限らない。
だとすると。
「無駄」ってなんだ?
もしかすると。
それは、意味のない言葉なのではないか?
けれど、なぁ。
「Netflixでドラマを観る」という行為は、バキ童のオホ声を聞くよりは「有意義」だと思うんよね。
結局物事は「無駄」か「有益」「有意義」かの択一ではなく、全てはグラデーションだっていう、それだけの話。
それだけの話、なんだけど……
「無駄なこと」しかできなくなる
かつては「有意義なエンタメ」の合間にこそ「カスエンタメ」を消費していた。
それは自分の体力にとって、知性にとって必要なことだった。
けれど、気付いたら「有意義なエンタメ」の割合が相当以上に減っている。
難解な映画、難解な小説なんて全然触れられなくなっている。
酒を飲むと一発で気持ちよくなれる。
酒を飲んでもYouTubeは観られる。
ファストな快楽に慣れすぎてしまった。
Netflixに溺れられる人を尊敬できるようになるほどに。
……まずいぞ、これはなんかまずいぞ。
「人生には無駄が大事」という言葉は、その状況を全肯定するための言葉じゃない。
有意義なことだけやろう、っていう考え方は嫌いだけど、意図的に「無駄」を締め出して行かないと、……
……この先に俺は、どこにも辿り着かないんじゃないか。
……ん?
でも、さ。
それで、良いんじゃね?
どーせ、さ。
ノーベル賞か国民栄誉賞でも取りかけてるならともかく、大体の人生なんて過ぎて行くだけだよ。
酒飲みながらYouTube流せてさ。
生活には困らないくらいには仕事もできてる。
過ちも色々あったけれど、なんとかとにかく生きている。
もう、良いんじゃないか。
これで。……
……と。
完全に「オリ」られないからこそ、こうやって何かしら書いてんだろうな、僕は。
それで良いじゃないか、という気持ちもある。
けれど、それだけじゃ良くないじゃないか、という気持ちもある。
「無駄なことはやめましょう。」
そう言って、自己研鑽自己鍛錬、有意義なことに突っ走り、世のため人のために生きていくような元気は今はない。
そこまで出来た人間じゃない。
そんな今の僕を許してほしい。認めてほしい。
そんな今の僕を誰かに愛してほしい。
この歳になっても、そんなことばかり考えながら生きている。
でも、なぁ。
ほんの少しずつ、自分の目から見ても、おそらく客観的にも「有意義な」ことを、スパイスのように人生に振りかけていかなきゃ……
ただ淀んだ水の底で腐っていくだけ、なんだろうなぁ。
路傍の水上
『路傍のフジイ』という漫画がある。
独身の40代非正規社員であるフジイを巡る物語だ。
ぜひ試し読みして欲しいのだが、まあなかなか良い漫画で、評判も良い。
だけど僕は少しだけ引っかかるものを感じている。
フジイは、徹頭徹尾「無害」であり、ここまで語ってきた基準では相対的に「有意義」なことしかしていないのだ。
フジイは40代には見えない描き方がされている。
醜いオッサンとは到底言えない。
美人の女の子にホテルに誘われてもなびかない。
家でクソみたいなエロ本を読みながらオナニーにふける様子が描かれるわけでもない。
極めて悪意のある書き方をすると、そんな「無害で相対的に『有意義』な生き方をして男は生きていけ」と言われているような気持ちになる、というのはひねくれ過ぎだろうか。
「相対的に『有意義』」という言葉のニュアンスはここまで読んで下さった人にはご理解頂けると思う。
まぁそもそもエンタメ漫画なので汚いところが描かれないことは当然というか、誰もそんなことはこの漫画に、あるいはフジイに望んでいない。
この漫画は「フジイのような生き方も良いかも」と思うために読むものであり、「汚い40代男性リアリティショー」では決してないのだ、そもそも。
けれど……「相対的に『有意義』」な生き方こそが案外理想的だ、というのも、なぁ……
……ん?
さっき書いた「『有意義』もスパイスのように人生に取り入れないといけない」という結論となんか食い違ってきてないか?
『路傍のフジイ』を語ったせいでなんかブレてきた。
何を言ってるか分からなくなる前に、読者に委ねつつ今日はこのくらいで終わりにしようと思う。
このブログが無駄なのか、誰かにとって必要なものなのか。
それも誰かに委ねる。
これからも続けるのでよろしくね。