(筆者注: 躁鬱人にとって)
「自分とはなにか?」
その答えは、「自分とは『次はなにがしたい?』としか考えない人」です。坂口恭平『躁鬱大学』より
人間は、時として、充されるか充されないか、わからない欲望の為に、一生を捧げてしまふ。その愚を哂ふ者は、畢竟、人生に対する路傍の人に過ぎない。
芥川竜之介『芋粥』より
ほしいものが、ほしいわ。
糸井重里の名コピー
怒涛の3連引用から始まるこの文章だが、この3つで今日語りたいことはだいたい網羅しているとも言える。
「次は何がしたいかだけしか考えない筆者は、よくわからない欲望を追いかけ、ふとその欲望が切れたときどうしようもなくなって、『ほしいものが、ほしく』なってしまう」。
そんな話。
バイクに賭けた青春
バイクに興味のない人にも通じる話にするから、少し我慢して読み進めて欲しい。
社会人になってからずっとバイクのことばかり考えてきた。
「次はどこに行こうか」。
「次は何に乗ろうか」。
そんなことばかり。
もちろん飽きかけたことも何度もあるし、資格試験の勉強に忙しかったこともある。
けれど「次はどのバイクを買おうか」と考えることをメンタルの支えにしてきた。
最近大型バイクから軽量な中型のバイクに乗り換えた。
異様に軽い今のバイクは10年近くバイクに乗り続けた僕にとっても新鮮で、消えかけていたバイク熱が再発した。
だが軽いバイクは高速走行が怖い。
次第に重いバイクがまた欲しくなってきた。
次は何を買おう。
1ヶ月しか経っていないのにそういうことを考え始めた。
まぁ1ヶ月でもう3500km走ったわけなんだけど。
理想を満たすことを考えるとクソデカバイクしか無さそうだ。
ローンでいっそ買ってしまおうか……
とまで考えて、急に冷静になった。
待て待て。
そもそも軽量なバイクに買い換えたのは、車と用途が被るからだ。
だからわざわざ軽くて小さなバイクに買い換えてそれで熱が再発したのに、なんで前持ってたバイクよりデカいの買おうとしてんだよ。
バカか。
バカなのか。
ということで少し冷静になることにした。
虚無がやってきた。
虚無状態
この虚無状態になると、脳みそが死ぬ。
筋トレはまあ、なんとかできる。
けれどなんとなく、小説だとか映画だとか、有意義……もっと明確に言えば「有意味」なものに触れる気がしなくなる。
変な漫画を読んだり、変な動画は観ることができる。
ここらへんは前回の記事でも語ったことなのだが、より詳細な思考変遷のプロセスはここで述べたように「虚無状態」に至ることが理由である。
軽微な鬱状態なのかもしれないが、ここに関して深いことを言うつもりはない。
だがどうも……
このようにガーッと、一つのこと、具体的には「次に欲しいもののこと」に延々と執着して、執着して、執着して、それがなくなって虚無になって、また執着、執着……みたいな生き方って、……。
どうやら、一般的じゃないらしい。
エビデンスがあるわけじゃない。
だが実感としてそうなんだろうな、という感触がある。
冒頭の引用に繋がる。
「自分とはなにか?」
その答えは、「自分とは『次はなにがしたい?』としか考えない人」です。
これは「躁鬱人*1にとって」の話だ。
言い換えると、「躁鬱人以外にとって」はあてはまらないわけだ。
つまりマジョリティではない、ということだ。
だがどうも自分は(躁鬱人かどうかは別にしても)、「そう」なのである。
次どうしたいか、次何がしたいか、次何が欲しいか、そんなことでしか自分を繋ぎ止められない。
まったりゲームする、まったり映画を観る、そういうのがなかなかに苦手なのだ。
「ゲームするぞ」「映画観るぞ」ってあらかじめしっかり決めないとキツい。
そして次どうしたいか、次何がしたいか、次何が欲しいか、その火が消えた瞬間に、「虚無」がやってくる。
悲しいことに。
「虚無」でも、お酒は美味しい。
否、違う。
「虚無」であった方が、お酒は美味しい。
本当に欲しいもの
本当に欲しいもの。
それは実はとても単純な話。
筆者のことを傷つけない彼女が欲しい……
ということに関しては、自分の努力で制御できないことを望むと傷つくだけってことはよーく分かってるのであまり考えないようにしている。
だがその辺を考えないようにしたらどうなるかというと、「金で得られること」だけが「欲しいもの」として残ることになる。
どういうことか。
まず、自分では制御できないもの、つまり他者に依存するものは除外する。……①
ということで、「オタクに優しい歳下のお姉さんが欲しい」みたいなのは一旦除外しよう。そもそも妄言である。
次に「知性のある自分」「ムキムキな自分」「博士号」なんかを想定しよう。……②
なるほど、これは金だけでは得られず、努力が必要なものの、恋人云々よりは他者に依存せず得られる。*2
だがちょっと待って欲しい。
「虚無状態」でこれらを欲することができるか?
できん!!!!(反語)
じゃあ金で得られることをとりあえず欲しようか、ということになる。……③
腕時計、車、バイク……
けどそれも……虚しいよなぁ。
で、虚無が加速する。
寝たり酒飲んだりしてるうちに②を欲する心の余地がちょっとだけ復活してくる。
でもそれは元気な間だけで、継続的になんとか情熱が持てるのは③だ。
でもすぐに虚しくなる。
結局、何も欲しくなくなる。
欲しいものが得られないから死にたい?
あまり深くは語りたくないのだが……
生活が良くならないから。
欲しいものが得られないから。
稼げないから、死にたい。
……みたいなことを言う人が身の回りにいた。
正直、よくわからなかった。
何も欲しくなくなったから死にたい、なら分かる。
でも欲しいものがあるなら、それは生きたいってことなんじゃないのか?
生きるとは何かを欲するってことなんじゃないのか?
少なくとも③の類型の欲望はあって、それに虚しくなってないってことだろ?
そのために金を稼ぐってのが②に属するからしんどい、っていうのは分からなくもないけど。
冒頭に引用した『芋粥』という小説は、ざっくり言えば「芋粥を食べることだけを楽しみにしている冴えない男が、嫌な上司に大量の芋粥を与えられて嫌になっちゃう」というような話だ。
この作品からは色々なことが解釈できるのだけれど、筆者は
- 「欲望の本質ってのはいざ与えられるとつまらない(いわば賢者モード)」*3
ってことと、
- それでも欲望そのものは否定されるものではない
ってことが読み取れると思っている。
それが冒頭の引用に繋がる。
人間は、時として、充されるか充されないか、わからない欲望の為に、一生を捧げてしまふ。その愚を哂ふ者は、畢竟、人生に対する路傍の人に過ぎない。
人生の対する路傍の人。
強烈な言い方だ。
言い換えれば、人生の道のど真ん中にいる人は、「愚」を犯していることになる。
それはそれで仕方ないのだ、と芥川がシニカルに笑っている。
そんな気がする。
では、欲望が潰えた人間もまた、人生の路傍の人なのか。
芥川はそこまでは言っていない。が……
……
まぁ。
結局進んだり戻ったりしながら、①〜③の様々な欲望を、時に燃やし、時に自然発火に身を委ねながら、消えたと思っても生きていくしかないっていう……
それだけの話なんだけどね。
ここまで書いて思い出したけれど、同じテーマで前も書いてたな……
さて。
今、あなたは何が欲しいですか?
僕は今、それがよくわからないので、ひとまず誰かに何かが届くように、そして自分の心が分かるように、この文章を書いています。
ではまた。