あけましておめでとうございます。
新年早々なんという暗いタイトルなんだ。
2024年は本当に、本当に辛かった。
後悔やら自己嫌悪やら怒りに支配されて何をしても純粋に楽しめないような状態が続いていた。
それでも、少しずつでもそこから脱することが年末にはできていたように思う。
暇な人は回復の過程を暇なときにでもお読みください。
特に以下の記事辺りは向き合わんでもええような自分の内心に向き合いすぎて余計なコンプレックス掘り起こしてる……
midnight-note.comさて。
ここから語る話は極めて内省的だし、振り返ってみれば稚拙な気もする。
それでも、誰かの参考程度にはなるかもしれない。
心穏やかな新年早々のうちに語っておこうと思う。
ここに書く内容はエビデンスに基づくものではなく経験に基づくものだし、人を選ぶものだと思うから、自分に合う内容だけをピックアップして頂きたい。
そして症状が強い人はこんな記事読む前に通院してください。
この記事はあくまで民間療法みたいなものです。
「実害が出ているわけではないから心療内科に通うのは抵抗がある……でも本当に人生が楽しめない……」みたいな状況の人に向けて書いてます。
具体的に言えば、過去の自分です。
前提
概ね以下の書籍の内容を踏まえたものとなっています。
だから近しい内容も多いです。
けれど視点を変えた内容や、少し踏み込んだ内容も書こうかなと思っています。
メソッド1. 呪文「思考は害悪」を唱え続けろ
いきなりディストピアみが出てきましたね。
けれど僕は至って真剣です。
これを言うと「思考停止は良くない」とメンヘラの知り合いに言われたことがある。
だがこっちから言わせれば
「僕もお前もアホなんだから考えたって無駄だよ」
なのである。
極限状況やその一歩手前での思考なんか、自分か世間か誰かを責めるものでしか存在し得ない。
そんなものは無駄そのもので、自分や誰かを傷つけるものでしかない。
「余計なことは考えるな」と言ったって考えてしまうのが人間である。
その理由についてはあとで語るけれど、理由以前にまずは唱えるべきなのだ。
「思考は害悪である」と。
何度も何度も。
「思考は無駄である」だと弱い。
明確に「害悪」なのだ。
だって有益な思考なら、有益な目標設定から必然的に導き出されて、行動に直結するはずだから。
行動に直結する思考は害悪じゃないけれど、今のアナタ(私)、そこを分別できるほど冷静じゃないでしょ?
落ち込んでるときの思考ってそんなもんだから、いったんもう「害悪」ってラベルを張っちゃってOK。
有益な思考は前向いたときに自然に出てくるから。
メソッド2. 退屈しない人生だけを目指してください
昔から「自由ってなんだろう」と常に考えてきた。
俺のポリシーは自由と平穏だ、っていうのはなんとなく抱えていた。
仏教の勉強なんかをやって「平穏とは何か」の答えは自分なりに見つけることができた。
平穏とは「今日死ぬと言われても動じないこと」だ。
本題から逸れるのでここは深く語らないが、僕が求める「平穏」とは究極的にはそういうことだ。
では「自由」とは?
今までその答えが出せずにいた。
ある日考えた。
監獄にいても自由な人間と、金も時間も有り余っているのに自由を感じられない人間の差はなんだ?
ここで言う「自由」とはすなわち「幸福」なんだけれど、さらに噛み砕くとどうなる?
退屈かそうじゃないか、ではないのか。
あり得ない仮定ではあるのだが、監獄にいても全く退屈していないのであればそこから出ようとしないだろうし、それは自由の感覚とも直結しているだろう。
金も時間も有り余っているのに自由を感じられない人は、結局のところ退屈なのではないか。
じゃあもう徹底的にシンプルに、「退屈しないこと」だけを追い求めれば良い。
……言い換えれば。
「何をすれば退屈じゃないか」。
それだけを考えつつ、変な薬や不倫やらギャンブルやらにハマりすぎないよう「平穏」も同時に追い求めることでバランスを取る。
それは僕らみたいな人間にとっての必要十分なんじゃないか。
急に「僕ら」っていうでかい主語が出てきたけれど。
要するに後悔やら自己嫌悪やら怒りといった内省に囚われやすい人間っていうのは、一言で言えば「退屈している」のだと僕は思っている。
変に思考する暇だけはあるもんだから、かえって「退屈しなければそれでいい」というシンプルな解答にたどり着きにくいのだ。
人生のミッションは?とか。
大義は?とか。
社会的立場云々、とか。
でも、内省に囚われて憂鬱になるような人間で、そういったものが見つからなくて悩んでいる人全員に言いたい。
お前は(俺は)退屈しなくて気持ち良い人生を歩むこと以外できないし、それで良いんだよ、って。
人生に夢やら希望やらは必要ないです、僕やあなたに関しては。
都度都度退屈しないことだけをしてください。
「人生は暇つぶしだ」っていうよく言われている冷笑的なことを言いたいわけじゃないです。なんかその言い方はちょっともったいないというか、人類の叡智に失礼な気がする。人生にミッションを持って、大義のために動ける人はそれで全然構わない、というか邁進すべきだ。
問題はそうじゃない我々だ。
ミッションやら夢やらのために動ける人間は、あるいは退屈する暇なんて無いって言ってるゴリラみたいな人間は、内省に囚われてる暇なんて無いはず。
一方我々には内省に囚われる時間がある。
にも関わらず、その時間は全然幸せじゃない。
時間があるってことは本来暇ってことだ。
暇で幸せじゃないってことは退屈ってことだ。
でも大義を持たない我々も幸せになる権利や義務がある。
ほな、どうする?
「退屈しないこと」を目指すしか無いじゃないか。
それもなるべく幸福な方向で。
先程も述べたが(ゴリラみたいな人間かどうかは別としても)、退屈していない人間は内省に囚われることも無いだろう。
これは誰にとっても直感的に正しいはずだ。
そして「退屈しない人生を歩む」っていうシンプルな解が変なノイズで汚された結果、自分らしい生き方ができなくなっちゃってる人、結構いると思う。
ただ、ここまで読んできて思った人もいると思う。
「退屈しない生き方」ができりゃ苦労しねえよ、と。
絶望が先か、退屈が先か。
とにかく有り余る富があっても退屈の果てに薬ら不倫に走っちゃう人は結構いるし、憂鬱に囚われている人に面白いゲームを勧めても意味がないことは経験的に知っている。
そこでメソッド3だ。
メソッド3. 呪文を唱えて待て
「その人にとって退屈しないことは何か」。
そんなものがすぐ見つかれば苦労しない。
だからブツブツ唱えながら、待てば良い。
呪文は2つ。
「思考は害悪」と、「退屈しないことは何だ?」である。
前者はアレンジしなくて良い。
後者はアレンジして良い。
「次にできることはなんだ?」でも良い。
最初に紹介した『躁鬱大学』にはズバリ我々のことが以下のように書かれている。
「自分とはなにか?」
その答えは、「自分とは『次はなにがしたい?』としか考えない人」です。
『躁鬱大学』その6より
メソッド2で書いたことはここに書かれていることを少しアレンジしただけとも言える。
これだけで我々は必要十分なのだ。
まあただ、憂鬱な状態だとそういった心持ちをすることすら難しいと思う。
だから次のメソッドを読んでほしい。
メソッド4. 強くなれ、強さの定義を知れ
お前は弱っている。
俺も弱っている。
これは間違いないだろう。
じゃあ強さってなんだ。
強いってなんだ。
範馬勇次郎の如くアメリカ軍相手に一人で戦えることか?
吉田沙保里の如く相手をバッタバッタと倒せることか?
それとも、渋谷で100人を相手にナンパできるメンタルの強さか?
そういうのも強さだが、我々が目指すべき強さは別である。
すなわち。
強さとは、欲望である。
欲望とは、強さである。
要するに「あっ、いやっ、僕の人生もう何も要らないんで……(満ち足りてて幸せ、という意味ではなく自分が欲しいもの、面白いと思うものが何かさっぱりわからないって意味で)」って言ってるやつと「年収1億欲しい。彼女50000人欲しい。休日は年365日欲しい。美味い飯食いたい。酒めっちゃ飲みたい。10リットル飲みたい。その上でド健康でいたい」って心の底から言ってるやつ、どっちが人として強いかってことなんですよ。
絶対に後者ですよね?
で、内省と憂鬱に陥ってるやつ、100%前者の状態に陥ってるんですよ。
その理由は二つ。
諦めモードに入ってるからってのが一つ、そしてもう一つは……
欲望に罪悪感を抱いてるから、なんですよ。
欲望を持つことに。
だからまず「貴様は弱い」ってことを意識してください。
そして次に「強くなる」ことを決意してください。
「強くなる」ってことは「欲望を持つ」ことだって理解してください。
何?欲望が持てない?
あーわかりますよ。僕もずっとそう言ってましたから。
でも、気付いたんすよ。
管理コストが全く同じなら、少しでも広い風呂入りたいでしょ?
同様で、管理コストが全く同じなら少しでも広いキッチン使いたいでしょ?
金があって時間がありゃそれは実現できるんですよ。
実際金持ちは家事代行を使うわけだし。
一応言っておきますが、今の話はアウシュビッツに収容されていた人のような本当の極限状況の人に向けて語ってるわけじゃないですからね?
そういった状況の人はまずその状況を抜けてください。
今語っている相手は過去の自分……つまり、自分の声だけが本当にうるさすぎて、本当に何も希望が持てなくなっている人です。
閑話休題。
「広い風呂入りたい」って全く思えない人ってあまりいないと思うんだけど、もしもそう思えなかったら、以下のように考えてほしい。
例えば5億あったらどうします?
少し大きなモニターが欲しい。
風俗に行きたい。
少し高級な居酒屋で散財したい。
とりあえず、大体のことはできるわけですよ。
で、そこからいくつか拾って、それを決して否定しないでほしい。
それこそがあなたの、そして僕の「人生」なのだから。
さて、最後のメソッドに入ります。
けれどこれは最後の最後のメソッドで劇薬だから、人を選ぶとは思う。
それでも語らなければいけないから語ります。
メソッド5. あなたが100人を殺した人間でも、自分は許されていると思って良い
急に宗教的かつ凄いこと言い出したなこいつ、って思われるかもしれない。
あらかじめ言っておきますが犯罪を推奨してるわけではないですからね。
だけどこんなことを言い出したのは明確に理由があって……
後悔、自己嫌悪、怒りって結局罪悪感とセットなんだよね。
2024年、僕は本当にとんでもない輩を身近に見てきた。
シンプルに犯罪者だとか、法の隙間でタチの悪いことをする奴ら。
やってられない。
そいつらに対する怒りの時間がもったいない。
でも一方で、思う。
もしかすると自分もその一員なのではないか、と。
去年は悪い奴らに揉まれながらトコトン自分と悪い意味で向き合ってしまったこともあり、自分が過去にやったこと……それもこれまで忘れていたことすらも片っ端から思い出し、罪悪感に陥るということも多々あった。
特に僕は司法試験の勉強をしていたこともあって、「自分の過去の行為は厳密には構成要件*1に当てはまるのではないか」と真剣に悩んだりすることすらあった。
カウンセラーに相談して「それは犯罪にはあたらない」と言ってもらったこともあるが、それでもまだ心に引っかかりは残っている。
罪悪感というやつは、本当に強烈な感情だ。
関連する本も色々読んだ。
最終的には(そうする以外に合理的な手段が無い以上)「自分を許す」しかないのだが、罪悪感を抱えるような人にそれはとても難しいことだろう。
自分が犯罪者であるかのように思い込んでしまうことは多々あると思う。
許そうとしたときに、「でも自分の罪は重いから」という発想が、どうしても出てしまう。
だから本当に強引かつ究極的な仮定を持ち出したうえで、そうであったとしても「自分を許すしかない」のだと思っている。
そうじゃないとあなたは前に進めないし、あなたが普通に生活するだけで救えたかもしれない誰かを救うことができなくなっているのは少なくとも人類目線だと損失だ。
「あなたが100人を殺害した人間でも、自分は許されていると思って良い」というのはそういうことだ。
もちろん世間が許すかどうかは別だが、それは世間様のご判断であって、あなたが判断すべきことではない。
もっと具体的に言えばあなたが本当に100人殺していたなら、あなたはいずれどこかで逮捕されるだろうから安心して待っていれば良い。
筆者が言いたいのはそういうことだ。
……が、メソッド5は他のメソッドとだいぶベクトルが異なるので、納得いかない人も多いと思う。
実のところ自分でも納得しているわけではない。
けれど罪悪感に関しては「誰もこんなこと言わんし、ほな自分が言うしかないか」という気持ちで書いた。
なお、この話は仏教のアングリマーラの話も参考にしている。
気になった人は調べてみてほしい。
まとめ
そんな感じでここまでのメソッドを駆使して前を向きつつある筆者です。
適当に楽しく退屈のしない人生を目指していく所存です。
今年もよろしくお願いいたします。
ではまた。
*1:条文から導き出される、犯罪を構成する要件のこと