Midnight Note

明日はどこまで行こうか

『超かぐや姫!』は「最高の物語」だ

書かれたもののなかで、俺が愛するのは、血で書かれたものだけだ。血で書け。すると、血が精神であることがわかるだろう。


ニーチェ『ツァラトゥストラ』丘沢 静也訳 光文社

血で書くとはどういうことか。
書くことが自傷行為であるということか。
否、もっとフランクに言おう。
そこに覚悟が、信頼が、あるいは強さがあるか。
そういうことだ。

ニーチェ大先生がこのクソ雑魚解釈を嘆こうが関係ない。
今、僕はそう解釈したいのだ。

僕は「血」を見た。
それは傷口から流れ出る痛々しい鮮血ではなく、生と熱の奔流だった。

www.cho-kaguyahime.com

ツァラトゥストラはかく語った。
ならば僕はどう語ろうか。

注意

この記事は『超かぐや姫!』のネタバレを含みまくります。
絶対に観てから読んでください。

www.netflix.com





……観ましたか?
では、始めましょう。
なお、画像は先述した公式サイトから引用しております。

令和的、あまりに令和的

正直、序盤からキツかった。
ノリが合わないとか、そういう話じゃない。
いや、実際にノリは30代のスレきった男性が見るには色々な意味で作りが若すぎたのは事実だが、そこではない。*1

令和的、あまりに令和的。
冗長な空気感や「間」をトコトン排除し、常に情報の奔流と最高クラスの作画だけが画面を占め続ける。
もし小津安二郎が生きていてこの映画を観たら、キレ散らかして映写機を壊したのではないだろうか。知らんけど。

……で。
その「詰まりっぷり」と「テンポ感」が辛かったのではない。
あまりにも刺さりすぎてしまったのだ。

主人公の彩葉ちゃんは容姿端麗才色兼備文武両道、ぐうの音も出ない完璧超人だ。

バイトやら学業で限界まで肉体を行使しながら、それでもゲームと「推し活」は決してやめない。

唐突に自分語りになるが、筆者は高校二年生の頃、バイトまではしていなかったが割と似た生活をしていた。
部活を3つ兼部しながら塾に通い、公立の中の上くらいの高校から某京都の国立大学を目指して一日4時間程度の睡眠で頑張っていた。
僕はその頃、しょーもないゲームをすることだけは絶対にやめなかった。
理由は簡単で、それだけが自分を世界に繋ぎ止めてくれていたからだ。
「これだけ頑張ってるのにゲームしてる自分」という自認だけが世界と自分を接続してくれる、そんな世界があるのだ。

「彩葉ちゃんのような超人に僕を含む観客*2が感情移入することは正しいのか?」という問題は非常に重要だから後で語るとして……
序盤の不意に聴いた大好きな音楽で涙ぐむシーン。

世の中にはあのシーンでフラッシュバックを起こす人間と、起こさない人間がいると思っている。
そして起こした人は結構多いのではないだろうか。

本当の「限界」ってあんなふうに唐突に訪れる。
本当にリアルだ。
なお筆者の場合そんな生活が長続きするはずもなく、当然のごとく精神をぶっ壊したのだがそれはまた別の話。
彩葉ちゃんは良くも悪くも表面上は「まだ壊れていない」
かぐやが来なかったら、九分九厘彩葉ちゃんは壊れていたのだろう。
否、あるいは既に壊れているのかもしれない。

で、そんな壊れかけの彩葉ちゃんの前にかぐやが現れるわけだけど……
そこからの展開やテンポ感に「一切の間がない」のは先に述べた通りだ。

それはあたかも彩葉ちゃんの精神状態のようで……。
あるいは。

「この物語が生まれざるを得なかった令和の若者たちの精神状態を現すかのようで」。

ずーーーっと観てて苦しかった、というのは少し大げさだろうか。

もちろん本当に映像美も凄く、観ていて楽しい映像がずっと続くから飽きずに観られるんだけど、なんとなくどこかしら苦しさがあった。

『かぐや姫』という詰んだモチーフ

また、物語として最初から詰んでいるというのも気になった。
『かぐや姫』。
それはもう調理のしようがない物語だ。

原典通り「帰る」のを眺めるだけというのは、事実かぐやが言う通りハッピーエンドではない。
かと言ってそれを阻止したり、帰るのをやめたらハッピーエンドか?
それもチープ、陳腐だ。

「この物語はどう決着をつけるのだろう」と、少し息が苦しくなりながら、それでも圧倒的情報量の中流されるように観ることになった。

かぐやという令和最新版平成ハイテンション(僕の)世界変革系ヒロイン

さて、この作品のメインヒロイン(?)であるかぐやについて語ろう。

「平成ハイテンション(僕の)世界変革系ヒロイン」はだいぶコンプライアンスを意識した表現である。
もう少しどぎつい表現で最初書いていたのだが、「原液」の表現は読者諸氏にご想像願いたい。

さて、「平成ハイテンション(僕の)世界変革系ヒロイン」とは何か?
それは僕がさっき作った表現ではあるのだが、平成のアニメにはよくいた存在だ。

つまり、ハイテンションだったり奇行が目立つが、圧倒的行動力で内向的だったりことなかれ主義だったりする主人公を振り回し、場合によって最終的には世界すら変えてしまうようなそんな存在だ。
アニオタの皆さん。思いつく女の子、一人はいるでしょ?

(僕の)とカッコで留保したのは、本当の意味で世界を変えてしまう……つまりいわゆる「セカイ系」の場合もあれば、主人公の内的世界を変えるに留める場合もあるからだ。
とにかく、そういうヒロインが出てくるアニメはあった。
具体例を出すとそっちに議論が持っていかれそうなので控える。
あと、最近はどっちかと言えば主人公が女の子を引っ張ったり振り回したりする作品が結構増えたよなぁという印象もあるが、その話も控える。

まあ「平成」と明記したものの、主人公の殻を破るきっかけになる圧倒的すぎるパワーを持った存在が物語をひっくり返す、という展開自体は別に平成に始まったことではなく、つまるところ王道中の王道だ。
彩葉ちゃんの場合少し特殊なところもあるのだが、それは後述するとして……
かぐやはとにかくそういったヒロインだ。
君は完璧で究極のヒロイン、というわけである。

で、こういったヒロインは物語上タチが悪い。

全ての物語を一人で完結させてくるからだ。

分かりやすいところで言えば……
具体例を避けると良いつつ、避けられないので言ってしまうが……
『NHKにようこそ!』をご存知だろうか?

2001年に出版された小説で、それこそまさに引きこもりの主人公を表紙の女の子(岬ちゃん)が色々あって引きずり出す話なのだが……

作者の滝本竜彦はこの小説を書いたあと長いスランプに陥る。
僕は滝本竜彦のウォッチャーなので、少し憶測も入ってしまうかもしれないが、おそらくはスランプの原因は「この構造が強すぎる」からなのだと思っている。

平成ハイテンション世界変革系ヒロインは、強すぎるのだ。
それこそ「物語」を一人で破壊するレベルで。

女の子(ヒロイン)が強ければ強いほど、主人公はそれに強く抗わなければならない。
「平成ハイテンション(僕の)世界変革系ヒロイン」が出てくる物語は、最終的に主人公がどこに行くのか、それこそが最も大事とも言える。

ちなみに上記『NHKにようこそ!』について僕がこう思うエビデンスとして、少しだけ漫画版の話をするが……

漫画版は途中から岬ちゃんの頭が滅茶苦茶おかしくなり……
というか全員の頭がおかしくなる。


その中で「自分の意志で俺は岬ちゃんを好きになる」というところを結論に持っていこうとしているのだが、正直物語としては失敗していた。*3


そもそも、そのオチは弱い。
どんな打算があろうが背景があろうが引きこもりから救ってくれる女の子はそれだけで大天使なのであり、そういった存在がある物語で「俺は自分の意志で強く生きていく」は弱すぎる。
それは自明だろう。
自明なのだ。

さて、脇道にそれた。
これは『NHKにようこそ!』の記事ではない。
『超かぐや姫!』の記事なのだ。
タイトルにどっちも!がついてるという理由でこんな長々と脇道にそれた訳では無い。

どう頑張っても、これだけ「強い」アニメが、「強く」終わるビジョンが見えなかったのだ。僕には。

結論を言おう。

それは僕が、この物語の熱量を舐めていた。
この物語に流れる熱い血潮の量を舐めていた。
それだけの話だった。

ところで例の「偽ネトフリ特有スタッフロール」で終わらないのはある意味バレバレなのに、それでもリモコンに手を伸ばしてしまった。
アレ、出来が良ぎだろ。
自然にかつ反射的に身体が動いたわ。
ただそれは「いや飛ばすな!」という本能レベルの反射だけではなく、「この後つまらん展開見せられるくらいならせめてここで終われ!」という僕の願望も入っていた……のかもしれない。
それくらい、この後の展開を僕は信頼していなかった。
できていなかったのだ。

最悪の物語とは、最高の物語とは

最悪の物語とはなんだろう。
端的に言おう。
「物語なんか卒業しろ」とか「二次元なんか卒業しろ」と言ってくるクソどもだ。
したり顔で説教するオッサンの顔が見えてくるようなブツだ。
具体名は出さないが、アレとかソレのことだ。

なんで物語が。
物語を信じる者たちのことを。
物語に救われてきた者たちのことを。
物語自体を信じないんだよ。


分かってんだよ。
物語が現実じゃないことくらい、誰だって。
それでもなおそこに答えを求め、世界を求め、全てを求めて生きてんだろうが俺等は。
それを信じられないなら筆を折っちまえ。

じゃあ最高の物語って何だ?
ここから凄く雑なことを書く。
これは元々批評ではない。
ただの、タダで読める感想文だ。 

最高の物語とは。
存在しないものを現実にしようとする意志を、物語それ自体を現実にしようとするその意思を、肯定するものだ。
さらに抽象レベルで言うなら。
「何かを得る」ということを描いた物語じゃないか。

僕は、この映画を一言で言えば一つのテーマに収束すると思っている。

「強欲」。
そう。あまりにも、「強欲」。

メタ構造として情報と美しい映像と音楽で詰め込みまくった2時間以上の時間の帰結は、彩葉の「全てを得る」という高潔ですらある覚悟だった。

「バーチャル世界より現実」というチープな話じゃない。
彩葉は、最後、かぐやを……
「全て」を手に入れたわけだ。

一瞬、「これ結局、空想世界を現実にするエンドだから僕が大嫌いな『物語そのものの否定』になってないか?」と少し悩んだ。
だが、それは明らかに違う。それならば現実と仮想空間両方の同時ライブっていうエンドに帰結しない。あのエンドは明らかに意図的だ。

僕が恐れと息苦しさを抱いた、令和的な「退屈を排除する」「間を嫌悪する」価値観は……
最終的に、「全てを手に入れろ」という、熱い血のメッセージに帰結した。
これが震えずにいられるか。

確かに「超かぐや姫」だ。
仏の御石の鉢も、蓬莱の玉の枝も、全て彩葉は手に入れたのだ。







……で、この雑多な感想文を終わらせたかったのだが。
そうは問屋が卸さない。
一つだけ、この物語には避けられない副作用がある。
どうしても語らねばならない。

超人多すぎ問題

彩葉ちゃん、いくらなんでも超人すぎる。
というかこの映画超人しか出てこねえ。

ただこれはどうしようもない問題で、もしも……
「うだつの上がらない、成績も良くない、運動もできない、容姿も良くない、VRとゲームだけが好きな男」が主人公だったら?
それは趣旨があまりにも変わってしまう。

そもそも彩葉ちゃんと同スペックで男主人公だったとしても、「かぐやに惚れないのはおかしいだろ!」となってしまうので、なんというか物語上ノイズにならないように針に糸を通すようなことをしまくった結果、登場人物全員あんな感じになったのだと思う。

はい、そっすよね。
ロボット工学で若くして成果出すわけだから東大くらい受かるの当然だし。
あと、お兄ちゃんとかぐや。配信で結果出す人間ならまあ元の容姿も良いよね。
お兄ちゃんに至っては「ありゃモテるわ」って言われてるくらいのスーパーマン。

……。

さて、「そんな主人公に感情移入することは正しいのか?」と先に問題提起した。
結論としては、彩葉ちゃんに感情移入することと、彩葉ちゃんのスペックは別に関係がない。
かぐやに出会う前の彩葉ちゃんはゲームしたり推し活したり、日々を頑張ったり、そうやって生きてはいるけれど……
「欲」の「芯」というか、本当の人生の本質的な部分というか、そういったものを得られずにさまよい続ける、スペックを抜きにしたらどこにでもいる「令和の人間」なのだから。

ホラーでもない限り誰にも感情移入できないエンタメはさすがに問題だが、登場人物のスペックが高いこと自体はこの物語の質に影響を与えないし、これは必然だった。
だから、このスペックの高さはこの物語の欠点や欠陥ではなく「副作用」……厳密に言えば「副作用を引き起こす原因」なのだ。

引き起こされる副作用とは?
それは……
決してこんなスペックではない令和の僕らはどう生きるか?という問いである。


……いや、もしかしたら。
そのような問いに帰結させることは、このパワフルな物語を過小評価しているのかもしれないな。

物語は誰に対しても圧倒的エネルギーの奔流を見せてくれる、それだけで良い。
それだけで十分だ。

……そう言いたい自分もいるし、でもやっぱり……何か「副作用」が引っかかっている自分も、どうしてもどこかにいる。

……まあ、それは。
結局のところ、それくらい感化されたということなのかもしれない。

僕もまた「強欲に生きてみたい」と、そう思ってしまったのだ。
そう思わされて、しまったのだ。

だから良いのだろう。
スペックなんか気にせず、強欲に生きれば。
その先にスペックなんてものはついてくるのだ。
多分ね。

結論

序盤75点、結論で加点1億点の『超かぐや姫!』を愛しましょう。*4

サムネ用

 

*1:とか言いつつ30代ホイホイではあるが、それも別の話。

*2:現状はネトフリ配信なのでこの言葉が正しいかどうかは微妙だが、便宜上。

*3:個人的には滅茶苦茶好きな終わり方なのだが、成功か失敗かで言えば失敗だと思う。

*4:なお、今回ボカロ文化とかVRとかに関して深く語るのは避けました。絶対事故るので。