「楽しむことは、技術だ」
こんにちは、Mistirです。
楽しむことは技術だ、と。
目標を明確にした上で成功した人は、『たまたま』そこに楽しさを見つけられただけの話だ、と。
何かを楽しむためには、焦るのではなく、「待つ」ことが必要だ、と。
僕は以前の記事で書きました。
その考え方自体には変わりはありません。
求めつつ、待つ。焦らずに、待つ。
そうしないと、本当の楽しさは見つからないのかもしれない。
だけど、もしかすると「本当の楽しさ」とか「本当に面白いもの」を見つけるためには、さらに大事な要素があるんじゃないかと思えてきた。
ちょっとだけ話は横道にそれるけど、僕はゲームが好きだった。
でも、最近は音ゲーくらいしかやっていない。
世間ではどうやら「スマホゲー」とか「ソシャゲー」とやらが流行っているようだ。
ちなみに僕も艦これはやってた。
そしてちまちま僕も(艦これ以外の)「ソシャゲー」をダウンロードしてみることがあった。
でも、どれも一週間も続かなかった。
任天堂もなんかスマホゲーに参入するとか、そういう噂を聞いて、僕は気付いた。
「ソシャゲーって現代的だよな」と。
あ、「ソシャゲー批判」の記事じゃないのでご安心下さい。僕は「とりあえず現代的なテクノロジー批判しとけばいいでしょ」みたいな批評が大嫌いです。
話を戻すと。僕がやったソシャゲーは、どれもこれも「はい、ここでタップ!ここでタップ!ここでタップ!レベルアップ!スキルを振ろう!アイテムゲット!レベルアップ!アイテムゲット!」みたいな。
艦これも基本的にはクリックした後「見てるだけ」である(一応5−4まではクリアしてます)。
昔やってたようなRPGとかアクションゲームと比べると、プレイヤーの入る余地が凄く少ない。
良く言えば、楽だ。
今アクションゲームやるのもRPGやるのも、ぶっちゃけると面倒くさい。
それは僕がおっさんになった証拠なのかもしれない。
僕は以前、こんな記事を書いている。
それくらい、この「面倒くさい」という感情は大きい。
この記事だと、「多くのことをなまじっか知りすぎたために、非合理のカタマリで純度の高い娯楽であるゲームってのが出来なくなっちゃってるんじゃないか」というような仮説に関して考えている。
でも、多分それだけじゃないんだよな。
さっき、僕は世の中がソシャゲー的になっていると言った。
それはどういう意味なのか。
「起動するだけで摂取できる」楽しみがあまりにも増えてるんじゃないか?ってことだ。
最近はなんでもタダで、あるいは格安で、結構良い楽しみが手に入る。
ニコニコ動画とかYouTubeもそう、TwitterやFacebookもそう、ソシャゲーは全部そう。
起動するだけ、思考を停止して画面をタップする。
僕は、それが悪いとは決して言わない。
ここで「スマホ文化は思考を停止させるから人間は馬鹿になる」的な、そういうことを言うのは凄く簡単な事だ。だけど、僕はそれ自体が思考停止だと思っている。
だからあくまでも、ここから展開されるのは「批判」ではない。「仮説」だ。
「楽な」楽しみが手に入ることは、何を意味しているのか。
もしかすると現代は、「楽じゃない」楽しみを手に入れることが難しくなってるんじゃないか、相対的に。
いや、もちろん「楽しみ」なんて探せば無限にある。
だけど、無限にあるからこそ、探しにくい。
例えば、金に余裕があって金に満足してる人が、金儲けのチャンスに貪欲に慣れるだろうか?
時間に余裕がある人がタイムマネジメントに真剣になれるだろうか?
それと同じで、もしかすると……
「現代を生きていることは、即ち、相当な意志の力がないと『楽じゃない楽しみ』を探して、楽しむことさえできないのではないか」。
さとり世代、という言葉がある。
- 貯金したいと思っているが無理して収入を増やす必要は無い
- 一人あたりのお金も人口も多いのは老齢者なのに、 そのどちらも少ない若者向けに商品を回すようにしたための業界の自滅。
- そもそも不況しか知らない世代なのでお金を貯めものと思ってる(デフレ)。
- 消費者がある意味賢くなり買いたいものを比較検討するのではなく購入自体を検討する
- 買わなくていっかって選択肢が常にある
- 浪費は飲み物が限界で賢く使うつもりもなくじゃあ買わなくてもいいかとなる
- ゴミを捨てるのが有料になっている。このため買い物が増えるとそもそも無駄にお金がかかる。
最近は私的録音録画補償金だのそもそも買うこと自体がよく分からないお金の回りがあることが公になっている。- 無理をする気がさらさらなく安いもので代替が効きそうなら高いものは買わない
- ブランド物をもつ必要性を感じない
- ライフスタイルの変化や多様化により、実物以外にお金が掛かるようになっている
- 無個性の個性化。目立つことをよしとしない。事なかれ主義者が多い
この中にある、
買わなくていっかって選択肢が常にある
ってのは、どういう意味か。
もちろん色んな意味があるだろうけど、僕が今語っているこの記事の内容に則して言うと、
十分お金がなくても楽しめるんだから、買わなくていいっていう選択肢が生まれる。
ってことになる。
さらに、「お金」の要素をここから抜けば、
要領のいい楽しみ方なんて幾らでもある。
っていうことも言えるんじゃないか。
僕の言っていることは、さほど的外れじゃないと思っている。
そう、現代には「要領よく楽しむ方法」が多すぎる。
もちろん、あえて逆を取ってる人もたくさんいる。
例えば動画サイト一つ観てても、「え?なんでそこまでの情熱をかけられるの?」みたいな、そういうモノばかり。「一人でそこまでできるの!?」
脱帽である。
……いや、「あえて逆を取っている」のか?
それとも、「現代特有のチャンスを上手く利用している」のか??
僕には分からない。分からないけど、間違いなく言えることがある。
「『要領よく楽しむ方法』を選ばない意志も必要なのではないか」と。
このブログのタイトルを、「MistiRoom」から「僕らは『楽しさ』に餓えている」に変えてみた。
※【追記】この後、「楽しさ」という言葉が持つ「広がり」に注目したくなった。だからいっそのこと「楽しさ」を「」に変えてみた。「」は、まあ「何か」というくらいの意味だけど、カッコつけてみた。カッコだけに。※追記ここまで
これは、僕の一種確信めいた考え方によるものだ。
そうだ、間違いない。「僕らは『楽しさ』に餓えている」。
その「餓え」は、「要領のいい楽しみの『注入』」だとどうしても満たされないんだよ。
注射や点滴でも生きてはいけるだろう。だけど、腹は膨れない。
でも、現代という大きな病院は注射を、点滴を勧めてくる。
そこで「ノー」を突きつけるのは、少なくとも、勇気と意志が必要だ。
もちろん、たまには受け入れていい。だけど、「腹が膨れていない」ことだけは、忘れちゃいけない。
選ばない勇気、拒絶する意志。
最近、秋葉原に行ってみた。人生で初めてメイド喫茶というものに入ってみた。
つまらなかった。「何故この人たちはメイドやってるのに、俺はただの人なんだ?」と。わけのわからない怒りを覚えた。我ながらマジでわけがわからねぇ。
でも、この「つまらない」という感情は、世の中を「つまらない」と拒絶する感情は……もしかすると本当に大事なもの、護るべき感情なのではないか?とそう思えるようになった。メイド喫茶が与えてくれた感情だ。ありがとう、もう二度と行かない。多分。
ありがとう、世界はつまらない。
だから、流されてはいけない。探し続けなければならない。
多分、僕らは……「楽しさ」に餓えている「さとり世代」の僕らは、幾らでも本当の楽しさを探し続けることが出来る。
それは多分、結構楽しいことだ。
それではまた次の記事で