Midnight Note

明日はどこまで行こうか。どこまで行けるだろうか。

「上手い」読書の方法論……あるいは「読書は難しい」

こんにちは、Mistirです。

ああ、本を読むのって難しい。
本を読むための時間を捻出する云々以前に、最近本を読むことが下手になったと感じる。

本を読むのが、下手。それはどういう意味なのか。

大学でやってたのがなまじっか文学関係だったから、「これからはもっと賢く本を読もう」という頭の悪い考え方から、高校の頃よりも「丁寧に」文章を読むことを意識していた。

でも、ある日気付いた。
アレ?ざっと読んでたときよりも、意味が分かっていない」と……。

 

僕はこの事実に至って、本棚からある一冊の本を漁り、再読することにした。
外山滋比古の『読みの整理学』である。

 

本の内容を要約すると、以下のようになる。

 

 読みには大別すると二種類ある。「既知の読み」と「未知の読み」だ。前者の「既知の読み」は、例えば芸能人のゴシップなど。知っていることと関連付けて読まれる読みだ。後者の「未知の読み」は例えば古典、あるいはややこしい機会の説明書。「読みの能力がある」となまじっか自信のある人でさえ、「未知の読み」は下手くそだったりする。

 

これで一冊分、「未知の読み」の大切さを語っているのが外山滋比古の『読みの整理学』という本です。

 

僕はこの本を再読した。読みきった。うん、有益な本だった。
……アレ? 最初の「ざっと読んでたときよりも、意味が分かっていないのは何故?」っていう疑問には答えていないぞ?

 

あ、『読みの整理学』じゃなくてこっちか。

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俺、この本読んだっけなぁ?
まあどっかで読んだのだろう。この本によると、「音の連なりが音楽になる」のと同じく、「言葉の連なりが本になる」のであって、一つ一つの言葉に(過度に)目を向けていても、本は読めないのである。

どうやら僕には僕の読書的ペースがあるらしく、それを逸脱してゆっくり読んでも逆にわからなくなっちゃうようだ。

読書って案外難しいね。
そういえば、僕は昔からある哲学的(???)疑念に付きまとわれていた。

「本を読むって何?」という疑念である。


関係ない話だが、『変ゼミ』という某変態漫画で、「どこからおっぱい?」という我々にとって非常に大切な議論を提示していたことがあった。
ホラ……テレビでアイドルとかが、乳首以外の肌の部分って結構露出するじゃん?じゃあ手に触れる=肌=おっぱいってことにならね?みたいな。

……。このブログ、現実的に親交のある方も読んでるんだよね……。ちょっと自重しよう。書いてて自分が気持ち悪くなってきたぞ☆

 

話を元に戻して、「本を読むって何?」って話なんだけど。
ホラ、テレビやら雑誌で「一ヶ月に何冊読書してるか?」みたいな話してるじゃん。
僕さ、あれにずっとずっと疑問的で。
映画ならまだ分かるよ?映画って、時間的な優位性はあくまでも「向こう側」が握ってるじゃん。

でも読書って時間的な優位性をこっちが握ってるんだよな。
もっと簡単にいえば、「速く読む人もいれば、遅く読む人もいる」。

もっともっと単純化すると、
「一ヶ月に何冊読みますか?」って聞くやつ一人ひとりに
「お前にとって『プルースト全集』一冊の価値と『お兄ちゃんだけど愛さえあれば関係ないよねっ』一冊の価値は同じなのか!? 同じなのか!?そうなのか!???答えろよオイ!答えろよオオオオオオオオオオオ!!??」と問い詰めたい思いに駆られるのである。本気で。

 

※『お兄ちゃんだけど愛さえあれば関係ないよねっ』は俺的頭の悪いライトノベルタイトルランキングでも上位に位置する本です。実は作者はラノベ界の大御所です。

 

……ということを言うと、「ライトノベルと漫画を除いて何冊読んだか考えればよくね?」っていう解決策が考えられるんだけど、これにも問題がある。

例えば……西尾維新ってライトノベル
この時点で色々また考えないといけなくなる。

さらに、僕にとって「文学賞を取ってはいるけれどライトノベル以下の存在でしか無い」本が、一冊だけある。
その本のタイトルは言わない。その本を批判、否定することが目的じゃない。

僕が言いたいのは、必ずしも「文学賞を取っている」からといって「ライトノベルよりも良い読書経験を与えてくれる本とは到底言えない場合もある」という事実だ。

 

ついでに言えば、文学者が書いたライトノベルはどうなるんだ

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筒井さんを文学者扱いするのは良いのか……?という疑念もあるけどさ!
あ、上の本は「いつもの筒井康隆」です。

さらに言えば、どこから「読んだ」なの?
さっきの『読みの整理学』では、実験的に『桃太郎』の新たな読み方っていう方向性を提示している。

「桃は若い女のシンボル、若い女は近くの者ではいけない、強い子供を生むために、遠くの地域の女と結ばれる必要がある。だからこそ川から流れてくるのである。そう、桃太郎は近親婚に対する抑止の物語なのである!」

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まあもちろんこれは「読み方の一例」です。
文学部の人で、さらに文学系(文学部にも歴史系や社会学系など色々あるのです)の出身なら、こういう読み方はもはや常識になってる(もちろん学術的に考えるときは、薄めたり根拠を提示する作業が必要だけどね)。

何が言いたいって、もう何度読んでるかわからないくらいみんな読んでるはずの「桃太郎」でさえ、新発見が提示できるのだ。

もう一度言おう。
「本を読むって何?」


ここまで色々語ってきて、僕の結論は「『本を月に何冊読む?』って質問ってアホだよね」なんだけど、この「『本を何冊読む?』って質問」が頭の悪いテレビや雑誌だけじゃなくて、大学とかある程度まともな機関もやってるってところに頭を抱えちゃう。
もう勝手にやってくれって感じだ。僕は「一ヶ月に30冊読みます!」とか言う人がいたら「ほー、一ヶ月に30冊も『読めちゃう』本ばっかり読んでるんすね」と思っちゃうぞ☆(実際にそう言ってるタレントをずっと前テレビで見たことがある)。

まぁ、結局この記事にも明確な結論はなくて、「上手い読書の方法」ってなんなんだって話なんだけど、やっぱりそれって探り探りやるしかないと思うんですよ。

さっき「月に30冊を自慢するのはアホ」的なこと書いたわけですけど、僕は多読自体は全然否定してなくて、多読の中で「再読すべき本、そうでない本」のフィルタリングができてくるんですよね。
当然の話、いい本に出会うためには、たくさん読むしか無くて。
でも、その一度目の「分別作業」を「読む」と言っていいのか?っていうのは別問題でさ。

まあとにかく良い本をみつけて、それに没入できるなら、それは多分誰が何と言おうが「良い読書」なんだよね。
……オチがつかねえぞ、この記事。

ミサワの画像でも貼っておこう。

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ではまた次の記事で。