「『大きな物語』の終焉」を指摘したのは、フランスのポストモダン哲学者リオタールだった。歴史や社会が紡ぐ「大きな物語」が近代以降消失し、それ以降は各々が各々の「小さな物語」を生きていくことになる。
リオタールを援用するまでもない。
卑近な例として、「大企業が終身雇用を保証し、バリバリ働いて出世する」という「大きな物語」が消滅し、個々人が個々人のキャリアプランを描かなくてはならなくなったーー
みたいなことはベタに、そしてよく言われている。
とにかく。
2024年現在、どうやら我々は我々自身で「物語」を選び、あるいは作り、自らの人生に適用させなければならないらしい。
そしてその物語は時折、「バグ」を起こす。
「物語」の功罪
細部は第三者からは知りようがないが、藤井聡太は「将棋で勝つ」ことを彼の人生の物語において少なくともメインに据えていることは間違いがないだろうし、大谷翔平が「野球で勝つ」ことをメインに据えていることも間違いないだろう。
これは分かりやすい例だ。
ここで藤井聡太でもない、大谷翔平でもない、平凡な新卒新人会社員のことを想像してみよう。
彼はこんな物語を持っているとする。
「俺は金持ちになってモテモテになる、それが俺の理想の人生だ」という物語を。
ところで「物語」と「夢」ってどう違うんだ?と思われたかもしれない。
この辺りは後ほど説明するので今は保留しておいて欲しい。
ひとまず、そんな俗物な彼はその「物語」に準じて努力を積み重ね、無事モテモテ大金持ちになった。めでたしめでたし。
この場合、「大きな物語」の代わりに彼が選び取った「小さな物語」が、彼の人生を上手く駆動してくれたわけだ。
だが。
頑張れど頑張れどお金は貯まらず、異性から忌み嫌われる人生になってしまうこともあろう。当然あり得る話だ。
彼は苦しむだろう。
そんなとき、彼は二択を迫られる。
「物語を変えるか、物語に乗り続けるか」ということを。
後者を選び、努力を積み重ね、ついに彼はモテモテ大金持ちになった。
ならばめでたし。
だがしかし、後者を選び、努力を積み重ね、それでもなお彼がモテモテ大金持ちにならなかった場合、彼は一生苦しみ続ける可能性もある。
「物語」は人を救うこともあり、苦しめることもある。
これはかなり理解しやすいのではないかと思う。
その前提で、さっき保留した「夢」と「物語」の違いについて語りたい。
「夢」は前向きなものだが、「物語」は前向きであるとは限らない。
それどころか、ただの病巣であることすらある。
「もう死ぬしかない」
「もう希望がなくなった。死ぬしかない」
そういうことを言う人がいて、本当に死んでしまう人がいる。
だが別に死にたくない人が冷静に考えると「希望がなくなった」ことと「死ぬしかない」は決して論理必然的に繋がるものではない。
「希望がなくなった」から「再度取り戻す」ことは、彼の主観ではもうできないのかもしれないが、少なくとも客観的に確かなことだとまでは言えない。
つまり「希望がなくなったから死ぬしかない」は、「彼」の中にある物語に過ぎないのだ。これは一歩間違うと危険な議論に脚を踏み入れるが、大事なのは「そんな物語」が「彼の中にある」ことは少なくとも確かだ、ということだ。*1
そろそろタイトルの意味が見えてきたと思う。
辛い記憶の反復に苦しむ人は、「その記憶を反復しなければならない」という物語を持っている。何かに強く依存する人は、「その対象に依存することこそが自分の幸福だ」という物語を持っている。
そして、そのような物語は、間違いなくただの「バグ」だ。
だってその物語を持ち続けることで最後は必ず不幸に陥るのだから。
「物語」であるが故に
人は「物語」……狭義の「物語」、例えば小説、アニメ、漫画、そういったものに触れ、自己の「物語」を変容させる。
少し範囲を広げると、「他者の人生」や「他者の人生を解釈したもの」も「物語」であり得る。
そして、そういった「外の物語」にふれることで、「自己の物語」は変わりうるし、新しい「自己の物語」を選び得る。
もちろん依存症の人や記憶の反復に苦しんでいる人にとって、その物語を変容することは決して容易ではないかもしれないし、医師の支えが必要なこともあるだろう。
けれど間違いなく、人は自分の中にある物語を変えられるのだ。
……長々と語ったが。
何が言いたかったかと言うと……
近況報告
ここのところ精神が末期状況で、前の恋愛のトラウマを半年以上経っているのに未だに引きずっていた。
さらに色々あり仕事を辞めることにした。
数カ月ぶり3度目の独立である。
もはや開業届の提出に何の感慨も抱かない。
車買ったりだとか遠くに行ったりだとか色々していたが、旅先で一人酒を飲みながら気が狂いそうになっていた。
朝起きても身体が動かない。ベッドから出られなくて延々まとめサイトを読んでいた。
辞める前、雑に休みを取り越谷のレイクタウンに行った。
何も決めてなかったが、とにかく本屋に行きたかった。
なんとなく、飛び込みで映画の『ルックバック』を観た。
映画はあまり家でも観る気が起こらず、相当久しぶりだった。*2
原作はだいぶ前に読んでいたのだけれど、「これオタクなら誰にでも刺さる映像化やん」と思ってしまうような見事な映像化だった。
誰にでも刺さるであろうものが当然のごとく自分にも刺さってしまったのが少し悔しかった。
その後ヴィレバンでいくつか本を買った。
そこからなんかずーーーーっと本を読んでいたら、辛い記憶やら怒りが少し和らいでいるのを感じた。
ひとつは単純な理由。
文字を読みながら、物語に触れながら自分の記憶の深層に潜ることなんかできないのだ。
人は一度に一つのことしか考えられない。
もうひとつの理由。
それこそが今日ここで語ったこと。
自分の中にある「物語」が、徐々にだけど変容し始めたのだと思っている。
そのことに気付いたときから、朝起きたときはまとめサイトじゃなく電子書籍で買った芸人のエッセイなんかを読むようにした。
すると露骨にメンタルの在り方が変わってきた。
そりゃそうだよな。
言われてみればまとめサイトなんか「世の中、ロクでもない」っていう物語を反復させるだけの場所だもん。
思えば、僕は昔から外部の「物語」に極めて影響を受けやすい。
『孤独のグルメ』を読んだらひとり飯がしたくなるし。
『ばくおん』を読んだらバイクに乗りたくなる。……なるか?
そして、『FX戦士くるみちゃん』を読んだらFXを……
いや、ならねーな。
……。
……まあ、影響されやすいのは確かだ。
元々僕は「自分の物語」を強く強く信じられるほど、強固な信念を持った人間じゃないのだろう。
世の中にはたまにそんな「強固な信念」を持った人はいる。
さっき挙げた藤井聡太や大谷翔平なんかは間違いなく強い強い「自分だけの物語」を持っているはずだ。
けれど僕はそこにはコンプレックスは微塵もなく……本当に微塵もなく、むしろこの「物語の弱さ」こそが僕の相当な強みなんじゃないか、と最近になって思えてきた。
いつでも、いつまでも上書きできるのだ。
僕にこだわるべき物語は無い。
強いて言えば「自由と平穏の追究」こそが自分を貫く「物語」だと思っているのだが、これはぶっちゃけ僕が一番好きな漫画の主人公である『武装少女マキャヴェリズム』の納村不動の台詞から取っただけである。
つまりただ影響されているだけである。
そんな僕ができることは……
良質な物語を接種し続けること。
死ぬまで、否、死んでも接種し続けること。
そして物語を選び続けること。
そして最後は自由に生きること。
そういったものも包括して、僕の「物語」なのだと思う。
そしてこのブログは、その「物語」から生まれた蒸留酒ということだ。
余談
普通に最近寂しくて友達と彼女*3が欲しいのでツ……Xに復帰しました。1年半振り10度目くらいです。
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大人になったら寂しいとか切ないとか無くなると思ってたのだけれど、吉井和哉は『JUST A LITTLE DAY』で
「切ない」なんて感情は若いうちだけだろうって思ってた だけどそれは日に日に増すばかりで
って歌ってるし……
江頭は「寂しい」から夜な夜な知り合いにLINEを送るらしい。
何歳になろうがこの感情は消えることは無いんだろうな。
あるいは80とか90くらいになったら消えるのか?
とにかく、仕事は正社員に戻っては「俺組織に全然向いてねーや」って再度独立を繰り返す焼畑農業みたいなことやってるし、知り合いは次々結婚するわ子供が生まれるわで多少の焦りがある。
そこでツ……Xに戻るっていうのが我ながら阿呆の選択だなぁとは思うが、なんかやりたいことは法に触れない限りなんでもやっていいか、という気持ちになっているので試しに戻ってみた。
Facebookにハマるくらいなら掃き溜めのゾンビ蔓延るツ……もういいや、Twitterのほうがよほどマシだ。
っていうかFacebookも一応アカウントあるのだが、最近ロクでもない広告まみれで本当にどの角度で見てもTwitterの方がマシな気がする。
ただ、Twitterはダラダラ見ていると「誤った物語」を接種しがちな場所なので、それだけは注意しようと思っている。
ではまた。
Twitter、気が向いたらで良いのでフォローしてね。