責任過剰な世の中に終止符を打つべく、形而上学的なものに頼らず「人を赦す」倫理的枠組みを作れないかってことを本気で考えてる。今の世の中あまりにも「責」が多すぎてバランスが取れてない。 https://t.co/0UoZYwrwJw
— 水上湊 (@minakamiminato) 2025年4月7日
と、いうことで。
本気で作ってみた。
※当記事の内容は諸事情でアーカイブ済みで、リンク先も非公開にしています。
プロジェクト
名付けて「Open Ethical Framework」プロジェクトである。
日本語にあえて訳すなら「開かれた倫理の枠組み」といったところか。
github.com
自己紹介
当方バイクと車好きのWebエンジニアです。
元々フランス文学勉強してまして、哲学や仏教への関心があったりもしてました。
発端
上記Xへの投稿は発端というよりも、その時点で思っていたことを引用の形で呟いたら思った以上に反響が合った、という流れだ。
上記投稿の前に考えていたことは4つ。
1つ目は上記投稿の通り、宗教の役割は少なくとも1000年前よりは大幅に弱まっているのに、生きづらさを抱える人だけはどんどん増えていて、多分既存の枠組みだと誰も救済されないと考えたことだ。
自己啓発本や心理学の本には「あなたは自分を受け入れて良い」と書いているかもしれないが、それを読んでもピンと来ない人は多いだろう。
「なんかよーわからんけど厳しい世の中」と、「その世の中で『罪深い俺』ばかりを見出してしまう自分」だけが存在しちゃってるような状態になってる人、結構多いと思うのだが、そういった人たちにとってあらゆる言葉は気休めだ。
だからそれをぶっ壊すような新たな「仕組み」が求められていると感じていた。*1
2つ目は、「教義がバージョンで管理される宗教を作れないか」ということ。*2
バージョンというのは1.0.1とかそういうアレだ。
宗教において教義とはある種の権威で、それがコロコロとupdateされるというのは権威を損ねる要因となり矛盾している。
だが一方で「権威」ではない倫理の形が模索されるべきとも考えていた。
3つ目は「教義が誰でも変更できる宗教を作れないか」ということ。
つまりカリスマが作る宗教ではなく「みんなが作る宗教」である。
こちらは既に存在している。
英語版の記事しか無く、日本では活発な活動では無いようだ。*3
そして4つ目は以前書いた以下の内容を体系化できないか、ということだった。
そんなことを考えつつ上記の投稿をしたところ思ったより反響があり、もしかしたら誰かにとって有益かもしれないし、作るだけ作ってみるかと実際に作ってみた次第です。
解説
さて、Version 0.0.1を全文掲載すると以下の通りだ。
# Open Ethical Framework
Version: 0.0.1
## 前文
Open Ethical Framework プロジェクトは、生き辛さを抱える人のためのプロジェクトです。
情報化社会の発展に伴い、個々人の責任は過剰なまでに強調される一方で、社会は生きやすさに与するような倫理基盤を与えてはくれません。
「責」だけでは人は生きていけません。
「赦し」を宣告する倫理基盤が必要です。
そのような考えからこのプロジェクトは生まれました。このプロジェクトは特定の宗教基盤を持たず、固定化された教義も持ちません。
人々が生きやすくなるための基盤をゼロベースで提案します。
このプロジェクトに対しては賛同する全ての人が変更を提案することが可能で、言語、方法を問いません。## 本文
### 第1条 赦されるということ
1. あなたは、あなたを赦さねばならない。
2. あなたを責めるものがあるとしたら、それは世界などという抽象的なものではなく、特定の他者である。
3. あなたが他者をどうしても赦せないならば、そのままでいてもよい。赦せる日を待つのもよい。
4. あなたがあなたを赦すとき、それは自己や他者を傷つける理由にはならない。
この時点での意図を解説していきたいと思う。
情報化社会の発展に伴い、個々人の責任は過剰なまでに強調される一方で、社会は生きやすさに与するような倫理基盤を与えてはくれません。
「責」だけでは人は生きていけません。
「赦し」を宣告する倫理基盤が必要です。
そのような考えからこのプロジェクトは生まれました。
今の世の中、「責」が多すぎません?
人を「責」めることも、「責」任を負わされることも。
あるいは、本来ないはずの「責任」を感じてしまっているという場合もある。
わかるが、冷静に考えて「子供が必ず幸せに生きて行ける確信」を持てた時代なんて歴史上ほとんどなかったと思うんだよな。それでも人類は数を増やし続けてきたことを考えれば、「何かがおかしくなっているのは今の我々の頭の中や、今の我々の常識のほう」と考えるのが実は順当なんだと思う。 https://t.co/UhBpapIxG2
— 宮永 亮(非実在型) (@AkiraMIYANAGA) 2025年4月6日
ここで言われてるのはまさにそのことで、例えばブッダことゴータマ・シッダールタが生まれた時代のインドでは「輪廻転生」は「どうやっても抜け出したいもの」だったわけなんですよ。
生きるのって苦しいから。
だから無限の「輪廻」からの解脱を試みた。
結構ドライだったわけです。
その後ブッダは修業に励み、その中で生きることを「四苦八苦」と表現した。
生老病死に愛別離苦、怨憎会苦、求不得苦、五蘊盛苦である。
解説は省くが、なんともまあ暗い……というより、そりゃそうだという真理を身も蓋もなく言ってのけているのである。
つまり仏教的には生きることなぞ「そんなもん」なのである。
当時のインドと比べると今の世の中なんか天国そのものだろう。
だが苦しい人が増えている。
なぜだろう?
「子どもを幸せにせねば」とか「自己実現せねば」とかいう高次元の「責」だけが、科学の発展に伴ってなのか情報化社会の発展に伴ってなのかよくわからないけれど、とにかくインフレしちゃってるからじゃないかな、というのが僕の仮説だ。
赦せなくなってるんだ。
特にあなたが、あなたを。
僕が、僕を。
上の投稿に関して言えば、もっともっと無責任に子どもを産める世の中にしないと少子高齢化なんて止まらないに決まっていると僕は思っている。
そう言うと怒る人はいるかもしれないけれど、社会目線で考えると「親の責任ばかり問い続けて国が滅びてもいいの?」とは反論したい。
……まあ、社会目線や国目線で物事を考えるのは苦手以前に嫌いだから、ここはあまり深入りしないでおくけど。
要はみんな自分にも他人にも責を求めすぎじゃね?ということである。
さて、解説に戻ろう。
このプロジェクトは特定の宗教基盤を持たず、固定化された教義も持ちません。
人々が生きやすくなるための基盤をゼロベースで提案します。
このプロジェクトに対しては賛同する全ての人が変更を提案することが可能で、言語、方法を問いません。
赦されるためにキリスト教に入信する、という方法もある。
が、キリスト教はどうしても信仰が前提になるから、それがハードルになるだろう。
このプロジェクトは特にそういった信仰を求めない。
というか「宗教」という言葉すら使っていない。
別に既存宗教と対立する気はないので。
で、先述したように誰でも変更できるというアイデアを取り入れてみた。
Gitの操作が分かる人はプルリクエストやIssueでの提案でも良いし、コメントでも構わない。
基本的には管理者である僕が導入を判断するが、もし盛り上がりそうならいつかそれすらも手放そうと思っている。
では、本文の解説に入ろう。
### 第1条 赦されるということ
1. あなたは、あなたを赦さねばならない。
このプロジェクトで最も大事な一文。
結局、人を赦さないのって誰か?っていうと、自分なのだ。
「あなたは誰からも赦されている」というと、それは嘘か気休めになる。
あなたがもし誰かから100万円を横領してたなら、その相手からは恨まれて責められて当然だ。
このプロジェクトは客観的な倫理基盤の構築を目的としているから、嘘は書かない。
この一文は、少なくとも僕は真実だと考えている。
「あなたは、あなたを赦さねばならない」。
仮にあなたがテロリストであってもそれは適用される。
これだけだとニュアンスが伝わらないかもしれないから、続きを読んで欲しい。
2. あなたを責めるものがあるとしたら、それは世界などという抽象的なものではなく、特定の他者である。
「世界から受け入れられたい」「世界に赦されたい」あるいは「世間に怒られる」。
そういった大きな主語があるけれど、まずそれは「存在しないもの」とみなすべきだ。
ネットでの炎上だって結局は「特定個人の集合」に過ぎない。
太宰治『人間失格』の有名な一文と言おうとしていることは同じだ。
世間がゆるさないのではない、あなたがゆるさないのでしょう?
法律だってそうだ。
結局は特定個人が作ったもので、その運用も人が行うものに過ぎない。
だからまず、「(世界から与えられた)生きる意味」というような大きくて抽象的な何かが頭をよぎったら、2項を認識して欲しい。
3. あなたが他者をどうしても赦せないならば、そのままでいてもよい。赦せる日を待つのもよい。
これも大事だ。
先述した通りOpen Ethical Frameworkは気休めや嘘は言わない。
あなたは誰かから赦されていないかもしれないし、逆にあなたも誰かを赦さないという権利はある。
そりゃ1億横領されたら赦せねえよな、という話だ。
だが、それをずっと抱えることを推奨したいわけでもない。
本当は忘れた方が良いに決まってる。
だから「待つのもよい」という柔らかい表現を使った。
4. あなたがあなたを赦すとき、それは自己や他者を傷つける理由にはならない。
これは1項の補正である。
おそらくここまで読んでくれる人は意図を理解してくれていると思うけれど、「赦し」は「大義名分」であってはいけない。
生きづらい人、罪悪感を抱える人が前に進むためのプロトコルだ。
そのため、アクロバティックな解釈をする人……例えばこのプロジェクトの存在を理由に平然と犯罪を行う人が現れることに釘を刺すためのものだ。
今の世の中、「そんな人は絶対に現れない」とは言い切れない。
「子どもを幸せにできないから作らない」という議論で言えば「子どもを作ること」は「他者を傷つける」に入るのか、という議論も生じ得るだろう。
だがそれはこのプロジェクトの趣旨とは異なる、とだけ言っておきたい。
難しいところだけれど、そう思ったときは基本は1項を思い出して欲しい。
1. あなたは、あなたを赦さねばならない。
このメッセージが正しく伝わっている人は、「俺は赦されているから人を殺してもオッケーだ」とか、「子どもを作ることは他者を害することだからやってはいけないのだ」とはならないはずだ。
まずそもそも、逆に「あなたは、あなたを赦してはならない」という一文を考えてみる。
これは真理だろうか?
「犯罪者なら赦しちゃダメだろ」と考える人もいるかもしれない。
確かに被害者や法は赦さないかもしれない。
けれど、ここで言っているのはあくまで「あなたは」だ。
つまり「あなたは、あなたを赦してはならない」も「あなたは、あなたを赦さねばならない」もどちらも成立し得る。
改めてここで宣言するが、このプロジェクトが打ち立てたいのは「倫理の枠組み、基盤」で、目的としては究極的には個人や社会全体の幸福だ。
その実現のためには「社会主義的な『責』をベースとした既存の倫理」への抵抗が必要であると考えている。
そうなると「あなたは、あなたを赦さねばならない」と断言せざるを得ないのだ。
「あなたは、あなたを赦してはならない」は目的に反する。
そして「赦さねばならない」とあえてmustの表現を使ったのは、それくらい積極的な認識がないと目的を達成できないと考えたからだ。
「赦しても良い」ではない。
「赦し」は義務なのだ。
それくらい言わないと、既存の社会の仕組みには抵抗も対抗もできない。
終わりに
さて。
このプロジェクトが盛り上がったら楽しいなとは思っているが、盛り上がらなかったら盛り上がらなかったで「なんかそういうことをしようとしていたやつがいた」ということだけ覚えてもらえると幸いだ。
このプロジェクトは信仰先として捉えてもらっても良いし、FSMのようなメタ宗教として捉えてもらっても良いし、あるいは一種のアートのようなものと解釈してもらっても構わない。
そこらへんも自由だ。
それではこのへんで。
*1:このプロジェクトも気休めに過ぎないかもしれないが、そうならないような仕組みをなるべく取り入れている。
*2:現在、筆者は軽い躁状態でいろんなことに手を出している。そういう精神状態でないと「宗教を作れないか」とかそもそも考えないだろう、とは思う。
*3:この考えを持っている人は日本でもいるようだ。