Midnight Note

明日はどこまで行こうか。どこまで行けるだろうか。

ゴリゴリの無神論者が「仏推し」になった理由

釈迦パねぇ。
これは最近の僕の偽らぬ心境である。

最近ゴリゴリと仏教を勉強している。
どうしてこうなったのかを語ろうと思う。
統一教会問題で宗教のイメージが底を割るこの世の中、このような話をするのは抵抗があるのだが、一度文章化しておいたほうが良いと思った次第である。

僕は仏教徒でもなく、信者でもない。
あと、相変わらず無神論者である。
だから強いて言うなら「仏推し」が一番表現として正しい。
なぜ僕は仏を推すのか。
語りたい。

僕の世界観について

僕は無神論者である。
どういうことか。

僕は世界を「作用の総体」であると考えている。
例えば、石を持って、頭の高さから落とす。
重力に従って石は落ちる。
床が柔らかければ傷つくかもしれないし、石は割れるかもしれない。

落下という作用があり、床の破損という作用がある。
その前に石の存在という作用もある。

世界は結局、そういった作用の総体でできているに過ぎないし、そういった作用の根源を辿ると「何もない」というのが僕の世界観だ。

例えばそういった作用を神、あるいは何らかの知的な存在が作ったとする。
フライング・スパゲッティ・モンスターでも良い。

www.village-v.co.jp


だとすると、弱肉強食の作用も、戦争も全て神が作ったことになる。
生まれてすぐに殺される弱い生き物も全て。
人に戯れで殺される生き物も全て。
なんでそんな残酷な世界を作るのか?
それに、「創造神」たる知的な存在は誰が作ったのか?

いや、別に世界の「作用」を「神が作った」のなら、それはそれで構わないのだ。
だが、それを人間が認知できるわけはないし、考えるだけ意味がない。
考えても絶対に分からないことは存在しないのと同じだ。
つまるところ、僕はゴリゴリの不可知論者でもある。

世界は作用でできている、と仮定するならば人間も当然そうであるべきだ。
人間はナントカのために生きている、みたいな考え方は極めて不合理だ。
いや、別に本人がそれで良いなら良い。
キャプテン翼が「俺はサッカーのために生きてる!」って言ったって全然構わない。
けれど例えば「あなたは誰かを愛するために生まれてきた」とか「愛されるために生まれてきた」そういう系のやつ。
冷静に考えて「そんなわけあるか?」って思わないですか?
僕はそう思う。

この考え方はニヒリスティックで、かつ悲観的だと思う。
でも僕と同じ考え方の人、多いんじゃないですか?

まあ僕と同じ考えの人はどれくらいいるかなんて置いといて、「神はいない、信じる宗教はない」人はたくさんいるのを前提としましょう。
まして「『ありがとう』を集める」とか、三流宗教じみたことを言いながら従業員を過労死させた経営者なんかは100倍信用できないと考えてる人はもっとたくさんいるのを前提としましょう。

そんな我々はどう生きるか。

大宗教時代

さて。
世はまさに大宗教時代である。
いきなり何を言ってるのか、と思われたかもしれない。
日本人は基本的に無宗教だし、科学と医療のおかげで宗教の役割は終わりつつある。

……そんな世の中で何が起こったか?
「自分の生きる指針は自己責任で決めろ教」の誕生である。
これに尽きる。
「自分の生きる指針は自己責任で決めろ教」には色々な宗派がある。

「YouTuber宗」
「オンラインサロン宗」
「ビジネス書宗」
「投資でFIRE宗」
「VTuber宗」
「アイドル宗」
「酒宗」
「仕事宗」
「結婚宗」
「金宗」
「健康宗」
「筋トレ宗」
「IT宗」
「慈善活動宗」
「出世宗」
「セミリタイア宗」
「ゲーム宗」
「与党を批判宗」
「野党を批判宗」
「オリーブオイル宗」
「味噌宗」
「BL宗」
「シュークリームのシュー宗」
「ザコシがシュー宗」

……なんでもいいんです。なんでもありだから。

まあ、確かにそれで10個くらいの宗派に属しといて、上手く生きていくっていうのがだいたいの人の生き方だと思うし、それは決して悪いことじゃない。
けれど宗派を見つけるのは自分で頑張る必要があるし、しかもその宗派は別に「人が生きやすくする」ために存在するものではないから、その宗派に属して生きやすくなるかは全くわからない。

むしろ属してしまったが故に明確に不幸にしかならない宗派もある。
「薬物宗」とか。

そして上手くどこかの宗派に属せない人は、マジで絶望しか無いのが今の世の中だと思う。
上手くどこかの宗派に属せても、あまり幸せを感じられないって人は結構多いんじゃないか。

現代病の正体

で、今は情報だけは無駄に多い(情報宗)から、結果として「あの宗が良い、この宗が良い、この宗に属してる人は幸せ!」みたいな情報はアホみたいに入ってくる。
寓話のような話だが、国民がみんな幸せで有名だったブータンは、情報に触れすぎた結果みんな不幸になったらしい。

agora-web.jpなぜ不幸になったのか。
周りとの比較が発生したからだ。

ずっと周りと比較して、ずっと数多の情報に触れて、あれがいい、これがいいとブレブレ。
集中力は落ちていく。
そう。
現代人の心は常にざわついている。

だから
「キャンプ宗」
「ミニマリスト宗」
「マインドフルネス宗」
「サウナ宗」
あたりの「心を落ち着かせることで幸せになろう」的なコンテンツが途方もなくブームになってるのは、至極真っ当で当然の成り行きだ。

で、気付いた。
「全部仏教で言われてることやんけ」と。

勉強すればするほど気づく。
「すげぇ!ウィトゲンシュタインが言ってること、釈迦がもうほぼ言ってる!*1
「すげぇ!ドーパミン異常状態(依存症)の抑止方法は全部仏教で説明されてる!」
みたいな。
気付いたら「推し」になってたわけである。

仏教の良いところ

まずそもそも、最初に気づかれた人がいるかもしれないが、僕の世界観が最初っから仏教的世界観だ。
一応仏教にもかなり形而上学的な要素が含まれるが、基本的に「仏以外は誰もわからんから気にせんでOK」という感じのようだ。
それにベースが世の中のペシミスティックでニヒリスティックなところを受け入れた前提で、「じゃーどーやって現実的に生きましょうかね」とあくまでプラクティカルに考えているように感じる。

例えば「四苦八苦」は仏教用語だ。
生老病死に愛別離苦(愛する人との離別)、怨憎会苦(恨み妬み嫉みによる苦しみ)、求不得苦(欲しい物が手に入らない苦しみ)、五蘊盛苦(心身が思い通りにならない苦しみ)、と現実的に分類した上で「一切皆苦」、つまり生きてるとなーんも思い通りにならん、と結論づけている。
現実的だが、現実的過ぎんかという気すらする。

で、そんな苦しい世の中をどう生きるか。
とりあえず、釈迦*2はそんな世界で「解脱」したわけである。

仏教で言うところの「解脱(涅槃、ニルヴァーナ)」とは、輪廻転生の輪から抜けたことを言う。
輪廻転生は「何度も生きられてラッキー」ではなく、「苦しみが永久に続く輪」という位置づけのようだ。
これは多分当時の人々にとって人生は今よりさらに苦しく、さらに楽しみが少ないものだったことに由来するのだろう。

で、輪廻転生などと言うと急に宗教チックと言うか形而上学的だが、これに関してスリランカ上座仏教長老のスマナサーラなんかは「どうでもいい」と断言している。ここ笑うところである。

とにかく、生きている間は、「殺さない、盗まない、邪な行為をしない、嘘を言わない、無駄話をしない、粗悪語を話さない、噂話をしない、余計な欲、余計な怒りを管理して、客観的に物事をみることを守りなさい」と言ったのです。そして、「すべての生命に慈しみを育ててみなさい」と。そうすると、死後がないとしても、この世の中を立派に生きてきたあなたの勝ちです、となるのです。幸福三昧です。では、死後があったとしても、同じくあなたの勝ちです。死後があったら立派に生きてきたこの人は当然よい死後のはずでしょ?


『仏教は宗教ではない』「輪廻転生を考えるのは時間の無駄」より

なんというか、プラグマティックである。
実際聞き手のイケダハヤトもそう指摘している。

「ニルヴァーナ」はバンド名として有名だが、これは意味合い的には「無風」を指す。

「涅槃」は、サンスクリット語「ニルヴァーナ」の音写漢訳語です。これが何を意味するのかややこしい議論がありますが、すなおに「風が吹き(ヴァーナ)息む(ニル)こと」「無風状態」でよいと思います。不安なとき、苦しいとき、私たちは「胸がざわざわする」とか「心が揺れる」と表現します。風が吹くと樹や草がざわざわさわぐことからの連想で、おそらく万国共通の感覚です。

『わかる仏教史』角川ソフィア文庫 1章

釈迦が解脱したのは輪廻転生の輪から抜け、その叡智を他者に教えるため……か、あるいはもっと大きな何かがあったのかもなのだが、今我々は別に輪廻転生を信じる必要も抜けたがる必要もないし、そもそも解脱なんか仏教に全てを捧げなければ無理なので、考えるだけムダである。

ただ心がざわつくのが無くなって、生きる指針ができて、元気に生きられるならそれでOKなのだ。

で、釈迦から言わせれば「そんなの余裕だぜ」ってことなのだ。多分。
なんせ釈迦はこの世唯一の「目覚めた人」なのだから。
……まあ本当に言ったかどうかは知らんけど。

要するに?

結局なんで「仏推し」になったのかといえば、「それが楽だから」である。
あと単純に勉強してて結構おもろい。

ミニマリズムやら筋トレ、マインドフルネスやらの目的が「心のざわめきを抑えること」なら、サクッと仏教の方を勉強したほうが早い。
っていうか、部屋の掃除も筋トレも「修行の一環」と捉えてしまえば、副産物でキレイな部屋も筋肉も手に入るのである。
合理的……美しい。(笑)

僕は「人生には意味がない」と思っているけど、仏教を勉強して最近は「じゃあちょっとでもマシに死ぬためにちょっとでもマシな人間になろう」とは思っている。

筋トレやってると、「なんでこんなことやってんだろう。ムダじゃね?」としょっちゅう思う。
どーせ死ぬんだから酒飲んで死のうよ、と。
こんなつらいことばっかやるの、ただのマゾヒズムじゃん、と。
けれど「ちょっとはマシな人間になるため」と思えばなんかそれなりに頑張れる。気がする。

あと、浄土宗や浄土真宗の「念仏を唱えさえすれば良い」「極楽に行ける」なんかはいかにも形而上学的で、抵抗があった。
僕はスマナサーラをよく引用しているように上座部仏教の世界から入ったから尚更だった。
けれど少し勉強してみると「これはこれで合理的では……?」と思うようになった。

念仏を唱えてる間は他のことを考えられないのである。

「浄土真宗は結局『本願ぼこり』(=念仏唱えるだけで救われるなら悪いことめっちゃやったろう、っていう考え方)にどう向き合ったんだろう?」という疑問が出て、調べてみたくなり『歎異抄』を以下の記事で読んだのだが……
浄土真宗の真意は「自分ではどーしよーもない」ということに気づくことにあるようだ。

sanjobetsuin.or.jp

長くなるので解釈は省略するが、「心のざわめきを(念仏によって)抑えて、自分の力、人間の力で何かがどうにかできるという傲慢な妄想を捨てる」という発想と解釈すると、極めて合理的に思えてきた。

他の宗教ではダメ?

そのように現代科学に適合させて解釈することで形而上学的な曖昧さが排除されて、生きる指針になることが仏教の良さだと考えるなら、他の宗教でも良いのではないかと思われるかもしれない。
もっともな疑問だ。

だが、キリスト教の「人間は原罪を背負っている」という発想を形而上学的発想抜きで考えるのはちょっと無理矢理過ぎる。
それにいかにも苛烈で、僕の肌には合わない。
神道は人生の指針、っていう感じではないし、そもそも死を遠ざける「穢れ」の考え方がいまひとつ僕には合わない。まあ神社行くの好きだけどね。
一休宗純が正月に骸骨をつけた杖を持って歩き回った話とか、「穢れ」思想の対極のように思えて大好きだ。

以下の書籍に詳しいが、仏教は改良がなされまくって、日本の神道やら儒教やらとも混ざって、混沌とした状態になっている。
言い換えると自分の好みに合わせてカスタマイズできる。
これは僕の不遜な発想ではなく、現職の僧侶が言っていることだ。

第一、やや原理主義的な上座部仏教と日本でカスタマイズされた浄土真宗なんかでは方向性があまりに違いすぎる。
ただ「ざわついた心を落ち着ける」という点においては全然違いはなく、そして……
どんなお寺でも、行ったらそれなりに落ち着く。
これが本当に副産物なんだけど、「寺参りが楽しくなる」という趣味も生まれる。
寺でちょっと眼を閉じるだけでも、日々の諍いから離れられる気がする。
良いことづくめなのである。

そんなこんなで僕は今後も仏教を在家で推して参る。
推して参る……参拝?

最後に

知り合いには「僕が『この壺を買っただけで幸せになれる』とか『これをしなければ地獄に落ちる』とか言い出したら殴ってでも止めてくれ」と伝えている。
これは非常に大事である。
スマナサーラが良い基準を立ててくれている。

イケダ 危険な宗教の見分け方はありますか?

スマナサーラ 我々は「神様だ」とか話し始めたらそれでアウトでしょうに。

イケダ
 わかりやすい!(笑)。

スマナサーラ
 それ以上判断する必要はないでしょう。

 

『仏教は宗教ではない』「神様だと言い始めたら終わり」より

余談だが、スマナサーラの語り口は極めてざっくりしていて、それでいて端的で飾りがなくわかりやすい。
これは『学問のすゝめ』の福沢諭吉によく似ていて、とても好感が持てる。

……福沢諭吉に「好感が持てる」とか正しい感情なのだろうか?


あと、『セックス依存症になりました』という作品にこんな場面がある。

この作品では「押し付け先」はキリスト教だが、圧倒的に仏、厳密に言えば阿弥陀仏の方が押し付けやすいと思う。
日本では教会より寺の方がアクセスしやすいし。

あと、神社とか寺とか、「形而上学的なものを経て人間を救おうとした」……つまり、神社で言えば「神社を経由して神にアクセスすることで人を救おうとした」と思ってたんだけど、今は発想がちょっと変わって、「神社とか寺とか、その存在そのものが、形而上学的なものを抜きにして人を『治癒』しているんだ」と解釈するようになった。
この辺は厳密に語ろうとすると結構しんどいのでまたの機会に。

さて、夜も遅くなってしまった。
僕は仏教徒ではないので酒を飲んで寝ることとする。
*3

*1:さすがに分析哲学の文脈ではないけど

*2:「釈尊」と言ったほうがガチっぽくなるがガチっぽくなりすぎるので「釈迦」で統一する。本当は「釈迦」は一族の名前なのであまり正しい呼び名ではない。

*3:そもそも酒飲んじゃダメ、は日本ではあまり適用されてないとかなんとか……