ども、Mistirです!
年末ですね。皆さんいかがお過ごしですか。
ってことで、これまでの記事へのご感想のうち未返信のものに関してご返信させていただきます。
※「返信はしない」と述べたものに関してはしておりません。
では、早速。
前提といたしまして、多分今後こういった記事を書くことはなくなるか、相当少なくなると思われます。
なんか、今は人の発言を分析することに意味を見出せないんですよね……
「物語」や「作品」は喜んで分析するのですが。
だから以下のご返信もやや歯切れの悪いものとなっております。
僕の変化を反映しているものとして、ご了承下さい。
では、参ります。
伊豆
過去記事にも目を通して頂いたようで、ありがとうございます!
克服した人に卑屈になっちゃいますよね。ヤツはヤツ、オレはオレで良いとは思うんですけどね。
なるほど、「思う」は特に「伝える」の文脈とは関係ないって話ですね。ふむ……
そもそも、この文章の流れから読み取れる「俺は努力したからお前らもしろ」という目線がいまいち気に食わないように思えます。
勝手にしてくれと言いたくなってしまう。
コメントありがとうございます!
僕もそういったところに過剰反応するクセがあるので、そこで反応しちゃったのかも。今後は僕の記事、こういった内容のものは減っていくかもです。余談ですが。
つるじ
この文章からは善意を感じるような気がします。「君も悩む必要は無い。一歩踏み出すんだ。」という具合の。よって責める気は毛頭無いのだろうなと、私は思います。
成功者は自分の成功譚をあたかも正解であるかのように語りがちです。この文章は大多数の人の心に響くかも知れませんが、それだけのように思います。誰も知ったことではないので。
駄文失礼しました。
コメントありがとうございます!
ああ、なるほど。度々引用してる中島義道的な考え方ですね。
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なるほど、成功者の成功体験と同類ですか。僕も無意識のうちに、そういった要素に嫌悪感を覚えちゃってたのかもしれません。
BadBoy 17
この文章に「人見知りだと思うことをやめた。好きな人には好きだと伝えるようにした」と書いてありますけど、ふつう人見知りの人間って、好きな人に好きだと伝えられないから人見知りなんじゃないですかね。
それに対して星野源さんは、自分が人見知りだと思いこんでいるから、好きな人に好きだと伝えられなかった、しかし自分が人見知りであるという意識を取り払った結果、人見知りでは無くなった……つまり本来人見知りでは無いのに自分が人見知りだと思い込んでいたということになるわけで。
結局、この文章の意味するところは『人見知りだと言うことが恥ずかしいこと』なのではなく『星野源が自分を人見知りだと勘違いしていたことが恥ずかしいこと』なのではないでしょうか…
というより、この文章はそもそも多くの人に同意を求めるために書かれた、いわばポエム的なものなのでしょうね。
コメントありがとうございます!
『星野源が自分を人見知りだと勘違いしていたことが恥ずかしいこと』ですか。なるほど。多分、矢印は自分に向いていたのでしょうね。多方面に向いてるものとして僕が解釈しちゃっただけで。僕が厳密に見すぎていた部分があったかもしれませんね。それは一種悪趣味だったかもです。
引用元のツイートの「正論」っていう言い方に僕が反応しちゃったんですね。
にこじろう
面白く拝読しましたが、私の解釈とは真逆ですね。
私の解釈では、星野さんの文章は、要するに、「僕は、過去にラブラブ過ぎた人から言われた一言ですっかりブロークンハートしちゃったトラウマから、自分は人見知りな性格と思い込み、周りにもそう宣言することで、周りと壁を作ってきた。そうすることで、他人とのコミュニケーションに伴い必ず発生する心の痛みから逃げてきたんだ。でも本当は僕は寂しがり屋なんだって気付いたんだ。だから頑張って人見知りバリヤーを解除することにしたんだ」っていうちょっと萌え話的な文章に読めたんですが。
ちょっと私の頭が沸いてるからでしょうか。
コメントありがとうございます!
この方の感覚を凄く好きな女性の方はとても多いみたいで、おっしゃるような反応の方が多いことは察せました。多分、そういったハートブレイク的な要素をすっ飛ばして僕は読んでいたわけですね。
コメントありがとうございます!
僕も「人見知り」=劣っている、っていう理屈は直感的には実は分かります。誰とでも仲良くできたらその方がええやん、と。
そういった考え方を僕は「理論」で否定するわけです。まぁ、認めたくないからですねw
僕も優劣っていうのに凄く向き合ってますが、最近マシになってきたかも?
hokushi
読み手の自意識によって、感じ方が大きく異なるのかな。
自分の人見知りをコンプレックスに感じている人には、啓蒙しようとする上から目線。
→不快 or 自分もがんばろう人見知りじゃない人や、克服した人には、成功体験の喜び報告。
→良かったねぇ とか へぇ〜ただ、「自分もがんばろう」の人は、彼がうまくいったからといって、鵜呑みにしてはいけない。成功を保証しているわけではないから。
さらなるトラウマを抱える可能性も高い。
そういう意味では「無責任」という感想もあるか。
コメントありがとうございます!
なるほど、読み手を選ぶ側面は非常に大きそうですね。確かに、この記事を「正論」と言ってしまうと傷つく人というか、無用に否定されちゃう人が絶対にいると思いました。
ゆう
にこじろうさんとだいたい同じ考え方です。
星野さんの人見知り、というレベルは単にシャイだとかなかなかうまく喋れないというものだけではなく、人に挨拶できない、面倒だしストレスがたまるからなるべく挨拶したくないといった高度な(?)人見知り状態だったと思われます。でも、いくら人見知りだと言っていても他人には挨拶しないのでは、人間関係を築けないし、そこから抜け出したい思いがあったのだと思います。誰にでもフランクに話せる人が羨ましい。でも、自分は出来ない。むしろ、会話なんて気を使ったりするのは疲れるからしたくない。
これは人それぞれですね。私は共感できました。(私は、学生なのでビジネストークについては分かりません。すいません)
好きな人のくだりは「思う」じゃなくて「伝える」じゃないですかね。ここはミスかと。
星野さんの文章は、同意を求めるようなものではなく、自分の考えを整理しているように思えます。なので、それほど威圧感とかは感じないです。
乱文失礼。
コメントありがとうございます!
なるほどなぁ、高度な人見知り状態ですか……そういった発想がありませんでした。そういう意味では、最近「高度な人見知り」状態ですねwそこから抜け出したいという、星野さんの個人的な思いの発露があの文章だったわけですね。
y
人見知りするかしないかで言ったらする方に周りが気を遣うのは間違いない
努力するかは人それぞれ
星野氏は人が好きだから努力してるんじゃないかな
一人でいい人は気にしなくて良いと思う
コメントありがとうございます!
最初から「人それぞれ」な問題だったのかも。「正論」ってコトバに過剰反応してたのは僕なのでしょう。
僕は一人で良いのかどうかビミョーですが、まぁテキトーにやってテキトーに周りには人がいるから深いこと考えなくてもいいのかも。
……さて、これでこの記事の全てのコメントへご返信したわけですが……
歯切れ、悪いですねw
まあご容赦下さい。自分の記事に対して無責任といえば無責任ですが、もうこの領域は僕の「管轄外」です。
考え方が最近大幅に変わりまして……
まあ言い訳はさておき、次の記事へ進みますね。
……この記事もなんですけど。
解決しちゃったんですよね……
この記事の途中で、
何千万の「正論」を聞き飽きた。
ってあるんですけど、結局それは要するに「情報の過多に対する過剰反応が原因の一つ」だったわけです。
……で。それに対して……
Twitterやめてネット減らして入ってくる情報絞って、今までTwitterやネットに使ってた時間と脳のリソースで小説読んだり映画観たり考察したりするのに全て振り分ける
で、ほぼ解決しちゃったんですよ。
バカみたいでしょ?
僕、バカなんです。
今の夢というか目標の一つが結構はっきりしてて。
自分自身が圧倒されるほどの量の小説や映画の感想を、考察をEvernote(クラウド記憶アプリ)に残そう、と……
そういう目標ができました。
ってことで、何をご返信してもぁ……って感じなんですよ。
全てのご感想に目を通しましたが、今の自分がなんというか……みなさんの真摯なコメントにご返信できる気がしなくて……
ごめんなさい、この記事へのご返信は今はやめておきます。
全て目を通させていただいておりますので、何かございましたらコメントしていただければ。
BadBoy 17
なんか今回はやけにぱっとしないのですが、これはつまり、評価されたいという欲望を否定したいのでしょうか……それともみすちーさんにとってブログは語ること自体が報われる行為であるのに対して、絵を描くことは評価されることでしか報われた感覚を味わえず(あるいは画力が低いために書いていても満足感を感じられない)、その差異に苦悩しているという内容なのでしょうか……
自分も多様な趣味を持っていて、それぞれの趣味に時間を割けないために、一生報われないだろうなと思ったことはありますが、正直報われようが報われまいが、趣味とは内なる欲望に触発されて行うものであり、そこに有益さや生産性などが生じようとも、根本的に意義や目的の存在するものではないと思っています……だからこそ趣味なのでは。
直接ご返信させていただきましたが、お答えしていなかった
「評価されたいという欲望を否定したいのでしょうか……それともみすちーさんにとってブログは語ること自体が報われる行為であるのに対して、絵を描くことは評価されることでしか報われた感覚を味わえず(あるいは画力が低いために書いていても満足感を感じられない)、その差異に苦悩しているという内容なのでしょうか」
の部分にご回答いたします。
端的に申し上げると、「評価されたいという欲望は否定出来ないし否定されるべきものでもない。だけど、『評価を求めて』創作をすると、大抵何かがズレる」が僕の考えです。
なので、後半部分の「絵を描くことは評価されることでしか報われた感覚を味わえず(あるいは画力が低いために書いていても満足感を感じられない)、その差異に苦悩している」はある程度近い内容ですね。
まぁ「本来の創作って一人にでも伝われば十分なんだよなぁ」っていうボヤキを8000字に渡って続けていると思っていただければ。
ものくろこーひー
毎度拝読させていただいてます。どももー。
確かになんで描くのか?を疑問に思うことは、たくさん描くような人には向いてないとは思いますw
しかし普段描かなくとも、ある日突然思いついた時に絵を描くことも一つのお絵かきスタイルであると思います。
描いてる時になにを込めたのかMistirさんが思い出すことができれば、それはこのブログでは同じような効果、それでいて文章では手の届かない頭の中を抽出するような、絵を描くことにそんな価値が出てくるかもしれないと勝手に想像してみましたw
ご感想ありがとうございます!
最近、Twitterから距離を置いたら「無意識のうちにTwitterのRTを稼ぐゲームとして絵を捉えていた」という事実に気づきまして……
だから自分の中での絵の価値観が一度リセットされつつあります。今後、もしかしたら思い出したように絵を描くかもしれませんね。
……ただ、今はやりたいことがあって。それが幸せっす。
asahi
こんにちは。
絵を描いて「評価されたい」という気持ち、私にもすごくあります。私は、その気持ちを産むひとつの要因として、「他人と自分の内面を共有したい」という願望があるのではないかと思います。
たとえば私は、美しい景色を見ると絵を描きたくなります。光を反射する水面や青々とした木の緑などを見ると絵を描きたくなって、その絵を人に見せたくなります。「私にはこの景色はこう見えていて、すばらしいと思うんだけど、あなたにはどう見えているの?」と聞きたくなる。いくら同じ風景を同じ場所で見ていても、自分と他人は個別の存在だから、自分が見えている風景と他人が見えている風景は違います。その上で、自分が感じたことを他人も共有しているのかを知りたくなる。そして自分が美しいと感じた部分を他人も美しいと感じてくれているとすごくうれしくなる。そこには、どこまでいっても交われない個別の存在であるというある種孤独の中で、自分の内面を一部でも共有できたのではないかという、他者と交われたという充実感があるのではないでしょうか。「他者から評価される」ということは、自分が他者と共有したかった自分の内面の一部を、他者が共有し共鳴してくれたという、自分の心の孤独を掬い取ってくれるという一面があるのではないか、と思います。
mistirさんの、某ゲームキャラの女の子の絵、私はこのキャラを知りませんが、穏やかな表情や赤い頬、ふわりと服に乗る髪に柔らかなフォルム、一方で違和感を生む歪んだ時計、なんとなくですが、mistirさんがこのキャラのどこに琴線が触れているかが伝わってくる気がしますし、このキャラの素敵な部分を表現したいという気持ちが伝わってきます。絵がうまくなりたい、といのは、「自分の内面を、より正確に外に出せる技術を会得したい」という欲求なのではないでしょうか。
すごく自分語りになってしまってすみません。実は私も絵が上手になりたいと思っているいる一人なのですが、壊滅的に下手なのです。表現したいことができなくて、いつも絵を描くとヤキモキしています。下手すぎて何の絵かも理解されないことも多いのですが(重症です)、たまに色使いで何を表現したかったか気づいてもらえることがあります。「あなたにはこう見えていたのね。」といってもらえるだけで救われることがあります。褒められなくても、ただ自分という人間の内側に育った気持ちを理解しようとしてくれたことを嬉しく思うのです。それが共有できたらなおのこと嬉しい。
表現したいものを見失っている、とありましたが、描くために表現を探しているとなかなか出てこないもののように感じます。一方、外に出して誰かに理解してほしいと思える自分の内面の欲求が現れて、それを表現する最適な手段が「絵を描くこと」と感じたときに、手が動くのではないのかと感じました。
ご感想ありがとうございます!
自分の絵に関してそうやって観ていただくことって滅多にないので、お恥ずかしいですね……w
でも、確かにそういった自分の気持ちを、見方を伝えたいっていう欲求はありました、少なくともこの絵を描いた時は。
コトバにできないものを伝える……それが絵の最も根源的なパワーなのかもですね。
そして創作全てにも言えることである、……と。
長らく忘れていた衝動でした。もう少し、考えてみます。
もし東京にお住まいならユナイテッドシネマ豊島園で4DX導入記念で12月2日から12月11日まで4DX3D版で放映してますよ。
余計なお世話だったら申し訳ありません
http://www.unitedcinemas.jp/toshimaen/film.php?movie=3486&from=movie
ありがとうございます!
……家で見ちゃいましたw 良い映画だったんですが、ちょっと僕的に許せないポイントもあるっていう映画でしたね……
僕の映画観はいずれ語りたいところです。
nicho
なんか救われたような気がしました。
ありがとうございます。
自分③の可能性もあるけど…(ノД`)
ありがとうございます!
僕も3かもしれないので、同じですねw
映画エイリアンとかはもうどこをとっても性的なメタファーだらけですよね
コメントありがとうございます!
そうです、その通りです!
ホラー映画の性的なメタファーは研究がたくさんあって非常に面白いですよ。「抑圧と解放」がホラー映画の一つのテーマですからね。
いわし二号
男根のメタファー語りありがとうございました。正直、このトレンドを目にした次の瞬間にはMistirさんの分析を期待していました。期待どおり、この問題点の気持ちの悪さがずいぶん腑に落ちました。
隠喩にはレベルがあるということですね。
作り手も視聴者も暗黙の了解で対象物を合意しているほぼ直喩のもの(=チョコバナナ)から、個人的解釈である隠喩(=Mistirさんのドラえもん)まで無段階です。ツイート主が思う「作り手も男根のメタファーとして提供しているし、視聴者もそう見ている」という決めつけと、現実のギャップに、今回のツイートの問題があると思います。さらにそれに、「外国人」という使い古された「虎の威」で説得力を持たせようとしているところが苦しいです。さて、私は育休中30代のおばさんですが、このツイート主にはおばさんならではの気持ち悪さがもう一つあります。
こちら、のうりんのポスターに対する他のおばさん発信のツイートですが、https://twitter.com/jasminjoy/status/671833881784377344
なんでしょうね。被害者意識?ご自身が被害者なわけではないのですが、男が女にこんな役割を期待していて、それがこういうところに反映されているのだ!という固定観念が見えます。(このツイートに対しては、「ならばリラックマは凶暴性や生命力を排した理想の動物像か?」と聞きたい。セクシーさを含む可愛らしさに、いちいち被害者妄想を投影しないでほしい。)
今回のメタファーのツイート主もこれと同じで「男(特にオタク)は、常に私たち女に未成熟な像を押し付け、軽んじて征服したがり、私たち女はその危険に脅かされている」という被害者意識を感じてなりません。知的水準が高いと自認して高尚な語りをする女性ほど、こういった偏ったご自分に気付かずご高説をぶつ。この我田引水な思考回路こそが、女性の活力云々を妨げているんだと思います。
飛躍しました。長文失礼しました。
ご感想ありがとうございます!
……明晰かつ的確なコメントで、僕には上手くご返信ができないです……w
男性か女性かは別にして、なんかアラがある語りですよねぇ、この人。少なくとも僕にはそう思えました。
男根のメタファーがツイッターで話題になり、Mistirさんに考察していただけるのではないかと期待しておりました。ポルノとメタファーを同列視して語ったことや、エセ西洋人・ステレオタイプなガイジンを引き合いに出したことが炎上の一因であるとの指摘、しっくりきました。メタファーは作品を楽しむひとつの要素として考えるものであり、件の人物のようにまず何が何でも批判や中傷をしたい、その為の道具として、ある種アラ探しのように"メタファー"を引っ張り出してくると途端に薄っぺらく訳の分からない主張になってしまうように感じます。ただ件の人物は、ステレオタイプな思考で凝り固まっているようにも思えますが。
楽器が男根のメタファーという見方は、私も結構面白いと思います。
けいおんやまどか☆マギカ、ガールズ&パンツァーと言った少女達が主役の作品では、徹底的に「力強さや威厳を持つ"男"」が排除され、ステレオタイプな"男"や"チカラ"と言った存在は少女たちの道具としてのみ存在しているように思えます。特にガールズ&パンツァーでは戦車が恋愛対象のメタファーとしてかなり印象強く描かれており、この観点から見ると一層楽しめるように感じました。
ご感想ありがとうございます!
みなさん、どれだけ「男根のメタファー 」で僕を想像してらっしゃるんですか……嬉しいですけどw
そうですそうです、列挙されたアニメは本当に典型的なもので(ガルパンは未見ですが、一応そういったタイプのアニメと認識してます)。
映画分析をメタファーを使ってやるのはベタな手法で、そうであるがゆえに楽しいんですよね。
個人的には男性(と囁かれている)であるはずの久美氏の精神がいったいどう捻じ曲がってここまで女性的な、ナチフェミ的な思考回路を持つに至ったのかも気になってしまいますね……。
みすちーさんも文中で仰っている通り、メタファー=暗喩として機能しているなら「そのものにはなれない」はずである、ということは少し考えれば理解できる事実でしょう。それから、あそこまで論を展開できる人間である以上は、久美氏も分かっているほうの人間であるはずなのです。ゆえに、分かっていながらに確信犯的(誤用)に児童ポルノと同じ文脈でこれらを語ることで同胞を奮い立たせ、確信犯的(正用)に炎上を作り出しているんじゃなかろうかと勘繰ってしまうんですよね。彼に放火された”オタク”たちは理性的にしろ衝動的にしろ何らかの形で必ず反旗を翻しますし、その旗に正論が記されていたとしても、決定的な溝を隔てた向こう側にいる”女性”たちは必ず嫌悪を抱き、溝をさらに掘り進めるからです。こうして”オタク”たちを散々な加害者に仕立て上げることで、比喩的な性表現さえ取り締まるディストピア的な規制社会をちゃくちゃくと作りあげているんじゃなかろうか。こわいなぁ。
……なんてことを陰謀論大好き人間としては考えてしまうわけですが、それはさておき。
絵画には『愛の寓意』などでちょっとばかし有名な(ちなみにこの絵を有名にした中野京子さんもかなりフェミニスティックな展開で絵画を語る方です。…それ自体はこの話に関係ないのですが)寓意画というジャンルがあって、画面に配置されたオブジェクトや人物の配置などから絵の語っている意図を紐解く、という楽しみ方をするものが存在します。また宗教画は必ず沢山の暗喩を含んでいますし、メタファーでもって作品を楽しむのはこれに近い考え方なのかなーと思うと俄然、楽しそうです。文学や映像作品でそういう風に遊んだことはそういえば無いので試してみたい次第ですを
ご感想ありがとうございます!
そうですね、確かに確信犯的(故意犯的って言ったほうが良いのかな?)な一面は見られる用に思います。
楽しいですよね、メタファー。絵画にも応用できますし、何に対しても応用できて。
さらには「このメタファーは下手くそじゃないか?」みたいな見方もできます。例えば、以下の小説では「壁に釘で貼り付けられたトカゲ」が露骨にメタファーの役割を果たすわけですが、それを露骨と見るかどう見るか。楽しいですよ。
……これくらいにして、次の記事へ進みますw
うわ〜んヽ(;▽;)ノ泣いた…
何処で泣いたかは秘密ですが♡
名前に重きを置いて考えた事もなく
習字の時のハラいが難しい字で形になり辛く
うらめしい事はありましたが……
氏名に対してはやはり同級生が学期途中に
変わった時に、ご両親離婚なり
何かしら別離があったのだなと悟ります。
そんな場面は端からも何か寂しさを感じたりは
しますよね
自分自身何者か当事者の子供なら
自分の問題としても考えるでしょう。選ぶ余地なく法律的に氏名を語らせる日本と
自分の選択で氏名を語れる他国とがあるのに
いま知りました。(サンジャポ見た)生きる過程の中で各々が重きを置く事は
様々なのだなぁって今更ながら思います。理性的論理的感情論じゃなく語る事は
本来なら難しく、
その理性的な物言いでは互いに届きにくい筈なのに
理性的にそう語らなければ周囲は納得しないし
理性的なら却って納得するような現象で。自分の立場(生きてきた道筋)をさし置いて
語る事は本来とても難しく
理性的に問題提起をしたとしても結果
知を分断させ格差を煽るような気さえ
します。
(理知的な物言い>感情的な物言い)
よって、さも理性的な面構えの奴が
旨味を吸うような……だからと言ってどうお互いの目論見を
どう会話していけば良いのか……しかし理性的論理的感情論に走らず冷静には
いたい所でもありますが…(すぐ泣く(≧∇≦))
感情を押し殺す…
私の前では押し殺して欲しくないなぁせめて…
とか大切な人には思ってしまいますけれどね♡又のblog楽しみにしておりま〜す♡
男女内おごるおごらない割り勘から読み解く
男女同権とかいろんな形の結婚とは〜等
Twitterで昔、件に対して何周もしてまして
みんなもう飽きてるかな。
これこそ、生きてきた道筋から
いろんな論が生じてどれにも賛同出来る
のですが…
私もいつもそれなりに悩むのですよ…
(相手との関係性、相手がお金持ちなら
良いのか、恋人なら長続きしたいから折半論とか
ある意味おごらない男ありえないとか、
…私的に嫌な折半はラブホ代です!って所に
女として弱者気取りかよってオマエモタノシンダクセニ
嫌だな自分!とか(≧∇≦)
いつかお話聞きたいです♡
ご感想ありがとうございます!
理性と感情は必ずしも分断して対立させればいいとも限りませんよね。
やっぱ、どっちの目線からも語ってみて考えるのが一番良い気がします。大事なのは焦らないことで。
……折半の話はよくわからなかったので、今度またお願いしますw
asahi
名前は、アイデンティティを形成する上で大切な一部だと思いますが、その意味合いが昔と今とは少し違ってきているのかなって思います。
少し前までは、自分の産まれた「郷土」の中で一生を終える人が多かったように思います。都会に出ても、最後に死ぬときは先祖代々の土地で死に、産まれた土地の共同体の一員として墓に入る、みたいな常識が根付いていました。その中では「家制度」というのはとても大事だし、「どの家の息子」と「どの家の娘」が家族になり、今後その土地を守っていくのかを、周りの共同体の構成員に示すことはとても大切だったように思います。女性が結婚して男性の性に変えるのは、その男性の家に入り、血縁をつなげ、その土地を夫と共に守ることがその女性に課せられた使命であることを示した、一種のアイデンティティの形成方法だったと思います。(もちろん、ここで「だから女性蔑視だ!」といいたいわけではなくて、それが当然の時代だったということで、男性もそもそも産まれた土地がら離れないという同等かそれ以上の帰属意識を持っていたと思います。)
しかし、現在「郷土」という認識は薄れつつあります。親子3世代、別々の土地に家を構えることも珍しくありません。そうなると、名前で共同体への帰属意識を形成させる必要がなくなります。名前は固体を識別するための記号の意味合いが強くなり、そこにどのような意味を持たせるかは本人次第になってきているのだと思います。アイデンティティは産まれた土地から「与えられるもの」から、「自分で形成するもの」に変わってきています。
だから、夫婦別姓を認めれば、より多くの人が独自のアイデンティティを形成する幅が広がるのになと思います。昔のように、家や土地を守る決意を持って名字を変える人がいればそうすればいいし、名字が自分の個性の一部で一生変えたくないと考えている人がいればそのままでいれば良い。名前に帰属意識を期待しすぎない人も、名前に何かしらのこだわりがある人も満足できる制度にすれば良いのになと。ただ、今と昔とでは名前の持つ意味合いが変わっているということを心に留めておかないと、「感覚」とか「感情」での話し合い担ってしまうのではないかなと思います。
ちなみに、私は女性ですが、名前の字画数が名字を含めて大吉なので(運勢的な意味で)あまり変えたくないです。ただ、今の名字より運勢が良くなる名字の人と結婚するとしたら変えるかも知れません。私にとっての名前はゲン担ぎの一種で、よくも悪くもその程度です。
ご感想ありがとうございます!
家制度が崩壊しつつある今、名前の意味合いは?という指摘は非常に重要な指摘だと思います。
世の中が変わっても、それでも名前に対する「感覚」は変わらない、これまた重要で。
難しいですね。
僕はどうでしょう。本文で述べてるように、変えられたらショックなような、それでも別に良いような。
難しいんですよね。「理屈」ならどうでもいいのですが。
最後の方にある、
強引に夫の名字に変えられるのは嫌だ!
というのがこの問題の根底だと自分は思います。
確かに名前はそんなに大事ではないかもしれません、しかし大事でないからといって、いや、大事でないからこそ法律で無理やり変えさせられることは不快なのだと思います。
性別などといった人生を決めるような大事なことを変えられないなら、せめて名前くらい自分の好きにしたいものです。
コメントありがとうございます!
大事じゃないからこそ、ですか。……難しいですが、そういった発想もあるのですね。
法律が無ければ、確かに夫婦別姓という「自由」は享受できるわけですよね。でも、それが法律によってできなくなってる。それは法律によって強引に苗字を変えられるのと変わらない……
難しい問題ですよね、やっぱり。そこで苗字が大事かそうじゃないかは、実はそんなに問題じゃないのかも。
えっと……
この記事の解決方法も、一つみつかっちゃいました。
……また今度機会があれば語りますね。
コメントへのご返信は、この記事は保留ということで。
ってことで、年末総決算的にコメントへのご返信をいたしました。
今後はコメントへご返信するかどうか、わかりません。
まぁテキトーにさせていただきますね。
今後はまたブログの「ノリ」も変わると思います。
順次色々と語りますが、「今の心境ならこれ絶対記事にしないなぁ」って記事が大半でした。
やっぱり色々心変わりがあって……
……まぁ、ややこしいですが今後もよろしくお願いしますね。
ではまた次の記事でお会いしましょう。
次の記事がいつになるかわかりませんが、とりあえず、良いお年を。
こんばんは。
記事を拝読していたら「卑屈の壁」が立ちあらわれて少しへこみました。
「人見知り」を克服した人に対しての「すみません。まだ、人見知りのままで」という卑屈w
「人見知り」ですけど、それが?なにか問題でも?
と言い切るにはコミュ能力に対しての憧れを捨てきれないようです。ww
モヤっとしてたのですがリンク先の「才能は欲求」「威圧感の無い人」が
心にストンと落ちてきてモヤっとが払拭されました。^^
余談。
「伝える」から「思う」になったくだりは、私は違和感を感じなかったです。
ウザがられる程嫌われてる人に「伝える」という行動は
「ストーカーになるんじゃないの?「でも思う心は自由だよね。」
(君の気持ち分かるよ、応援するよ、そんな君、過去の僕の為に歌をうたうよ!(←妄想ww))
「人見知り」が「相手に対して失礼」と思っている方が
「相手の気持ちを無視して伝える」のも「相手に対して失礼」と思っての流れだと感じました。