ども、Mistirです。
映画『シン・ゴジラ』を観てきました。
はい。
泣きました。
号泣です。
ボロッボロ泣きました。
「あー、この映画みて泣いてる人多分他にいないんだろうな……」
恥ずかしく思いながら周りを見ると……やっぱり、泣いてる人はあまりいませんでした。
何故泣いたのか?
それは、この映画があまりにも明確に、一つの結論に向かって……まっすぐに突き進んでいたためです。
極上のエンタメでもありながら、同時にあまりにも強い「思想」が示されていた。
全てのパーツが、全てのシーンが、一つの結論を描いていた。
映画のギミックも、事前の印象も、「利用できるものは全て利用し尽くして」。
その「思想」がはっきりと理解できた時……僕は泣くしかなかったのです。
これは語らねばならない。
……ってことで、語ることにしました。
しばし、お付き合いください。
【注意!】以下、多数のネタバレが含まれます。
必ず観終わってからお読みください!
【本編開始】
1.プロセスと「個」-The Process and Pieces-
※ここから語るのはあくまでも「分析」であり、考察ではありません。
「牧教授とは一体何者だったのか?」といったような本編ではグレーの要素に関して語るつもりはございませんので、ご了承ください。
さて。みなさん。
シン・ゴジラ、いかがでしたか?
事前情報だと某超B級映画、バトルシップ辺りとよく比較されていて、「B級チックなんだろうな」と思っていました。
事実それは遠くなくて、ラストバトルなんかは明らかに「超B級」要素が含まれていて、笑うしかないシーンなどもあります。
でもそれも含めて、やっぱり「計算づく」であって、映画そのもののパーツとしか思えないんですよ。
最終的に全てがつながってくる。
順に語っていきましょう。
僕は庵野的な描き方に詳しいわけではないのですが、映画冒頭からやっぱり何か露骨に癖のある現実の描写が繰り広げられていることがわかります。
ひとことで言って、ねちっこい。
ねちっこくて、矢継ぎ早。
「いや、そんなところテロップいらんでしょ!」ってところでもなんか妙にカッコいいテロップが表示され、説明される。
速すぎて読めねえよ!
矢継ぎ早にシーンも展開も切り替わりますが、同時に「人」も切り替わります。
たくさんの人物が登場しますが、……ぶっちゃけ、たくさん出過ぎて覚えられませんよね。
かろうじて主役(っぽい人)が誰か理解できるくらいです。
「あ、この人ヒーローっぽいこと言ってる!」
※以下、登場人物の画像はこのサイトより引用いたします
主人公、矢口。
彼は理想に燃えるいわゆる「ヒーロー」の役割として描かれます。
そのおかげで、なんとなく政府上層部のグダグダ感、意思決定の遅さが……とっても悪い印象で僕らに伝わってくるんですよね。
矢口がいくら「正論」を言っても聞き入れない「上層部たち」。
これがこの国のやり方なわけです。
……が。
それって別に不自然なことじゃないんですよね。
っていうか、現実的に「巨大生物の可能性が」なんて、信じる役人がいたらその方がびっくりです。
この段階では「個々に行われる」会議の「グダグダ感」が妙に「リアルに」繰り返される。
ヒーローは異物です。
ここでは観客はニヤニヤしながらイライラするしかないわけですね。
ホンットに露骨でわかりやすいのが、初期形態のとてもキモいゴジラに発砲しようとするシーン。
「射撃許可」を求めるプロセスの、アホらしいほどの多重の面倒くささ。
こんなに射撃許可の多重性(テンポの悪さ)をしっかり、ねちっこく、めんどくさく、そして同時に……テンポよく描いた映画がかつてあったでしょうか?
もはや音楽的でさえあります。
このシーンは、ギャグでもあり、リアルでもある。
そりゃあ、実際に民間人がいて、市民がいたら……射撃許可は「あんな感じ」にはなっちゃうでしょうね……と。
なんとなく、そう納得させる「リアリティ」がある(実際に総理大臣がその許可を与えるのかはわかりませんが)。
もしかすると、あそこで射撃してたら……あの「キモい形態ゴジラ」には効いていた可能性がある。
……と。
この流れで考えてみても面白いのですが、あのシーンは
「意思決定一つにも恐ろしいほどの多数の『個別な』要素が絡んでいる」ということだけ覚えておけば良いと思います。
薄々気づかれていると思いますが、僕がこの映画で語りたいのは
「個」について
です。
ここで首をかしげられた方もいるかもしれません。
この映画は……どっちかというと、「集団の映画」というイメージが強い。
でも、その裏側にあるのは「個」なんです。
とりあえず、意志決定のグダグダから既に、物語の「最後のメッセージ」まで繋がっているんですよ。
後でじっくり語るので、覚えておいて下さい。
さて。
グダグダを繰り返しながら、「巨大不明生物特設災害対策本部(巨災対)」が発足されるところまで話は進みます。
ここで僕はグッときちゃった。
「うわあああああすっげえスムーズに切り替わった!」
……そう。巨災対が発足されると、映画は「政治劇主体」からごくごく違和感なく「ヒーローたちの活躍」へと切り替わります。
イライラの政治劇から、エンタメへ。
「テメーらどうせ出世無理だから自由にやれキモオタども!!!!(どんなセリフだったか正確に覚えてなくてすみません……)」的なセリフで一気に切り替わるわけですね。
まあ、ここで「エンタメ」へ流れてはいきますが、それでも政治劇が終わるわけではなく……むしろ悪化していくのですけれどね。
でも、この時点で僕は「ここからはヒーローたちの映画と政治劇がシームレスに繰り広げられていくんだ!」と解釈したので、その後の細かいアラが気にならなくなりました。
例えば……
クオーターで超有能なカヨコさん。
……というかもう「石原さとみ」さん。
彼女の英語とか。
彼女が所属しているのがほぼほぼ100%「エンタメ」側の世界であると考えると、違和感はなくなります。
とまぁ、ここからはエンタメと政治劇が並行して進みます。
そして……
ふたつ目の戦いが、幕を開けるのです。
さて、この章では「積み重ねられていく『個』について」語りました。
矢継ぎ早なシーン、テロップによって、「意思決定一つにも馬鹿みたいな数の『個』が積み重ねられている」ということがリアルに描かれている。
それだけ覚えていてくだされば問題ありません。
では次の章。
この映画が「何と戦っていたのか」という問題です。
2.第二の戦争 - The Second War -
……さて。
映画中盤から、戦いは「ゴジラとの戦い」だけではなくなることに気付いていましたでしょうか。
タイムリミットとの戦い。
タイムリミットを迎えると、どうなるか?
そう。
国連によって、核が落とされます。
全てを無に返す、圧倒的な「暴力」。
「一個の力」。
ゴジラとの戦いと並行して、この「力」との戦いが描かれているわけです。
ここからは、ゴジラとの戦いと並行した「第二の戦争」が始まっています……
……と、色々語ろうとしましたけど、やっぱりこの「第二の戦争」に関してはラストバトルに全ての文脈が含まれています。
その中で語ったほうが良い気がしました。
ってことでさっさと次章に進みましょう。
3.決戦 -The Last Battle-
最終決戦。
爆笑シーン、「無人在来線爆弾(流用)」も登場します。
インパクトが半端ない。
こんなん笑います。
B級映画ファンどもが僕に散々シン・ゴジラを勧めてきた理由の9割はこのシーンです。
……多分。
このシーンは初代ゴジラのオマージュとか色んな意味があるらしいですが……
僕は、少し違うものとして見ています。
っていうか、その解釈だとこの爆笑シーンが泣けてしまうのです。
後で語りましょう。
さて。
この「ラストバトル」。
気付きましたか?
全てが「個」によって形成されている……
まるで、アリの大群が牛を倒すかのように。
使えるものを、全て使って。
全て壊して。
このラストバトル、「ヤシオリ作戦」の流れは以下の通りです。
- 無人新幹線線爆弾で足止め
- 無人飛行機で消耗させる
- ビルで足止め
- 第一次注入
- 無人在来線爆弾(パワーワード)で足止め
- 第二次注入
最終的な目的、「凝固剤の注入」は、身も蓋もない言い方をすれば
・たくさんのストローをゴジラの口に突っ込んで薬を飲ませる
……それだけの、恐ろしいくらいに……「地味な」話です。
ちなみに、もしも核兵器が使われていたら?
- 核兵器爆発
……おしまい☆
一撃で終了でしょう。
東京ごと。
……さて。
何故わざわざ、この映画では決着方法がこんなに「地味」で無ければならなかったのでしょうか?
「経口投与」って聞いたら、ミサイルとかに薬を載せて口を狙う……とか、そういうのを想像しますよね?
でも、恐ろしく「地味」な絵面を選んだ。
プロセスはド派手ですが……結末は、ここまで「地味」。
考えてみてください。
核兵器は、国連という、世界という「集団」から生じる圧倒的な「個」の暴力です。
※ここでいう「核兵器」は劇中での「核兵器」です。
一方、ヤシオリ作戦では……徹底的までに「個」が反復されているんですよ。
新幹線が。
無人飛行機が。
ビルが。
山手線の電車が。
そして、自衛隊員たちが。
アリの群れのように、ゴジラに戦いを挑んでいる……。
ここまで映画を見ていた人たちならば、分かるようになっています。
この映画、序盤で「無能っぽい」と見せかけていた人たちも全て一人ひとりが「個」として、働いているんですよ。
例えば、総理代理。
もう誰がどう見ても無能キャラで、何故か伸びたラーメン食べてますが(エヴァネタ?)、外交上大きな役割を担います。
途中で死んじゃう総理も、国民のことを本気で考えた結果、全ての行動が成り立っていたことが分かります。
一部の『シン・ゴジラ』批評で、この映画が「カリスマ(≒矢口)によって救われる、一人の指導者を求める映画だ」と批判されていましたが……
私の意見は、全くの真逆です。
その象徴が、このセリフ。
「次のリーダーがすぐに決まるのが強みだな」
このセリフは皮肉っぽく使われていますが、以下のセリフと組み合わせると、印象が変わる。
「礼は要りません。仕事ですから」
一人ひとりの恐ろしく心強い「個」が、それでも……あくまでも……「集団」で、「仕事として」動く。
この考え方は極めて「日本的」であり、批判されやすい考え方でもあります。
でも、この映画ではそれを心底「理解した」上で、再構築したようにしか思えないのです。
国連軍が使いたくて仕方のない「核」は、
「集団(≒国際社会、国連)から生じた圧倒的な『一個の』暴力」です。
……「ヤシオリ作戦」で描かれているものは、真逆ではないでしょうか。
使える知力を、力を、全て使い果たして……アリのような「個」が、巨大な「力」に戦いを挑んでいる。
これは、個人主義でも集団の過剰な重視とも、また違う「第三の考え方」とも言えます。
一人ひとりが最強の「個」が、名前のついた「個」が、それでもあえて「集団として」……一人ひとりの「存在」を薄めながら……動いている。
さあ、ここからこの「分析」の結末です。
思い出してみてください。
パラパラと「流されていく」シーンが。
観客の頭からも忘れ去られる人の名前が。
地名が。
無用な会議が。
犠牲者が。
その全てが。
数本のストローへと、結実する。
知力・自衛隊員の命・人々の思い、あらゆる……「プロセス」を結実した、「ストロー」へと、思いを繋ぐ……。
本当に、「全てを」使いきっています。
高層ビルでさえ、新幹線でさえ利用する。
核という一個の「暴力」を拒絶し、使えるものは全て……全てを使い尽くす。
途中、ゴジラが活動を再開し、第一次注入隊が全滅する。
それでもなお、作戦は終わらない。
ここまでを踏まえて、伝説の爆笑名シーン、「無人在来線爆弾(流用)」を思い出してみてください。
ゴジラに比べると小さな……それでも数多の電車が、巨大なゴジラの身体をアリのように這い上がり、そして倒す。
そして……それだけ焼け野原じみた消耗を繰り返しても……それでも、人は「負けない」。
第一次注入隊の犠牲を払いながら、第二次注入隊の決死の作戦続行。
その結果が、誰一人喜ばない、勝利。
ハリウッド映画なら「FOOOOOOOOOOOOOOOOOOO!!!!!!!!!」ってなっているシーン。
そんなシーンで聞こえるのは、全てを噛み締めるような、安堵の溜息……。
勝利のために、使い尽くした。
全ての資源を、使えるものを。
何もかも、使い尽くした。
これは勝利だったのか?何だったんだ?
誰もここに、ホントウの喜びはない。
なんかゴジラも立ってる。
でも。
喜びはないけれど。
それでも……!
ここで、物語を「理想の側面(≒矢口サイド、エンタメサイド)」と「現実の側面(政治サイド)」を「政治サイド」から接続する、独特な立ち位置で見つめていた「ある人物」が結論付けるのです。
「この国はスクラップ&ビルドでのし上がってきた。今度もやり直せるさ」
これ聞いて、もう僕は涙が止まらなくなりました。
集団の偏重だとかなんだとか、色々批判される余地はあるでしょう。
それでも……この、ともすれば「無様で非効率な日本的やり方」が、ダメな部分を受け入れられながら……最後には新たなる形として結実されている。
地味でも。
使えるものを全て使って、無様に戦って、全てを使い尽くしても。
無様に負けたように見えても。
焼け野原になっても。
それでも、何度でもやり直せるさーー
なんという、地味でダサいメッセージだろう。
でも、それがあまりにも心に響いた。
何故なら、そのメッセージに、この映画が積み上げてきた全てが繋がっているのだから。
まとめます。
4.終わりに
僕は正直なところ、庵野にもゴジラにも思い入れはありません。
だからこそフラットに観た結果……「庵野的要素」や「ゴジラ的要素」を無視して分析していますので、一周回って深読みし過ぎの点もあるかもしれません。
まぁそれでも……やっぱり、無駄な程にねちっこく繰り返される「個々の『名付けられた(=テロップで示される)』」、シーン、人、場所、兵器、その全てが……
「無名」ではない、と。
そう語られているように思えてならないのです。
最強の集団は、最強の個で成立する。
集団に、名は必要ない。
それでも、名はある。
……といった、とにかく絶妙な集団と個の関係性が……「個人主義」「集団主義」というような二元論に陥らず、描かれているように思えます。
この映画は日本を褒め称えるだけの映画?
いやいや、この映画は極めて丁寧にイデオロギーを排除していました。
原発問題なんかもほとんど絡めていない。
日本のやり方が必ずしも正しかったか?そういうことも言っていない。
改めて言えば、序盤の「発砲許可シーン」がなく、発砲していたならば犠牲者は半分以下になっていたかもしれません。
ただただ、主人公の理想が、「日本的なやり方」が、最後に至る場所……
何度でも、やり直せる。
この映画は、それを示しただけというのが僕の結論です。
僕はその結論に、何か熱いものが堪えきれず、涙した。
それだけで……十分なのです。
お読み頂きありがとうございました。
ではまた次の記事で。