こんにちは、Mistirです。
最近物議を醸していた、絵本作家の "のぶみ" 氏作詞による『おかあさんだから』という作品。
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僕はなんとなく、「たまたまこの世に生まれたに過ぎない一曲」に対して深く突っ込むのもなぁ、と思って距離を置いていた(まあ多少はTwitterで触れてたけど)。
で。
そんなこんなあってのぶみ氏が謝罪したらしい。
そんでもって。
かの炎上商法界の最弱キング、長谷川豊氏もまた言及していた。
この歌の歌詞がどうとかじゃなくて「色んな価値観があっていいし、色んな考え方があっていい」…憲法にそう書いてるはずだが、自分と違う価値観は叩きのめして謝罪させるまで気が済まない。
— 長谷川 豊 (@y___hasegawa) 2018年2月8日
心から気持ち悪い流れだと思う。https://t.co/78kucOLKCe @YahooNewsTopics
結論を言えば、この考え方は「間違っている」。でも一方で、言わんとしていることも分からないでもない。
この炎上問題は「表現の自由」について考えるためのモデルケースだったりする。
「表現の自由」を考えることは、「表現の不自由」を考えることでもある。
さあ、語ろうか。
僕らの世界は窮屈で不自由で、表現が駆逐された浅はかな世界なのか。それとも……
表現の自由 vs 表現を批判する自由
当たり前だけれど、表現の自由があるとするならば、それを批判するのも自由だ。
表現の批判もまた、表現によって成されるものだから。
『あたしおかあさんだから』が炎上した理由は色んな所で語られてるから、深く語るつもりはない。
僕の私見として端的に述べるなら、その歌詞はあまりにも……
「呪い」として機能しすぎていたように思う。
一歩置いて見ると、「たかが個人の主観的な『歌詞』をそこまでボロクソに言う必要もなかろう」と思えなくもない。
— Mistir (@mistclast) 2018年2月6日
だけど、こうも思う。
「こんな世の中で迂闊に人を呪ってどーすんの」
僕はずっと「もっとリスクも覚悟も不要で子供産めるような仕組み作らないとどん詰まりだよ?」って指摘してるんだけど、悲しいかな、現代はどんどん子供を産む人間にばかり厳しい世界だ。
まるで完走に数十年かかる上に、誰も評価してくれない、それどころか責め立てられるマラソンランナーみたいなものである。
この『おかあさんだから』という曲はどうやら「応援」の意図だったらしい。が、まぁ誰が見ても「苦しいことばかり、抑圧ばかり」を立て並べているようにしか見えない。
マラソンランナーの横をノリノリで並走しながら
「ヘイ!俺マラソンランナーだからコーチのシゴキにも耐えるんだ!マラソンランナーだから足が骨折しても走るんだ!」
とか歌う人がいたら誰もが「お前誰や!カメラに映るな!」と突っ込むだろう。
……僕のブログ史上、究極に分かりにくい例えになってしまった。
というかズレてる。自覚はしている。
ただ、ここで言いたいことは『おかあさんだから』という曲の歌詞が「いかに批判されて当然か」ということではない。だからぶっちゃけマラソンの例えは全然重要ではない。
大事な点は、あえて先程の例えを使うなら……
「お前誰や!カメラに映るな!」
と叫ぶ権利は、誰にでもあるということなのだ。
仮にも世の中に発表された楽曲の歌詞ならば、誰もがそれを批判する自由がある。
「不快な気持ちになった」と言う権利がある。
パロディで笑いに昇華させる権利がある。
……そして、批判者を批判する批判者批判の自由もまた、ある。
さぁ、ここからが難しい。
よくセットで語られる「表現を批判する自由はあるが、それをやめさせる権利はない」という論理だが……
それは事実だ。
間違いなく事実だ。
……だが、本当に?
表現批判の自由のパラドックス
こういったことを考えるときは極論から考えると良い。
例えばコンビニの雑誌コーナーに、戦争で死んだ人たちの残酷な死体や、あるいはそれを馬鹿にしたような表紙が並んでいたとしたら?
僕はずっと言っているが、「表現の自由はかなり広く認められるべきだ」という立場だ。
その立場は崩さない。
だが、例えにあったような世界が広がっていたとしたら、そのときは……
確実に「やめろ」と言うだろう。
そう、明確に。「やめろ」と。
僕にその「権利」はないはずだ。
「やめさせる」権利はない。
だが、「表現の自由」はある。
批判はできる。
「やめろ」と叫ぶことができる。
でもこれって、おかしいと思いませんか?
「残酷な死体」を「エロ本」に置き換えても、全く同じ理論が成立してしまう。
そう、僕のブログ読者の方みんなの敵、「エロを抑圧してくる人ら」の理屈そのものだ。
奴らは僕の敵でもある。
……これは、ダブルスタンダードだろうか?
何が言いたいか。
自由と自由がバッティングした時、優先される「自由」は、ポイント制で決定される。
その「ポイント」は、倫理的正しさであるとか、論理的正しさであるとか、投票者の数とか……あるいは、「経済的優位性」とか。
様々な変数によって暗黙的に決定される。
例えば、さっきの例でも、本来は誰もが「コンビニで死体の写真を見たい」と叫ぶ自由があるのだ。
ここで「そんな自由は認められない」みたいなことを言う人がたまにいるが、それはもう明らかに間違っていて、本来僕らはそういった「極論」でさえも主張する自由がある。
……話が少し逸れるけれど、僕は「特定個人の生活を直接的に脅かす表現」は決して認められるべきではないと思っている。
具体的には週刊誌の不倫報道とか、もう滅びてしまえと思っている。
それは表現云々というよりは、表現に至るまでの筋道が何もかも間違っているから嫌いなのだ。
芸能人も、本来不倫云々を報道されたら名誉毀損なりなんなりで訴えてやれば良いのだ。
だけどそんなことをすれば好感度が余計下がるだけだから、やらない。
そう分かっているから、週刊誌はのうのうと余裕の立場で「不倫報道」なんていうゲスの極みを笑顔で犯す。
その精神の下劣さが気に食わないのだ。
……話が逸れた。
とにかく、基本的にどんな「極論」でも主張する自由が、この世界にはあるのだ。
……そう。
「その極論が認められるかどうかは、別にして」。
コンビニのエロ本がなんだかんだでなくならないのは、
「エロの抑圧がロクなことにならない」という「社会的通念」がある程度形成されているからなのだと思う。
エロはいとも容易く規制できる。AVのモザイクなんてその極北だ。
さあ、いとも容易く規制できるものから、片っ端からとりあえず規制していこう。
……そんな世界が望まれるならば、僕はそれと真っ向から戦おう。
おそらく、そういった人たちはたくさん存在する。
だけど、僕が「どうしてもコンビニで死体を見たい」と主張しても、多分誰も僕と一緒に戦ってはくれないだろう。
結局はそういうことだ。
『おかあさんだから』は、2018年の通念の中で、誰も戦友を得られなかったというだけの話なのだ。
それどころか、敵ばかり作ってしまった。
それだけの話。
……だが、ここからまだ話は続く。
Q:そんな世の中で良いのか!?
結局、のぶみ氏は「謝罪」してしまったわけで、まぁ誰がなんと言おうが僕も含めた「世論」が氏を「謝罪」に追い込んだ、という事実は間違いないだろう。
で、そんな世の中に窮屈になるのもまぁ分かる。
でも「本当か?」とも思う。
確かに一部の芸人あたりが主張する「最近はみんなすぐ批判したがる」というのも一理あるだろう。
誰もが圧倒的に気軽に「批判」を……そう。
「批判」を「表現」できるようになったのだ。
これはある意味、「表現の自由」が拡大されたとも言える。
これまでは「不快」に思っても黙っているしかなかった人たちも、声を上げられるようになったわけだ。
だからこそ、最近はテレビでの「オタク批判」などがエラく減ってきた。
これは今までただのサンドバッグだった、僕を含めた「オタク」たちが声を上げ始めて無視できなくなったからなんだろうね。
で、そんな「批判」的「表現」の自由が拡大された世界、それは「不自由」を意味するのか?
と言われると、僕は「違う」と思う。
ここからは主観が大いに混じるけれど……
こんな一見「簡単に炎上する」ナイーブな、みんなが『けものフレンズ』みたいな「優しい世界」を求めている、そんな世の中であってさえ……
なんだかんだで「極論」にある程度の味方はつく。
……ここで長谷川豊氏の話に戻るんだけど、あんな長谷川豊氏でも味方は「結構いた」のだ。
僕も筆致が今と比べれば幾分控えめだった頃の氏の記事を読んで、「過激だけどなかなか面白い視点だ」って思ったことがある。
が、「透析患者死ね」事件はいくら何でも一線を超えすぎていた。
「透析患者死ね」という「表現」が許されるか否か、これは極めて難しい問題なので迂闊には答えない。
けれどまぁ、これだけは確実に言える。
「あの件で長谷川豊氏の味方をする人はガッと減り、敵はガッと増えた」。
結局、極論であってもある程度以上正論が混じっているならば、支持がゼロになることは珍しい。
それがネット世界の「自由」の形なのだと思う。
炎上するのは、「それが正論の余地がない、あったとしても認めるメリットがまず浮かばないような極論」か、あるいは……
「正論でもないし、極論でもない、けどなんか不快」
っていう、そんな表現だ。
実を言うと、のぶみ氏が言っていることはそこまで馬鹿馬鹿しいほどの「極論」ではないのだろうと思う。
むしろハジけ方(=極論にするパワー)が足りなかったのだと思う。
例えばあの曲が
あたし おかあさんだから
眠いまま朝5時に起きるの
そしたら過労死したの
だけど地獄から貴方に会うために這い上がったわ
貴方は言ったわ「貴様……貴様は10年前に死んだ筈」
こんな歌詞だったら多分炎上はしてなかったよね。
……うん、これもまた極論なのは理解してる。
でもとにかく、(おそらくは万人にとって)「なんとなく不快」だったし、その不快感の根源を辿ると「抑圧された母親像の押し付けがましさ」とか、そこに何一つ救いをもたらさないことだとか、悪いことばかりポンポコポンと浮かび上がってきてしまう、そんな歌詞だった。
結局、現代の通念に乗っかっていなかった。
だから敵を作ってしまった。
それだけの話なのだ、この件は。
もちろん、僕のこの記事を批判する権利は誰にもある。
真っ向から否定してくれても良い。
だけどそれを聞くかどうかは僕の自由。
なんだかんだで、ラクな世の中なのかもしれないね。
お読み頂き、ありがとうございました。
ではまた次の記事でお会いしましょう。