Midnight Note

明日はどこまで行こうか。どこまで行けるだろうか。

後ろ向きに、前を向いて、自由に生きる

こんにちは、Mistirです。


「これから僕らはどう生きる?」


正解のない問いだけれど、考えて、考えて、考えて、26年間考え続けた結果、僕は
「自由であるか、自由のような風味の何かを摂取し続けられるなら、それだけでいい」
っていう結論に至りました。

正直、最近ブログを書こうとしては消して……を繰り返していた。
どんな言葉も滑っていくというか、どんなことを書こうとしても自分と離れている気がした。

それは多分、上にある答えに辿り着いてしまったからなのかもしれない。

僕は自由であればいい。
それ以上のものにも、それ以下のものにも興味がない。
けれど逆に言えば、全ての価値基準を自由に置く程度には、自由に向き合っているつもりだ。

だから僕の思う「自由に生きる」ことについて語って
"MistiRoom"というブログを……
「第一部完」としようかな、と思う。

とりあえず区切るだけで、辞めるとは言わないけどね。

 

このブログのこと

このブログには自分のことについて好き勝手に書き散らしていたけれど、結局それは僕の「悪あがきの記録」だったのだと思う。

どうすればいいか分からない。
だから足掻く。

そんなことばかり繰り返していた。

足掻かずにどこかの価値観に自分を落とし込もうとしても、どんな価値観も僕にフィットしてくれない。

退廃的な価値観が嫌いだ。何もかもに嫌悪感を撒き散らして、あらゆるものを批判する。冷静な議論を投げ捨てた感情論も、完璧な何かが存在することを前提とした理想論も嫌いだ。

前向きな価値観が嫌いだ。まるで人類が皆この世界を推し進める……アップデートするために存在していて、バカではない一部のエネルギッシュな人たちが世界を作る「べき」であり、その世界に属する「べき」であるかのような、そんな同調圧力が嫌いだ。

退いた価値観が嫌いだ。もう金持ちになることも諦めて、年収300万円もあれば人は豊かに幸せに生きられるんだよ、っていう思考が嫌いだ。

僕は酒を飲むとたまに口癖のように言っていた。
「本質的に僕は、寝ることと食べることとエロいことにしか興味がない。ついでに言えば、あとは酒と金」と。
唯一バイクは例外的なものである。
欲望を通り越してライフスタイルそのものというか。

鬱陶しかった。
僕の中に何かしら高潔な欲望が眠っていると、誰かに期待されることも自分に期待することも鬱陶しかった。

それでも僕がブログを書いていたのは、「自分のことをわかってほしい」という何かしらの欲求があったから……なのかもしれない。

けれどいつの間にかその欲求が薄らいでいた。
「俺は凄いやつだ」と叫びたい気持ちも、いかに自分が不幸な人生を送ってきたか主張したい気持ちも、どちらも消えていた。

それは多分。
今、自分が目的に即して生きるために何をすればいいか。
それがだんだん分かってきてしまったからだと思う。

生き方のこと

2018年12月、僕は会社に退職願を提出した。
厳密に言えば有給の後辞めるから、2019年1月末で退職となる。
2月からはフリーランスとして活動する予定だ。

「自由が好きだからフリーランス!」と、そう安直に発想したわけではない。
第一、フリーランスになれば正社員にはなかったあらゆる面倒事がのしかかってくることくらいよく理解している。
理解した上で、それら全てを自分で背負ってみたかった。
2年半前から独立は第一候補として検討していた。
行ったり来たりしつつも、ずっと変わらなかった。

ここで詳細にフリーランスになった理由を語るつもりはない。
けれど、とにかく会社組織の色々な点が自分に合わなかったのは間違いない。

仕事はスムーズに見つかった。
とりあえずご飯は食べて行けそうだけれど、今後は契約が切られないように全力で自分を磨いていく必要がある。

会社員だった頃は、正直そこまでの自己研鑽の必要性を感じなかった。
その都度その都度できる全力でカバーしていた実感があった。
今後は極論、死ぬか生きるかの話になる。
少なくとも自分はそう認識している。

……正直、猛烈に不安なんだけれど、同時に。
やっと今まで噛み合わなかった人生に少しだけ筋道が見えたような感覚を得ている。

「噛み合わない」。
それは自分の人生に対するキーワードだったのかもしれない。

京都の某大学に落ちて、そのまま哲学を学ぼうとしたけれど、なぜか色々なことがあってフランス文学を専攻することに決めて、その後何故かIT系エンジニアになってしまった。

自分の中では一貫した理由を後で説明することはできるのだけれど、どうも後付感が否めない。

きっと京都の某大学に落ちた時点で……否、京都の某大学を受けようと決めた時点で、自分の生き方を支える歯車に致命的なズレが生じてしまったのだと思う。

小学生の頃から、僕はずっと水族館で働きたかった。
昔から魚が大好きで、ずっと魚の図鑑ばかり読んでたような人間だった。
その頃の経験は、ブログにも役立っている。

mistclast.hatenablog.com

けれど僕は文系に進んだ。

理由はその頃極端に読書に傾倒していたことが大きいけれど、もう一つ。

「自分が文系に進んだらほぼほぼ敵がいないから」
という実利的な理由でもあった。
「文系科目で当然のように稼ぎ、数学でダメ押しする」という「戦略」が自分には容易に想像できたのだ。
その戦略は功を奏した。

今思うと、あの頃から「自分が水族館で一生働くこと」は真剣に想像できていなかった……想像しないようにしていたし、そこから「自分の将来が想像できない方向」ばかり選んでいたように思う。

それがやっと今、収束したような気がしている。
徹頭徹尾「戦略的」だったが、やっと戦略のための戦略ではなく、生きるための戦略を今後は選べるような気がしている。

「噛み合った」人生を送る人たちが羨ましかった。
そんなもの幻想だとは分かっている。
けれど、それでも……
「噛み合った人生」という「幻想」を追い求めずにいられなかった。

今はどうだろう。
僕の人生は「噛み合って」いるのだろうか。
分からないけれど、少なくとも目指すべきところは明確になった。

そうなってくると……なんだか。
どんな文章を書いても、白々しい。
そんな感覚を覚えている。

自分の中に色々とモヤモヤしたものは残っているんだけれど、結局の所それは全て、「食と睡眠とエロと金、諸々背負い込んだ自由のため」に収束すると分かってしまったし、それを実現するためにやるべきことがおぼろげながら見えてきてしまった以上……
何を語ろうと途方もなく白々しい。

僕に高潔な欲望は何もない。
世界をアップデートしようと思わないし、世界を変えようとも思わない。
「まだ消耗してるの?」などと他人を煽りはしない。
革命のファンファーレを鳴らすこともない。
ブランド人間になるつもりは毛頭ない。

でも。
多分。きっと。
僕のことを、誰かに分かってもらえれば。
それで良かったのだ。

だが。
最後に残った「誰かに分かって欲しい」、そんな欲望さえ……なくなってきた。

それでも。
……誰かが、僕の何かに対して同意してくれると嬉しい。

mistclast.hatenablog.com

そんな気持ちが残っているから、明確に「ブログを辞める」と僕は言い切れないのだろう。

怪文書まとめ

どこに行きたいの、と。
そう、よく言われる。

週末は延々とバイクで走り、体を鍛え、昼食の時間は面倒くさいのでプロテインと完全食を混ぜた謎の物体で済ませる。
ミニマリズムに目覚め、ありとあらゆるものを捨てたがる。

そんな日々を送っていると、どうも何かを目掛けて突っ走っているように捉えられがちだ。

正直、自分でもよくわからない。
けれど止まっている場合ではないと思うから、とにかく走り続ける。
……それは「欲望」に駆動された結果なのかどうか、自分でもよくわからない。
ただ、自分を縛るあらゆる制約から自由になりたい。
自分の中のあらゆる弱さから自由になりたい。
その気持ちに偽りはない。

書き終わってから気付いたけれど、この記事は逆説的に「誰かに分かって欲しい」という密度の高い叫びになってしまった。
多分、僕はまだ何かを語りたいのだ。

それでも語れないとするならば。
それは自分の中に渦巻くものと、自分が取り入れてきたものの差異の大きさと言うか……

要するに、書くに値するほど自分の中で熟成させられていないのだ。
いろんなものが燻っていて、それぞれのものとしっかり向き合えていない。
今後は良質なインプットを増やして、自分と向き合う作業を続ける必要がありそうだ。

また語りたくなるときが来るまで、とりあえずインプットの量を絞って質を上げようと思う。
だからTwitterのアカウントは一度消すことにしました。
また語りたくなったら語ります。そのときはよろしくね。

【追記】
Twitterのタイムラインを眺めることを辞めた瞬間語りたいことが色々湧いてきましたが、更新しても報告できないことが滅茶苦茶辛いので、アカウントは復活させました。
ただ、フォローそのままにしてると確実にタイムライン眺めちゃうので、フォローは外すことにしました。ひどく勝手な運用ですが、モチベーションキープのためよろしくお願いいたします。
【追記ここまで】

お読みいただき、ありがとうございました。
ではまた次の記事でお会いしましょう。