こんにちは、Mistirです。
最近「自由」のことばかり考えている。
……というと、哲学的命題に取り憑かれているみたいになってしまうけれど……
僕の言う「自由」は、なんというか。
もっと低レイヤーの、ある意味では「しょうもない」自由だ。
例えば、嫌な人に嫌だと言う自由。
出たくない飲み会に出ない自由。
嫌な仕事を辞める自由。
……それを、
「しょうもない話だ」
「そんな自由最初からあるだろ?」
「俺はとっくに自由だぜ!」
と。
笑い飛ばすのは「自由」だ。
だが。
「本当にそういった『低レベルな話としての自由』について、僕らは本気で向き合ってきたのか?」というと……
正直に言ってしまえば、ほとんどの人が向き合ってないんじゃないかと思う。
今こそ語ろう。
僕らの手中に収まっていなければならない、シンプルな「自由」の話を。
何故「過労死」が起こるのか
僕にとっての「自由」を議論するために、まず「過労死」のことを考えてみたい。
「嫌なら辞めればいい」。
その言葉が全くの無意味であることは、もはや語るまでもないだろう。
過労死直前の状態にまでなってしまった人は、現実的に「選択肢」を有していない。「辞める」という選択肢、判断は「除外」されてしまっているのだ。
この「選択肢を除外されている状態」なんだけれど、誰にでも起こりうる。
というか、誰しもが「実際には選択可能でかつ最適解であるような何かしらの選択肢の存在に気付いていない」状態にあるのだと思う。
僕の話をしよう。
僕は家で大事な作業をするとき、勉強をするときはずっとイヤホンで音楽を聴いている。
学生時代から「音楽など聴かず集中して勉強すべき」みたいなことを言う人はたまにいたような気がしているが、僕は音楽がないとむしろ集中できなかった。
……で。
ウチの会社で仕事してるとき。
「なんとなく」音楽を聴かずに仕事をしていた。
……何故か?
簡単な話だ。
誰も音楽を聴きながら仕事をしていないからだ。
少なくとも、僕はウチの会社で音楽を聴きながら仕事をしている人を見たことがない。
……ということに気付いて以来、僕は仕事をするとき音楽を聴きながら仕事をするようになった。
もちろん上司に「イヤホン付けて仕事していいっすか?」などと許可を得たわけじゃない。
「ま、もし誰かが文句言ってきたら『生産性2割落ちるけどいいっすか?』『それ、業務命令ですか?なら一応従いますが』って言おう」と考えている。
そして結果として、誰一人僕に文句をつける人はいなかった。
最近はすこぶる快適に仕事ができている。
こんなことなら入社1年目からずっと音楽を聴きながら仕事をしておけばよかった。
……ここで僕が言いたいことは。
「別に不自由を誰かに強いられているわけでもないのに」「気づくと自分で選択肢を絞っている」という状況が、人生には多々生じるということなのだ。
別に誰かに禁じられているわけでもないのに、勝手にその道を選んでいる。
それは大なり小なり、誰しもに生じている。
「視野狭窄に陥らないように視野を広く持ちましょうね!」みたいなしょうもない話がしたいわけではないので、ご安心の上、もう少しお付き合いください。
「過労死」の話に戻ろう。
さっき僕が話したような「何故か仕事中イヤホンで音楽を効くことを控えてしまう」と言ったような「気づかないうちに選択肢を絞られている(絞ってしまっている)」が、究極の状態に行き着いたものが「過労死」だと僕は考えている。
……極端な仮定をしてみよう。
本当に極端な仮定だけど、これは思考実験だ。
例えば。
月残業は100時間、月収は手取り15万円、病気の母親がいて収入は母親の治療代に消えていく、貯金はほぼゼロ、仕事の責任は非常に重く、今辞めると取引先にも同僚にも迷惑がかかる……
といったような状況を考えてみよう。
そこに「選択の自由」はあるのか?
誰しもが絶望的な状況だと思うだろう。
だが、ここに一つだけ石を投げ込んでみよう。
あくまでもこれは思考実験だ。
「何故母親を見捨てないのか?」
母親を見捨てさえすれば、「状況」は相当に改善する。
どこにでもよくある話に過ぎなくなる。
取りうるどんな手を使ってでも、縁を切ってしまえばいい。
……と書くと、読者の方には
「この筆者サイコパスかよ」
って思われてしまったかもしれない。
大丈夫、あくまでただの思考実験です。こういった状況の人が実際いて「母親を見捨てるのが正解です」なんてことは僕は言わない。ご安心ください。
……僕がこの話で何を言いたかったのか。
おそらく、大半の人間にとって。
「母親を見捨てる」という発想は、「普通」はサラッと出てこないってことなんです。
それは何故か。
人には情があるからです。
人には優しさがあるからです。
人には倫理観があるからです。
僕はさっきの極端な仮定に、「今辞めると取引先にも同僚にも迷惑がかかる」という条件を「目立たないように」入れた。
母親の重みに比べると、これは非常に軽く見えてしまうから、あえて入れた。
だけど、この条件は「健康な生活を送る第三者」からすると非常に軽く見え、当事者からすると非常に重く見えるものだ。
「情」はその場に潜り込む当事者にしか本質的に見えないものだから。
そろそろ僕が言いたいことを察してしまった方は多いかもしれない。
「自由」を追い求めることは。
ある場合において、「情」や「倫理感」と、相反するものなのだ。
先ほどさらっと書いたのだけれど、僕は会社で音楽を聴きながら仕事をしているとき
「ま、もし誰かが文句言ってきたら『生産性2割落ちるけどいいっすか?』『それ、業務命令ですか?なら一応従いますが』って言おう」
と考えていると言った。
……極端すぎて、
「それって逆に不自由じゃね?」とか、
「そんなこと考えるくらいなら周りに合わせたほうがいいわ」
って思う人も多いと思う。
僕は多分自由を追い求めるための「バルブ」のようなものを、常に全開でキープしておくような生き方を「意図的に」選択している。
結局、全てはバルブの調節の問題なのだ。
僕はこれまでも面倒なことは徹底的に拒否してきたが、今後さらにその生き方は激化する気がしている。
多分、他人の結婚式とか行かなくなると思う。
誰が自分勝手と言おうとも、僕は「まぁあいつだからな、来ないわな」と思ってくれる人間関係の世界で生きている方が気が楽だ。
そして、不思議な話だがそういった人間関係を普通に構築できているような気がするのだ。
それは多分、僕の運が良いのだ。
僕の生き方が正しいだなんて言うつもりはない。
自己啓発書籍でよくあるように、「周りの目を気にせず生きましょう」ってそんなしょうもないことは言うつもりなどまったくない。
だけど。
ひとつだけ。
仮に自由を追い求めるための「バルブ」のようなものがあるとするならば、誰しもが「自分の開度」を認識しておいた方が良いと思う。
あるいは「自分の開度」を認識しようと努めたほうがいいと思う。
……というのは簡単なようでめちゃくちゃ難しいが。
極めて単純化すると。
「俺は周りに気を使ってばかりだし不自由だ」と思っても。
その後に「だがこれが俺なのだ」がくっつかないといけないと思うのだ。
「俺は不自由で、かつ、これは俺じゃない」と思うのならば。
少しバルブを開いて、意図的に「本来はやっても何の問題もないのだけれど、無意識的にやっていないこと」を探してみたほうが良いかもしれない。
「そんなこと言われてもやり方がわからん!」と言われるかもしれないから、一つオススメな方法をご紹介しよう。
使い終わった銀行の通帳。
どこかにしっかりと保存している人は多いと思う。
それ、シュレッダーにかけて捨てちゃいましょう。
「どうせ使わないのに、置いてる」だけです。
人によっては火事で持ち物全てを失う人もいるのです。
過去の銀行の通帳を失って後悔する人は、個人事業主などのパターンを除けばほとんどいない。
「にもかかわらず、『念のため』保存している」。
そんな「無意味」がとことん「無意味でしかない」と認識すること。
それが大事なわけです。
この本に書かれてたことを参考にしました。
ぼくたちに、もうモノは必要ない。 - 断捨離からミニマリストへ -
- 作者: 佐々木典士
- 出版社/メーカー: ワニブックス
- 発売日: 2015/06/12
- メディア: 単行本(ソフトカバー)
- この商品を含むブログ (21件) を見る
……さて。
長々と語ったけれど、ここまでで語れたのは「自由」のほんの僅かな側面だと思っている。
まだまだごく一部に過ぎないのだ。
このテーマは、一生かかって追い求める価値のあることだと思っている。
語りきれていないけれど、「過労死」をはじめとした様々な問題を、僕は「自由」の問題の延長線上にあるものと認識している。
少なくとも僕にとっては、そうなのだ。
僕にとって全ての問題が、自由の問題である。
そう、つまり……
僕にとって自由とは「生存戦略」であり、「生きること」そのものなのだ。
だけど誰もそんなことは言わない。
「僕は生存戦略として自由を求めている」なんて言ったら笑われて終わりだろう。
……だけどそれは本来、とてもおかしいことだと思う。
だから語った。
それだけの話だ。
さて。
以下、余談です。
余談
入社一年目、業務が始まる前に会社に社外での集合研修を受けさせられた。
内容自体は別として、多少体育会系じみたところがあり、
「朝のスピーチに手を挙げないやつは社会人失格」
みたいなことを言って全員に挙手を強いたりしていた。
そのとき僕は挙手をしていた。
一生、その恥を僕は後悔し続けるだろう。
まだあの頃は僕も未熟だった。今なら何があっても挙手しない。
まだ社会人になって4年しか経っていない僕だが、確信を持って言えることがある。
社会人にとって最大の不正解は、周囲に合わせることなのだ。
僕のあの頃の行動は「不正解」だった。今なら「正解」が「選べる」。
……と、これが余談として話したいことではなく。
続きがある。
何故かその研修では、「研修所内で昼寝をしてはならない」という謎のルールがあった。
自慢ではないが、僕は午後のパフォーマンスのために昼休みは絶対に昼寝をするように決めている。
極めて不可解だった。
昼休みの行動に制約を課すなんて馬鹿げている。
だから血気盛んな僕は研修所にクレームを入れた……
わけではなく。
かといって粛々と従ったわけでもなく。
ご飯が終わったら近所の公園にでかけ、ベンチで寝るようになった。
ルールはルールだ。
「破らず従う」。
従っている以上、文句は言わせない。それが僕のスタンスだ。
もともと性格的に研修所で変に目立っていたことも手伝ったのか、研修の講師に公園で寝ている変なやつ……つまり、僕がという存在について知られたようで、呼び出されてしまった。
とはいえその講師は人間的に尊敬できる人だった。
そして僕に対しても理解を示してくれた。
その上で、こう言った。
「なんなら君のために昼寝用の部屋を手配する」と。
願ってもない申し出に、僕は明確に。
ノー、と答えた。
だってルールなのでしょう?僕は最後まで「従い」ますよ、と。
おかしいでしょう?僕は病気でも何でもない、ただただ午後の勉強効率を上げるために寝ているだけなんです。
僕だけに特別に用意するって、そんなの「不平等」でしょう。
その講師ではなく、同席していたサブ講師はこう言った。
「でも今後昼寝ができないような現場もあるよ?」
僕は答えた。
「そうでしょうね。でもここは『そんな現場』ではないはずです」と。
そして僕は研修最終日まで、雨の日以外は欠かさず公園で昼寝を続けた。
……正直なところ、直射日光で全然眠れなかったけれど。
この話にはオチがある。
研修終了後の僕に対する評価シートにはこう書かれていたのだ。
「ルールを厳守しすぎる傾向があります」と。
……そ、そうきたかぁ……!
この余談で特に何か言いたかったわけではない。
ただ、どこかで世に放っておいても良い話だろうと常々思っていたから語った、それだけのお話です。
お読み頂きありがとうございました。
ではまた次の記事でお会いしましょう。