こんにちは、Mistirです。
正直、こんなことを書いても何のメリットもない。
強いてあるとするならば、僕の思考がクリアになるだけだ。
それ以外は多分、全部がデメリットだ。
差別のことを考えたくないと、タイトルで書いた。
でも本当のことを言えば、「僕が差別主義者」なのだ。
そしてそれは一生治らないと自覚した。
だから、僕は「降りる」。
そう決めたという話だ。
こんなことを告白する意味は、何度も言うが……多分、ほとんどない。
ある日の話
急に話が変わるが、池袋で竹内涼真の写真展が開かれるらしい。
ちなみに僕は竹内涼真が何者なのかよく知らない。
大人600円らしい。
みんな、是非行こう!!!
……という話ではなく。
池袋にしょっちゅう行くのだが、しょっちゅう見かけるこのポスターを見て、ふと僕の心にこう浮かんだのだ。
「……多分僕の写真展開いたら、僕が来た人に600円払わないといけないな」と。
そして多分、お金目当てに来た人が僕の写真を燃やし始めるな、と。
ふとこんなことを思ったのだ。
【※イメージ図】
話を戻すと、竹内涼真、確かに物凄くイケメンである。
これは600円払っても眺めたがる女性の方々は極めて多いハズだ。
……と。
ここまで考えて、急にふっと「この世界が切れた」ような感覚を抱いたのだ。
一般的に言って「生まれつきの努力で変えられないものは馬鹿にしてはならない」という。
それは差別だ。
……と、いうようなツイートを最近どこかで見た気がする。
でも冷静に考えると、それって逆の価値観も根絶しないと無理じゃね?
……つまり、さ。
「イケメンや美人を見て『快』に近い感情を得る」
ことを肯定しながら、
「(自分が持つものも含めて)生まれつきの『劣った部分』に一切否定的感情を抱かない」
って、そんなことできる聖人がいるの?
と、急にそんなことを思ってしまったのだ。
賢明な読者に説明する必要はないだろうが、僕は「イケメンのポスターをこの世から消せ!」という過激派でもなければ、「扇情的な女性の写真は全て差別の温床だ!」などと主張する特攻隊でもない。
僕は美人や可愛い女の子を見て「あっ可愛いな」と「思ってしまう」、「ごく普通の男」なのだ。
竹内涼真の写真展に行くのも同じ、「ごく普通の女性」だろう。
が、それ故に多分僕は「差別主義者と何が違うのか?」と考えると……
急に分からなくなってしまったのだ。
つまるところ、差別主義者か差別主義者じゃないかって、「それを表明するか否か」ってだけじゃないの?
そしてそれは……ある程度以上確かだと思える。
例えば僕は男性にしてはかなり背が低い(160cm程度)のだけれど、割とカジュアルに馬鹿にしてくる人がいる。
もう慣れたので特に何も思わないが。
だけどそれっておかしくないか?冷静に考えて。
低身長の人間に(微塵でも悪意を込めて)「お前背が低いな」というのと、障害者に対して「この障害者!」と叫ぶのと、一体何が違うのだ?
結局のところ、世間に「認可」される差別は差別と言えない……否、差別と認識されない以上、「差別ではない」と判定されてしまうのではないか?
そう言えば以前稲田朋美氏が「我々はグッドルッキング」とか言って非難されてたけど
この非難って、
「わざわざそれを言ったことに対する非難」
なの?
それならまぁ、わからないでもない。
それとも、
「そう思っていることは別に自然」
と誰もが思っているの?
一方で、これだけテレビでも映画でもどこででも「グッドルッキング」であることに至上の価値を置いた社会通念が形成されてて、誰も(僕も) それを(冗談めかして非難する程度にしか)疑問に思わず生きてきて。
で、こういったことを「たまたま」ちょっと色々と緩い公人が言ったら、ボロクソに言う。
……なんだろう、上手く言えないけど。
急に自分のいる世界が途方もなく気持ちの悪いものに思えてきたのだ。
言うまでもない。
何よりも、こんなことを考える僕自身が、誰かにとって一番気持ち悪い存在なのだろう。
だから僕は
多分、一生「僕は差別しません」なんて言わない。
多分、してるんだと思う。
ずっとしてきたし、ずっとされてきたのだと思う。
これは極論だが、「理屈を突き詰めるなら」。
「私はブスだから……」みたいな「自虐」すらも、この理屈の上では「差別主義」になる。
……一応補足しておくと。
書けば書くほど、「差別のこと」はドツボにハマる。
差別とは、「本来劣っているわけでもないことを劣っていると判断すること」だ。
多分、大半の「不当な差別」は、その定義で説明がつく。
だが。
冷静に考えて逆に、「明確に劣っていることは、劣っていると判断して」「劣っていると突きつけて」いいのか?
そもそも「容姿が劣っている」って、なんなんだ?
はっきり言ってしまえば、それは「LGBTは劣っている」と発言することと、何の違いがあるのだ?
どっちも、ええわけがない。
ええわけがない。
ええわけがない。のだが……
ええことに、なっちまっているのである。
少なくとも後者を言うと袋叩きにされるだろうが、前者を言っても別に良いことになってる。
そんな「そうなっちまっている」世界で戦うことが、抗うことが、「差別と戦うこと」なのかもしれない。
だけど真剣に向き合えば向き合うほど、こいつはわからなくなる「怪物だ」と気付いたのが、最近のことだ。
理屈ならいくらでも語れるのだ。
「容姿の差別」は、別に行政単位で制限があるわけではない。だがLGBTは行政単位で「生きにくさ」を与えられている。
……そんなふうに、理屈ではいくらでも語れるのだ。
だが、そんなこと全部無意味だろう。
僕が語る理屈は多分、全て本質ではない。
この記事を読んで、なんのこっちゃか分からない人が大半だろう。
僕にもわからん。
とりあえず僕は、降りる。
もう判断をしない。
もうこのことについて考えることは無いだろう。
僕には考える資格がないのだ、多分。
「世の中、ヒトには生まれつき埋めがたい差がある」ことを真剣に考えるほど、「是正されるべき差別と許容されるべき区別」の差がつかなくなる。
少なくとも僕は今、深く混乱している。
その混乱は多分、この議論から降りない限り、一生続くだろう。
だから降りる。降りさせて欲しい。
お読み頂きありがとうございました。
ではまた次の記事でお会いしましょう。