こんにちは、Mistirです。
お察しの通り、かなり長い間ブログを書くモチベーションが消えていた。
書いてもあまり読まれなくなったから……というのはあるっちゃあるのだけれど、そもそもTwitterでの更新報告もやめちゃったし、もっと言えば書かなくなったから読まれなくなったわけで、これは卵が先か鶏が先かみたいな話だ。
実際のところ、仕事が忙しなかったというのが大きな理由の一つだ。
「忙しい」という表現はあまりしないようにしているが、とにかく「忙しなかった」。
どう違うのか、というとこれは僕の定義なのだが、「忙しい」と言うとどうも物理的に時間が取れないイメージになる。
「忙しない」というのは、なんというか、「ありとあらゆる種類の雑多な出来事が舞い込んできて、思考のリソースを割けない」というようなイメージだ。
ブログを書いていなかった理由は、まさに後者だ。
昔からこのブログを読んでくれていた人は、僕がフリーランスのエンジニアであることを知っている人もいるかもしれないのだけれど、最近ベンチャー企業に就職してしまい、しかもそれなりの立場になってしまったのであった。
それで、しばらく真っ当に仕事を頑張ってきたけれど……
ふと気付いた。
あまり人生やら仕事やら、あるいはブログであるような趣味でさえ……
「真に受け」ちゃダメだな、と。
「向き合う」のは、ダメだな、と。
奇をてらったことを言いたいわけじゃない。
今の世の中、もし「この世の全ての情報と真剣に向き合った」場合、どんな存在が「真っ当な大人」の基準なのか?と考えると自ずと分かる。
多分……
「日々日経新聞から情報を収集し、今後のグローバル社会のために英語など使えて当然、もちろん恋愛も経験しており、プログラミングスキルも習得済み。老後のために2000万円くらい貯金する目処があり、余暇の時間はスキルアップに費やし、コミュニケーション能力も高く、筋骨隆々体脂肪率は12%、でもオンラインサロンとかには入ってないしその代わり日本の歴史問題は熟知している(ただし思想的に偏っているのはダメ)、経済はマルクスからピケティまで完璧。その上で絵が描けたり音楽が作れたりクリエイティブ活動もできてて、承認欲求は自分で満たせて、副収入も日々得ている」みたいな……
「この世のどこにも存在していない化け物」だけが「基準」になっちまうんじゃないか。
有名なニート(今は何してんだろ?)のphaさんも、もうずっと前から言ってたことだけどさ。
「普通」とか、「こうあるべき」みたいな基準がとんでもねえことになってる。
話は変わるけど、少し前、バイクに乗り出したばかりの頃。
その頃、普通の企業の普通の社員だった僕は、閉塞感に耐えかねて色々なところを走っていた。
バイクで走る理由の一つは、「こんなところにも人生がある」ということを認識することだった。東京に住んでいると、ここだけが唯一の人生だと錯覚してしまう。
それが錯覚だときっちり認識するために、バイクに乗っていた。
実際は、「こんなところにも家があるのか!」っていうくらいの山奥にも家はあるし、驚くような場所に人の生活がある。
けれど、気付くとバイクで遠くに行くことも惰性になり、それを忘れてしまっていた。
……否、フリーランスで生きていた頃はそれを別に思い出さなくても良いほどに僕は閉塞感や周囲の押し付ける義務感から逃れられていたのだ。
一方で、また最近「僕が僕に求める基準がとんでもねえことになってるな」と、明確に自認する必要を感じ始めている。
それは周りから求められているのか、それとも自分が自分に求めているだけなのか、どちらかはよく分からないけど。
でも本当に大事なこと以外のあらゆる情報に対し、「右から左へ受け流す」くらいの「強い意志」が必要なのは間違いない気がしている。
「強い意志」っていう強い表現を使ったのは、今の世の中、「情報を集めること」よりも「情報を避けること」の方が圧倒的に難しいからだ。それには強い意志が必要だ。
受け入れることよりも、受け流すことの方が難しい。
さて、「受け流す」とはどういうことか。
例えば、僕が長野の山奥に移住して農業を始めた人間だったとする。
農業人口は減っている。若年層で農業を始めるという行為だけで尊い。そのはずだ。少なくとも僕はそう信じる。
そんな僕に、「これからは英語が必要」とか、「プログラミングスキルが重要」だとか、そういうことを言ってくるやつがいたら、「うるせーバカ」で終わりだ。
「受け流す」っていうのはそういうことだ。
「必要な情報」っていうのは、立ち位置や目標から逆算されるものだ。
「誰にとっても必要な情報」なんてものはこの世にそうそう存在していない。
仮に存在していたら、それはどこかで大体の人は身につけているはずだ。例えば「歯が傷むなら歯医者に行くべきだ」とか。
症状でググってはいけない。
けれど、腐るほど毎日湧き上がっている情報に身を委ねすぎると、「誰にとっても必要な情報」が腐るほどあるように感じてしまう。
結論、それは嘘なのである。
いや、本当かもしれないけど、多分だいたいの人にとっては嘘なのである。
誰しもが小学生の頃とか中学生の頃に「こいつ、今後生きていけるのか?」みたいな奴に出会ったと思う。だけどそういうやつほど地元で結婚して適当に真っ当な人生を送っていたりする。
そいつらに英語教材を送りつけてあげる必要は、誰にもないのだ。
情報だけじゃない。
出会う人、出会う物事、出会う仕事、出会う世界。それら全てに真正面から向き合いすぎると、どん詰まりだぜ。最近そう思うのだ。
今日は考えていることを適当に書いただけだ。誰かのためじゃない。
この記事自体、自己矛盾だ。だから読んだらその後、捨ててほしい。
NakamuraEmi「大人の言うことを聞け」Music Video
お読みいただきありがとうございました。
ではまた。