Midnight Note

明日はどこまで行こうか。どこまで行けるだろうか。

その「情報」は、僕らを幸せにしてくれるか?

こんにちは、Mistirです。

少しだけ前のお話だけど、音楽家の体罰が話題になった。
調べると幾らでも話題が出てくるから、ここでは詳しくは語らないけど、カギカッコ付きの「著名人」だとか「知識人」だとかがアレやらコレやら議論している。

なんだかもう、僕は一歩離れたくなってしまった。

 

 

その「議論」、なんの意味があるの?


僕も実は、最初は「振り回されて」しまっていた。

1.マスコミが体罰について報道

2.でも、中学生が相当おかしいのでは?

3.マスコミの印象操作では?

という流れがあったことに間違いはない。
結局、この議論に終わりはないだろうとは最初から思っていたけれど……

議論が色々と出てきた後に、ある「専門家」について書かれたこの記事を読んで、僕は気付かされてしまった。

k-yahata.hatenablog.com

 

ああ。
ほとんどの「判断」なんて、今の世の中で無駄なだけなんだ、と。

「自分の考え」を持つのはいい。
だけど、その考えは「専門家」の見識と比べたら極めてしょーもないものだったりする。
事実、上の記事を最初に読んだとき、まず自分を恥じた。
「無知なまま判断しようとしていた」自分を恥じた。

もちろん、上の記事で言われてることを盲目的に信じるつもりはない。
だけど……最初に僕が「知識もないまま」考えていたことは確かだ。

はっきりと言ってしまえば、中学生の行為は決して褒められたものではないと思っていた。
でも……上の記事を読んだあとにはそう思えなくなっていた。
そんな自分の思考の脆弱性が、嫌になってしまった。

「情報を多角的に取り入れる」と言えば聞こえはいい。
だけど、現代はあまりにも情報が「多すぎる」。
そう、あまりにも。

そもそも。
そもそも、だ。
僕らに「音楽家の体罰が正しいか」なんて、判断する必要はあるのか?
少なくとも、僕にはない。微塵もない。
ただの無駄。

だけど「判断して」しまった。
それは最早、ただの「娯楽」にすぎないのだ。

……ハッ、何が「メディア・リテラシー」だ。
ただの「娯楽」に乗っかって、勝手に自爆しているだけじゃないか。
そんな情報、本来は「要らない」のだ。

要するに。
現代の「メディア・リテラシー」って、もはや「多角的に物事を見る」なんて、一種楽観的なものじゃなくて。
「自分に必要のない情報は徹底的に無視する / 判断の対象にしない」ってことを徹底してこそ成し遂げられるものなのだ。
そうしないと、数多の脆弱な思考の奔流に飲み込まれてしまう。
無意味な思考の奔流に飲み込まれてしまう。
「みんなが踊ってるからとりあえず僕も踊ってみた」……そんなノリで、僕は生きたくはない。

情報の摂取に、強い意志を要する時代。
強い意志を持って、情報を「拒絶する」必要のある時代。

世の中の情報があまりにも多すぎることに、僕は少し疲れてしまった。
耳を塞ぎたくなっている。

だからまぁ、取りたい情報だけを摂取する。
誰から非難されようが、誰から無知と罵られようが、常識知らずと言われようが、どうでもいい。

僕は僕が幸せになりたいだけなのだ。
僕は僕が幸せであればそれでいいのだ。

さあ。問い直そう。
「その『情報』は、僕らを幸せにしてくれるか?」
もしこの記事が何一つ皆様を幸せにしないのであれば、是非とも積極的に忘れてください。

お読み頂き、ありがとうございました。
ではまた次の記事で。