Midnight Note

明日はどこまで行こうか。どこまで行けるだろうか。

『孤独のグルメ』の「孤独」に思いを馳せる

※『孤独のグルメ』原作を読んだことがある方向けに語ります。

こんにちは、Mistirです。

なかなか発売されないと思っていた『孤独のグルメ』2巻の電子版が発売されていた。

孤独のグルメ2

孤独のグルメ2

 

僕は『孤独のグルメ』という作品が大好きだ。
けれど、この2巻を買うことには非常に大きな抵抗がある。

レビューを見て。
友人の家で少し読んでみて。

なんだかこれは違うな、と強く思ったからだ。

そもそも。
ネットで愛される『孤独のグルメ』という作品には、「本質」が存在する。
タイトル通り、「孤独」であることだ。
ただ独りであるだけじゃない。
とにかく、「孤独」なのだ。

 

 

ネタにされるのは何故?

孤独のグルメは結構「ネタ扱い」されているが、それは1巻をお読み頂けるとわかるのだが、実のところその面白さは「ハードボイルドの裏返し」だ。

孤独のグルメ【新装版】 (SPA!コミックス)

孤独のグルメ【新装版】 (SPA!コミックス)

 

1巻は本物の名作だ。

……と、色々語りたくなったのだけれど。
僕がこの記事を書いたのは、僕が何かを語りたかったというよりも。

孤独のグルメ2巻に寄せられた、あるレビューを見たからなのだ。

紹介しよう。

「孤独」を忘れた井之頭五郎

なぜ「孤独のグルメ」なのか? 井之頭五郎が独身だからというだけではない。
第1巻の井之頭五郎には薄い闇があった。
誰ともくみせず、ひとり食事をするときに不意にあらわになる、うっすらとした闇。
ドヤ街を部外者として冷めた目で観察するとき。
早朝、普通の人々が職場へ急ぐころ、酒に酩酊して突っ伏す男を眺めるとき。
半身裸で男たちと野球を応援するときも、どこか冷めたうっすらとした闇がある。
焼肉で自分を溶鉱炉と表現するときだって。

そしてそれは、程度の差こそあれ、ある程度の年齢を超えた男なら誰しも抱えている闇なのだ。

それこそが孤独のグルメの「孤独」たる魅力なのに。

このレビューを見たとき。
孤独のグルメ』の本質をあまりにも深く理解した洞察と、その的確な表現力に息を呑んでしまった。

結局のところ、孤独のグルメの本質は確かに「闇」だ。
例えば有名なアームロックのシーンも、「うおォン」のシーンも、闇の中孤独に生きる男がつい本音を発してしまったからこそ「面白い」シーンなのだ。

けれど、そのシーンは独り歩きしてしまった。
そのシーン単独でも「面白い」のは間違いない。
けれど、本来は「闇を抱える男」の「謎のギャップ」こそが面白さの本質だったように想う。

「単独でも面白い」。その要素を良くも悪くも煎じ詰めているのが、ドラマ版の『孤独のグルメ』だ。

確かによくできたドラマだけど、全然「ハードボイルド」じゃない。
確かに「孤独」ではあるかもしれないが、……
漫画1巻の「濃厚な」孤独じゃなくて、「エンジョイ系独身中年男性」の「孤独」なのだ。

原作1巻の、老人が営む店を心配するゴローちゃんも、大阪のお店で自分が言葉を発することで雰囲気が変わることを恐れながら美味しさに感謝するゴローちゃんも、そこにはいない。

腹が減るたびにシュールな効果音が鳴り、「ゴロー♪ゴロー♪イッノッガシッラ♪」という謎のBGMが似合う松重豊がそこにいるだけだ。

……別に。
ドラマ版を批判する意図はない。あれはあれで面白い。
だけど、似て非なるものだと言いたいだけだ。

そして僕は、なんだか寂しくなってしまった。
今後どこにも存在しないであろう、今後どこにも続編が生まれないであろう「孤独のグルメ1巻」という作品に、妙に……本当に、妙に思いを馳せてしまったのだ。
まぁ、一種の懐古厨だ。

こんな日は飲むに限る。
ゴローちゃんは酒が飲めないが、僕は酒が飲めるのだ。
飲んで寝てしまおう。

お読み頂き、ありがとうございました。
ではまた次の記事で。