31歳。
あらゆるダメなものがダメになってきた。
下品な輩、人混み、うるさい場所、落ち着かない物事。
肌に合わないと感じていたものが、より肌に合わなくなってきている。
神経質傾向の悪化と言うべきか、もっと単純にわがままになったと言うべきか。
このままでもそれなりに生きていける、あるいは少なくとも飢えて死ぬことはない。あるいはむしろ、この「神経質さ」「わがままさ」があってこそ、ここまで生きてこれた。
ーーそういったことを分かってくるのが30代なのかもしれない。
30代になって急に金髪にしたりトリッキーなファッションに目覚める人が多いのはそういうことなのだと思う。
彼らを嗤う人もいるが、当事者になるとあまり嗤う気にはなれない。
そうやって肌に合わないものを排除しているのが今の僕の生き方だけれど……
「肌に合わないもの」との付き合い方って難しいな、っていう話をしたい。
人生のイベントは極めてシンプルである
人生のイベントは極めてざっくりと4通りに分けられる。
- 肌に合わないけれどやらなければならないこと
- 肌に合わないしやらなくていいこと
- 肌に合うしやるべきであること
- 肌に合うけれどあまりやらないほうが良いこと
比較的反論が少ないであろう範囲で具体例を出すと、1は例えば健康管理だ。
2はSNSで悲しいニュースに触れて心を痛めること。……これはもしかすると4かもしれないな。
3は藤井聡太にとっての将棋だし、大谷翔平にとっての野球だ。
もっと卑近なレベルだと愛する人との結婚もそうだろう。
4は過度の飲酒やギャンブル。
こう考えるとアホみたいにシンプルだが、見分けるのは存外馬鹿みたいに難しい。
1だと思ってたけど2だった、1だと思ってたけど3だったなんてことがザラにある。
例えば勉強は肌に合わないと思って全く頑張らなかった学生が経営で一花咲かせる、なんてことはザラにある。「肌に合わない」と思っていたのはまさにその通りだった、というわけだ。
一方、そのような学生が大人になっても何一つ頑張れず、幸せを感じられず年老いていくなんてこともザラにある。
理想にして究極の生き方は、3を完璧に見分けて3だけをずっと極めて生きていくこと。
……だが。
そんなもの。
ただの理想に過ぎない。
99%の人は「肌に合わないこと」も含めてせっせと頑張ることでようやく「肌に合うこと」が分かってくる。
30歳でようやくそのフィルタリングがいったん完了するのだと僕は思っている。
どう生きるか、の大筋が掴めてくる。
だが……
問題は、このフィルタリングは「いったん」完了するに過ぎないということだ。
ここでフィルターを過剰に働かせすぎるとどうなるか。
何もせず惰性で生きる30代の完成である。
さて、僕の話に戻る。
社会の外圧やらよくわからん「成長」やら、『君たちはどう生きるか』(吉野源三郎の方)に書かれた「人類社会に対する貢献」やら、そういったものを自分の基軸にするのは、まさしく「肌に合わない」。
けれど、全てを「肌に合わない」と切り捨て、嫌だ嫌だと世に向き合い続け、偏屈ジジイになるのは、それもまた「肌に合わない」。
板挟みである。
綺麗事を言えば「肌に合わない」などと言わず、色々なものごとに手を出し、いわゆる「コンフォートゾーン」を抜けて努力する……みたいなことを言えば良いのだろう。
が、そんな綺麗事は……当然、「肌に合わない」。
結局は肌感覚を大事にしながら、ちょっとだけ逸脱するってのを繰り返すしか無いのだろう。
仏教で言うところの「中道」だ。
肌に合うことばかりすべきじゃない(=快楽ばかり追い求めるべきじゃない)し、肌に合わないことばかりすべきじゃない(=苦行ばかりすべきじゃない)。
それ自体はシンプルだ。
自分だけで済む問題はいつもシンプルだ。
逆に言えば。難しいのは……
「自分だけでは済まない問題」だ。
家族、結婚、恋人
家族を「お前は肌に合わない」と切り捨てる。
そんなことは普通できないし、仮にできたとしてもそれは最後の手段だ。
なら恋人はどうだろう?
肌に合わない肌に合わない言ってると誰とも恋愛できないんじゃないか。
そんなことを結構考える。
「俺は二次元みたいな美少女相手じゃないと肌に合わない」とか仮に言ってたとしたらそいつはもう救いようのないアホだ。
そう言って一生二次元と添い遂げるならそれはそれで格好良いけれど。
何が言いたいかと言うと、人生のイベントについて1〜4を見分けるのはただでさえ難しいのに、恋愛のような情愛と他人が絡むイベントになると、その難しさは指数関数的に跳ね上がる、ということだ。
思うに、極端に若くして結婚している人たちは「肌に合わない」ものが少ない=許容範囲が広いか、あるいはそれすらも貫いて運命の相手と出会っちゃった人か、どちらかだろう。
前者は「合わない相手とでも(妥協して)結婚できる」などという単純な話ではなく、もう少し深い意味がある。
具体例を出すと、知り合いに「結婚したらもっとセックスできると思ってた」という理由で離婚してしまったヤツがいる。
僕は絶句した。
そこ結婚前に確認せず結婚するってあり得るのか……?
それこそ究極の「肌に合わない」じゃないか。
だが案外そういうノリで結婚しちゃうというか、「結婚できる」人はそこそこいるらしい。というよりそもそもこの「許容範囲が広い」言い換えるとある種の「鈍感力」は……
モテ要素の一つだと思っている。
簡単な話だ。
逆を考えれば分かる。
神経質なヤツは、モテない!
ドラマ『結婚できない男』の阿部寛なんかまさに神経質の権化みたいな野郎だった。
そもそも、なぜ神経質なヤツと情愛の話は相性が悪いのか。
これも簡単な話だ。
環境は変えられるが、他人は変えられないのだ。
肌に合わない部屋は改装してしまえば良い。
5兆円くらいあれば家ごと建て替えられるし、そこまでお金が無いならば家具を買い替えれば良い。
これが人相手となるとそうはいかない。
部屋を改装するノリで人は変えられない。
人が変えられないとなると、オサラバするか、自分が変わるかしかない。
そして神経質な人間は、基本的に自分を変えたくないのである。
そもそもその神経質さがあったからこそ生きていけたという側面も多分にあり、そいつを捨て去るというのは極めて難しいのだ。
これは自分が神経質だから許容できないだけなのか、それとも大体の人が許容できないことなのか。
変わるべきは自分か、それとも変わるべきでないところなのか、変わる必要はないところなのか。
人と付き合っていてそんなことばかり考えていると、もう疲れて疲れてどーしよーもなくなる。
神経質な男の離婚を描いた話として非常に面白い記事がある。
この話の結末は、この男がまさに究極の神経質だったことに起因するものだ。
ちなみに援用されている漫画は滅茶苦茶絵が美麗だし面白い。
題材が題材なだけに嫌な気分になる話が多いけど。*1
自分の神経質が発動しない範囲の、居心地の良い好みの相手を探す。
それは極めて難しいことだろう。
そんなことばかり考えていたらいずれ『タラレバ息子』になってしまいそうだ。
さて、オレたちはどう生きるか。
神経質をこじらせて偏屈ジジイになるか。
それとも神経質と付き合いながら適度にこだわりのあるナイスミドルになるか。
なんでも許容する人間に変貌するか。
3番目はなさそうなので2番目を目指すのが良さそうである。
言うは易し行うは難し……
しかしまぁ、改めて眺めると世の中は肌に合わないことばかり。
加速する世の中、肌に合うものはなかなか降ってこず、肌に合わぬものばかり突風のように肌を傷つけてくる。
あゝ、肌に合わない。
そう独り呟き、古臭い喫茶店に入り、心を鎮める。
原作の『孤独のグルメ』でゴローちゃんがメシを食いながら「俺……いったいなにやってんだろ」と思っていたときの感情は多分、これと同じなんだろうな。
お読み頂きありがとうございました。
ではまた。
*1:ハッピーエンドというか爽やかに終わる話も結構ある