Midnight Note

明日はどこまで行こうか。どこまで行けるだろうか。

30歳、燃え尽きたあとに見えたもの

燃え尽きはじわじわと心を蝕む

幸せだけど
何か足りない
オトナの悩みはタチが悪い
表向きには
だいじょうぶでも
裏を返すまでわからない

和田アキ子『REACH OUT』


最近燃え尽きていた。
30歳という節目はそういうことなのかもしれない。

去年友人が死んだ。
そのとき、僕と同じく生き延びてしまった、共通の友人に言ったことを覚えている。

この歳になったら生きるのに飽きるのは当然なんだよ。
飽きたら飽きてないフリをしなきゃいけないんだよ。
それはもう義務なんだよ。
でもあいつには、それができなかったんだよ。

この言葉は、実のところ、「あいつ」に向けられたものではなかったのだ。
何かしらに……もっと言えば生きていくということ自体に飽きかけていた、自分自身に向けたものだった。

そういったことを語った本を読んでみたり。

mistclast.hatenablog.com

Gショックにハマってみたりした。

mistclast.hatenablog.com

が、対症療法に過ぎない。

不思議なことであり当然のことでもあるのだが、「全てに飽きる」だとか「燃え尽きる」といったような精神状態は、「何にでもチャレンジできる」という前向きな精神状態を意味しない。
むしろ現状を強く守りたくなってしまう。
結果的に失うことを恐れていく。
そしてだんだんと神経質になり、自分自身を信じられなくなる。

なんだかんだ、こう生きてきたこと……例えば大学で学んだこと、選んできた職業、そういったことに後悔はないつもりだった。
けれど、本当に……
……僕の選択は間違っていなかったのか?
そういったことばかり考えるようになった。

知識量の暴力

そんな中、少し前実家に帰省し、偶然本棚に眠っていた『姑獲鳥の夏』を読んだ。

高校の頃読んだ小説だった。

社会人になってからも読み返していたはずだが、あまり強い印象が無かった。
だが今になって違う印象を得た。

まず、神経質をこじらせた頭に小説は効く。
人間は2つのことを同時に考えられないからだ。
どうやらこの作用は小説が最も顕著らしい。YouTubeやら読みやすいビジネス書やら、そういったものを読んでいてもこの作用はない。おそらくそういったものを観たり読んだりしているとき、あまり本格的に脳が言語を処理していないため、自分自身の声を抑えきれないからだろう。

そしてもう一つ。こちらの方がより重要なのだが……
「高校の頃こんなもん読んでたら、『こんな生き方』になってもしゃーないわな」という、前向きな諦めのような感情を得るようになった。
「こんな生き方」とはどんな生き方か。
一言で言えば、知的好奇心だけを絶対的価値に置くような生き方である。

これに関しては『姑獲鳥の夏』を読んでもらうしかないのだが、京極夏彦という作家は知識量の暴力で襲いかかってくる。
民俗学的知識やら、脳科学に関する知識。
社会的成功であるとか資本主義的成功に迫られて得た知識ではなさそうだ。
にも関わらず、とにかくヤケクソじみた知識量である。
そしてミステリー部分は相当強引な部分もあるのだが、圧倒的知識量の暴力で押し切られてしまう。

そして僕に何らかの妖怪が取り憑いたらしい。

高校の頃……「あの頃」、社会的に有益な仕事なんかクソだとなんとなく思っていた。
なんだか京極夏彦という作者だとか、彼が創り出す世界そのものというか、空気感そのものに強い憧れを抱いてしまったのだ。
そして文系に進み、文学部に入った……というと少しストーリーを作りすぎていて真実ではないのだが、それでも、「あの頃」、いわゆる「文系的アカデミズム」に引き込まれてしまった理由は、京極夏彦含めあらゆる小説を読んだことが基盤にあることは間違いない。
変な話だが、そんなことについて、ここのところすっかり忘れていた。

書を捨てよ

そしてもう一つ。
ここからが重要な話である。

社会人になってから色んな場所をバイクで走ってきたわけだが、その時期は自分にとって、いわゆる「書を捨てた」時期で、どうしても必要な経験だったのかな、と認識できるようになった。
歴史やら人の営みに実感を持てるようになった。

例えば日本最後の内戦である戊辰戦争では会津(福島)と長州(山口)が戦ったわけだが、実際にバイクで福島と山口に行ってみると、「こんなん外国に等しいよなぁ」という感覚がよく分かる。
そして参勤交代というシステムの滅茶苦茶さと合理性に「怖ッ」となるまでセットである。
端的に言えば「知識の実感」である。
そしてこの「知識の実感」は、大人の学習にとって著しく重要であることに薄々気付いていた。
だが、より立体的に『姑獲鳥の夏』を今読んで「あの頃」よりも実感を伴って理解できたことで、「(比喩的な意味も含めて)書を捨てたこの時間は必要だったんだ」と実感できたのである。

ところで話が変わるが……

僕はだいぶ勉強がデキる方の高校生だった。
にも関わらず、何も理解していなかったという実感がある。
どういうことか?

例えば以下の問題を見て欲しい。

f(x) = x + 2のとき、f(3)の値を求めよ

多分、センスがあれば小学生、それも低学年ですら解ける問題だ。
だが、

なぜ5になるのか、そもそもf(x)とは何か(x + 2 以外で)

と考えていくと、大人でも難しいのではないか。

まず、f(x)とは関数である。

ja.wikipedia.org

関数とは数の集合に値をとる写像の一種であるらしい。
さっぱりわからん。
さすがにこのレベルで語るのは無理なので、ここに書いてあるようなライプニッツの定義レベルで言えれば大きな間違いではないだろう。

ある変数に依存して決まる値あるいはその対応を表す式

これも厳密に考えると以外と難しい*1のだが、とにかくf(x)はxという変数に依存して、何らかの値を結果として与える式を定義したものであると言えるだろう。
ここではその式はx + 2であり、x = 3のとき、5という値を結果として与えるわけだ。

……といった目的が見えない話をしてしまったわけだが、先程僕はこう言った。

センスがあれば小学生、それも低学年ですら解ける問題だ。

そう。
試験というやつは、「実感」なんてものが皆無でも、ある程度センスでどうにかなっちゃうのである。

その10%, 20%でも「実感を伴う理解」で解けているやつは、本当に強い。
だけど高校生レベルで色々なものごとに「実感」を持って立ち向かえているような頭脳を持った学生は、難関大学レベルでもそういないのではないか、と今は思う。

そして「勉強ができる方」だった僕が「実感」を得ていたか否か、それはもう自明だろう。色々なものを良くも悪くもセンス、あるいはセンスのようなものだけで乗り切ってきたような気がしている。

だが今、色々な経験を経て、「実感」が蓄積されてきた。
それは大人の「学習」にとって大事、というだけでなく……
なるべく飽きないためにも重要なのではないか、と思うのだ。
人生だとか、そういったことに。

書に帰れ

センスだけで知識を詰め込んでも、いずれ飽きる。
そこには感動が伴わないからだ。
けれど感動しろ、って言われたって簡単にできるもんじゃない。
そんなこと言うやつがいたら、そいつは感動を知らないやつだ。

だから人生のどこかで、ごく一部の天才以外は、書をブン投げて実感を得るためのタネを集める必要があるのだと思う。
バイクでも旅でも何でも良い。
そして必ずどこかで燃え尽きる。

燃えカスになったあと、何かが自分を救ってくれるとしたら、「センス」だけで見ていた頃はただの文字列に過ぎなかった、あらゆる「知」なのだと思う。
そいつらが教えてくれる。

飽きるにはまだ、少し早いぞ、と。

この歳になったら生きるのに飽きるのは当然なんだよ。
飽きたら飽きてないフリをしなきゃいけないんだよ。

この考え方は、今でも変わっていない。
結局どこかで「飽きていないフリ」は必要だ。

けれどその手段を今は得た気がする。

「まだ実感を得てないだけだよ」と。
「そのタネを得ていないだけだよ」と。
「知」が囁く。
実感を、あるいはそのタネをもし得たならば、何かしらの感動が得られるかもしれない。

そして感動があるならば、人は生きていける。
はずだ。

……最近、こんなことばかり考えていた。
これはもはや思想というより願望である。

それでもまぁ、知識欲に引きずられて、何も選びきらずここまで来た自分を、少しは肯定できるような気がしたのだ。

今の世の中、「何かを選び切った」……いわゆる「成功者に見える」人たちが目立ちすぎる。
でも「何かを選び切る」ということは、「何かを選ばない」ことなのだ。

「何かを選ばない」ことは、僕には難しすぎる。
僕にとって、この世はまだ実感を得られないことばかりなのだから。
実感を得ること自体が目的なら、僕は何も選べない。

だがまぁ、それでもいいかという気がしている。今のところ。

なお、Gショックについては「100グラムを越えたあたりから腕時計は思考のリソースを奪い始める」という事実に気付き、売却を予定している。
なかなか高い勉強代だった……
これもまた「実感」ではある。

ではまた。

*1:「その」とは何を指すだろうか?