Midnight Note

明日はどこまで行こうか。どこまで行けるだろうか。

「あっち」と「こっち」

こんにちは、Mistirです。

ずっと考えていることがある。

僕はなぜここにいるのだろう?
……と言うと詩的だけど、今日語りたいのはもう少し具体的なことだ。

ピエール瀧が逮捕された。
なんかヤクをやっていたらしい。

マスコミは安全な立ち位置からボロクソに叩く。
Twitterもそうだ。
まぁそうだろう。当然だ。

「うん、辛かったんだね。ヤクくらいやっちゃうよね」
そう言うくらいなら、ボロクソに叩いておいたほうが安全だ。

だが、僕はなんというか。
僕が今ヤクをやっていないのは、ただの「偶然」だと思うのだ。

堂々とピエール瀧のことをボロクソ叩ける人は、よほど高潔な精神なんだろうなーと、……なんだか……それこそ。
「あっち側」の世界の人間を見ているような気がしてくる。
自分の世界に属していない、別世界の存在。
なんで君らは、安全な立ち位置から、上から目線で、決して殴り返してこない、「絶対的な悪」を、安心して、叩けるんだ?
自分は絶対に「そっち」に行かないという自負?誇り?
羨ましい、生きるのがとても楽そうだ。

あと、新井浩文も同じ。

「冷静に」語るなら、僕は新井浩文のようなことは絶対にしないだろう。
しない。

……本当に?本当に、か?

客観的に見れば、そこらへんの人が到底たどり着けないような成功を積んでた新井浩文がああいうことやっちゃったんだぜ?
なんで酒飲みながらバイクについて考えることがせいぜいのお前が「絶対に」なんて言葉を使える?
お前は、結局何も分かっていないだろう?

……この話にあまり深入りしたくはないから、これくらいにしておく。

僕が今語りたい「あっち」と「こっち」の差は、「罪を(とにかく何らかの理由で)犯してしまった人」と、「罪を(偶然)犯していない」人のことだけの話じゃない。
例えば、「たまたま、死んでしまった人」と、たまたま「生きている自分」。
そういったことについて、つい考え込んでしまう。

その文脈における「あっち」と「こっち」を隔てる「原因」「理由」を、「こっち」にいながら断言するヤツが、僕は嫌いだ。
多分、そういった価値観は今まで読んだ本がきっかけで醸成されているんだろうと思う。

僕が人生で一番読み返している『ネガティブハッピー・チェーンソーエッヂ』の一節。

 

ネガティブハッピー・チェーンソーエッヂ (角川文庫)

ネガティブハッピー・チェーンソーエッヂ (角川文庫)

 

 

 ──焦ってしまう。
 だが、しかし。本当の問題は、そんなところには、ない。
 オレは、それを、知っている。
 授業がつまらないとか、勉強がめんどくさいとか、今夜は加藤の下宿訪問だとか、そーゆーことは、あくまで皮相的な問題にすぎなくて、オレたちの根本的な問題は、もっと他のところにあるのだった。
 ──たとえば、そう。
 真夜中にバイクを暴走させて、それで事故って、あたら若い命を散らしてしまったヤツがいたとしよう。
 彼はいったい、なぜ、そのような行動をとってしまったのか。
 なぜ彼は、あまりにも危険な、雪道深夜のバイク暴走などといったことを、若さに任せてやってしまったのか。
 聞くところによると、ヘルメットも被らず、この先に急カーブがあると知りつつ、それでも彼は、スピードを落とさなかったそうだ。そんなの、まるで自殺だ。
 ──いったい何が、彼をそうさせたのか。
 彼が死んだのは、なぜか?
 なぜなのか?
 おそらくは、やはり、勉強がイヤだとか、期末が近いとか、そーゆーことが原因なのじゃあないと思う。いや、原因の一部ではあったかもしれないが、もっと、こう、他にも深い原因があったことなのだろうと、オレは思う。
 しかし、だがしかし、深い原因というものは、それはやっぱり深いだけあって、そうそう簡単には発見できないものである。そうそう簡単には説明できないものなのである。
 だからオレたちは敢えて何も語らず、ひたすらに曖昧な笑みを浮かべておく。わからないことは、何も言わないでおく方が良い。そうに決まってる。
 それなのに──「家庭環境が酷かったらしいぜ」とか「昔から変だったみたいよ」とか、そんな知った風なことを言うヤツは、このオレのパワー溢れる一脚打撃で、あっさり昇天、させてやりたい。一カ月前の事故をいまさらネタにして、おもしろおかしく世間話するヤツは、一撃必殺、してやりたい。
 そう思う。
 思うのだが、いまは学食で昼飯を食っているところなので、手元に一脚がない。それに、一脚で頭を殴ったりしたら殺人罪になってしまうので、やっぱりオレは、そんなことはしない。
 ただ、じっくりと、じっとりと、睨みつけてやるだけである。

滝本 竜彦. 角川書店

なんか書きたいことや言いたいことはいろいろあったのだけれど、この引用だけで全部言いきった気がしてきた。
もういいや。
あと「あっち」と「こっち」を描いたもので思い浮かぶのはアニメ『シゴフミ』の第三話と、京極夏彦の『魍魎の匣』かな。

……まぁ、少しだけ追加で話をするなら。

多分、「何かを間違っても」、僕は決して養護施設で入居者を虐殺したようなヤツのような行動はしないし、小学校に侵入して児童を虐殺したヤツのようなことはしないだろう。
だが、それはここまで書いたことと矛盾しないか?

結論を言うと、程度を考慮しないのなら、矛盾しているのだ。

だが、この問題はまさしく「程度」の問題なのだと思う。

先程挙げた『魍魎の匣』がまさにこのテーマを扱っているのだけれど、本当に「チャンス」が与えられたとき……僕らは、本当に「高潔」でいられるか?


例えば、絶対的に信頼している人に、絶対にバレないようにお膳立てされた上で、薬物を勧められたら。
「そもそもそんな機会はあり得ない」って断言するのは、ただの思考停止だ。

もしそんな機会があったら。
僕はどういった選択を取るか、正直さっぱりわからない。
だから、とにかく「そんな機会がそもそも生まれないように」日頃から生きるしかない。

……でも。
何故かしら、「そんな機会」に出会ってしまった人のことを……
僕は叩く気持ちにはなれない。ならない。

だが、意思を持って10人殺した人間のことも同じく叩く気にならないのか?
それは……僕には無理だ。

結論を言えば、多分僕は「ああなっていたかもしれない」「ああなれるかもしれない」と思う、そんな傾向が良くも悪くも強いのだと思う。
その閾値が、人よりちょっと広いのだろう。

ややこしい話をしたが、結局はその程度の話だ。
だからこの記事のことは、ただの自己紹介と思って読んでいただければそれでいい。
それで、いいんです。

お読みいただきありがとうございました。
ではまた次の記事でお会いしましょう。