こんにちは、Mistirです。
約2ヶ月前にTwitterをやめた。
これまでは「やめた」と言いつつ、なんやかんやアカウントは消さずに残していて、忘れた頃にしれっと戻ってくるということが多かったが、今回は完全にアカウントも消滅してしまった。
フォロワーさんは2000人近くいた。
もったいないという気持ちは正直あった。
それでもなお、やめることのメリットがTwitterを続けることのメリットを上回った、ということだ。
最大の変化
おそらく最大の変化が、有象無象が良くも悪くもどうでもよくなったことである。
もともとどうでもよかったのだが、なおさらどうでもよくなった。
個人的にTwitterの最大のデメリットが「この世のあらゆる不幸と不条理と不満が流れ込んでくる」ことだと思っていた。
そしてその認識は今も変わらない。
Twitterにおける「拡散される『問題』」は9割「不幸と不条理と不満」で出来上がっている。
……というのはさすがに極端かもしれないけれど、そういった要素のあるモノの方が圧倒的に拡散力があったのは間違いない。
あるいは、本当にどうでもいいこと。
比喩でもなんでもなく読んで10秒後に忘れているようなことばかりだった。
そんな有象無象に。なんだか、疲れてしまったのだ。
ちょっと昔は、さ。
僕だって思ってたよ。昔は。
例えば「アイツは残業してエラい」的なこと言ったかつて勤めていた会社の上の方の人に、「もっと勉強しろよ……」と思っていた。
言い換えると「Twitterくらい見ろよ」と正直思っていた。
さらに言い換えると、「Twitterでそれを言えばどうなるか」が一種の判断基準になっていた。
未だにそれは、必ずしも間違っている考え方とは言えないと思っている。
この表現が適切かどうかは別にして、自分が認識している範囲では、Twitterでの議論は「先鋭化された正当性がさらに濃縮されたような」ものばかりだった。
そして、他ならぬ僕自身もそれに加担してきたのだ。
自己言及的ではあるけれど、この記事もその一種であると言えなくもない。
何かを誰かに、特に大勢に向けて語るというのは、そういう性質をどうしても帯びる。それは仕方がないことだ。
それに、さっき述べたようにメタ視点として「これをTwitterで呟くとどうなる?」っていう発想は未だにアリだと思う。
でも、それは「全て」じゃない。
……少し議論が入り組んでしまったけれど……
もっと単純に言おうか。
思考の基準を「Twitterに決められている」というのは、間違っていると思う。
ある種それは、現代における「共同幻想」に従っているのと同じだったのかもしれない。
無宗教者であるが故に比較的輪郭の明確な「何か」に従っている、というような。
冒頭で、Twitterをやめたことによる最大の変化は「有象無象がどうでも良くなった」ことだと言った。
それは曖昧な「共同幻想に対する従属的意識」が消えた、ということでもある。
自分が従うべきものは、自分と、自分が愛するものだけだ。そうじゃないと生きててもったいないじゃないか。
Twitterをやめるべき人、やめなくて良い人
僕は明確に「Twitterをやめるべき人」だったのだと思う。
僕は自分が「芯の強い人間」だとは思っていなくて、むしろ「思い込む」ことで、あるいは「信じ切る」ことで自分の形を変えていくタイプの人間だと思っている。
要するに、影響されやすいのだ。
影響されやすいタイプは、Twitterやっちゃダメだ。
この世の中は、何か恐ろしく不条理でひどいところだと思っちゃうから。
「そこまで思ってねえよ!」って言う人がほとんどだと思う。
だけど何かを信じているとき、何かを信じている自分を客観的に見るのはとても難しい。無意識的に刷り込まれていないと言えるだろうか?
この世のあらゆる理不尽に「切れ味鋭い140文字」で切り込んでくれるTwitterに、無意識のうちに心の安寧を求めていなかっただろうか?
正しい。でも、それは僕の救いじゃない。
僕を笑う人は笑ってほしい。
僕を笑えない人は、Twitterから離れてみても良いかもしれない。
要するに、僕と同じタイプの人はSNSから離れたほうが良いんじゃないかと今は思っている。
万人がTwitterをやめるべきだとは思わない。
SNSは有害だ、という二元論的な世界観で僕は生きたくない。
ただ……やっぱり。
もう一度、確認する。
自分が従うべきものは、自分と、自分が愛するものだけだ。そうじゃないと生きててもったいないじゃないか。
発信について
で。
そんなこんなで、「発信すること」もしばらくどうでも良くなっていた。実のところそれは未だに変わらない。
だけど年末のやるせなさが、不安が、僕にこの文章を書かせた。
それはどこからやってきたものなのかよく分からない。
書くことに意味はないのかもしれない。
だけど漠然とした不安は、これまた「意味はないのかもしれない」ような漠然とした行為でしか解消できない。
の、かもしれない。
忘れた頃にまたお会いしましょう。
お読み頂きありがとうございました。