↑の記事がちまちまと読まれている。
自分としても思い入れのある文章だったのでありがたい限りだ。
「変わったアナタを誰に見せたい?」
あからさまに見くびったやつ あいつらにだ!
名曲『林檎もぎれビーム!』のこの歌詞を、高校生の頃から何度も何度も反芻し、そしてここまで生きてきた。
ある日のこと
会社員だった頃、ある先輩社員が僕に言った。
「お前、目標はあるのか」と。
なかなかに露骨なマウントだったのだが、「まぁ、資格とか目指して頑張ってますよ」と答えた。鼻で笑われた。
僕は腹が立ったので「会社がビジョンやら分かりやすい個人の目標を示すわけでもない、だから自分は自分なりに明確で分かりやすい目標を描いて努力している、それをバカにする権利がどこにあるんです?」
的な反論をした。
変な空気になった。
そして今、僕はその会社から独立し、個人事業主としてそれなりに稼げている。
当時の会社の規模とその人の年齢を考えると、おそらく現在の彼よりも遥かに稼いでいるだろう。
僕は。
心底。
愉快で仕方がない。
最ッ高に良い気分だ。
ああ、どんな気持ちなのだろう。
自分がマウント取った相手が、自分よりも短時間の労働で、圧倒的に稼いでいるという事実は。
聞いてみたい。
ねえねえどんな気持ち?
……と、こういった愉悦はあるのだが。
主体的には特にやりたいことも明確にならないまま、この歳まで生き延びてしまった。
死ぬのが怖かったから生き延びてしまった。
バイクは好きだった。
だけどそれはビールを飲むのが好きなのとそう変わらない。
日々を洗い流してくれるものではあるが、日々そのものではない。
起業家に会うこともそれなりにあるのだが、心底彼らが理解できない。
「やりたいこと」がある人のことが心底分からないのだ。
……いや、わかろうとはする。
憧れもするし嫉妬のような感情も抱く。
でも、分かりきらない。
噛み合わない。
彼らは僕にマウントを取ってくるわけではない。
だから憎めないし、彼らを打ち負かして愉悦を得ることもできない。
困った。
どうも僕にとって(少なくともビジネス上の)世界は「あからさまに見くびったやつ」か、それ以外でしか存在しないのかもしれない。
「あからさまに見くびったやつ」以外の方向を、まるで向いていない。
もちろん尊敬できる人はいる。
だけどおそらく根本的に興味がない。
そもそも。
「あからさまに見くびったやつ」が、絶対的あるいは相対的に転落しているのは確かにこれ以上なく楽しい、だけど……
……これだけじゃ、生きててちょっとしんどいよなぁ。
価値観の拡張
そもそも、「あからさまに見くびったやつ」なんて、あと僕が50年も生きればだいたいこの世から消えるのだ。
仮に僕が個人事業主ではなく会社に残る選択をしていたとしても、定年を迎える頃には全員消えていただろう。
結局はその程度の話なのだ。
放っといたら消える。
あるいは向こうが消えなくても、こっちが消えれば良い。
……だから僕は二回も独立している。
いつの間にか消えてることもある。
風の噂に聞いたが、記憶に残っている、ある嫌な小学校の同級生は、その後大層酷い目に合ったらしい。
……その噂の詳細は色々な意味でここには書けないが。
ちょっとだけざまあみろと思わないでもないが、「どうでもいいな」が8割、「大変だなぁ」が2割だ。同情すら生まれてしまったわけだ。
まあ、とにかく。
結局、「あからさまに見くびったやつ」らの方向ばかり向いてても、あまり幸せにはなれなそうだ、とこの歳にしてようやく気づいた。
だから、少しだけ価値観を拡張することにした。
「あからさまに見くびったあいつら」とは誰だ?
この社会そのものだ。
だからその社会に抵抗する。
これを僕は「自由」と呼ぶ。
僕は徹底した自由主義者になる。
抑圧への抵抗
成長という言葉が嫌いだ。
恨んでいると言ってもいい。
ピアノが弾けない人が一念発起し、ショパンを弾けるようになる。
これは素晴らしい。
別にこの「成長」が嫌いなわけじゃない。
僕が嫌いなのは、社会的要請に適した人格的態度になることを「成長」という言葉でまとめてしまう暴力性だ。
「圧倒的成長」という言葉から漂う臭気は概ねここに起因する。
僕はそいつに抗う。
徹底して抗う。
それが僕の人生を賭けた態度だ。
ビジネス上の正論に。
理不尽に。
徹底的に抗う。
抗って抗って最も自由な存在になって、自由なんていらない、っていうくらい自由になって、その後は……
自由を誰かに再分配しよう。
自由のトリクルダウンだ。
……最近、そんな空想をしていた。
まだもう少し、問い続けることになりそうだ。
「変わったあなたを誰に見せたい?」
敵がいなくなったなら、探せばいい。
どうせここまで来たら普通の意味合いでは「やりたいこと」は見つからないのだから。