Midnight Note

明日はどこまで行こうか。どこまで行けるだろうか。

これまでの記事へのコメントにご返信します(2015/11/19)

どうも、Mistirです。
このブログは対話型ブログなので、これまでのコメントに返信しますね。

……遅い、ですって?
実はですね……コメントへの返信って、結構頭使うんです。
ってことでゆっくりマイペースで行きますね。

ただ……ブレンディの記事に、まだ返信してないコメントが結構ありますが……諦めさせてください。
なんというか、時間が空きすぎました。他のコメントも結構溜まっていますので。
ただ、全部お読みしておりますのでそこはご安心ください。
また、「これだけは!」というご意見あれば、この記事またはTwitterでお願いします。随時ご質問等は受け付けておりますので。

あと、この記事は返信どころじゃないので……本文に書いてあるとおり、ご質問ある方は直接Twitterでお願いしますね。逃げてるって言われたりしましたが僕は逃げも隠れもしませんから

さて、ひとつひとついきましょー!

mistclast.hatenablog.com

この記事へのコメントです。

 ぺしみ

いかなる物語にも「ステロタイプ」というものが存在しますが、それを支えるのはお決まりの道を辿るストーリーそのものよりむしろ、そのお話が展開される舞台(場所)であることが多いような気がします。自分がいつか何らかの物語の主人公になるんじゃないか、というよりなりたいと希っている人々は特に舞台に執心するのかもしれませんね。
 いつの間にか主人公になる資格を剥奪されていたことに気付き、茫然としているのかなぁ……と。そうしていつか"大切なものを手放すことになって半ば虚脱状態になりながら夜の繁華街で飲み明かすキャラクターになる”夢を見ているのではないでしょうか。

ぺしみさん!
伊藤計劃を伊藤ライフって勝手に呼んで、伊東ライフを故人にしたぺしみさんじゃないですか!

その結果伊東ライフ本人に補足されたぺしみさんじゃないですか!

 というかしょっちゅう酒に酔ってスカイプで絡んでるぺしみさんじゃないですか!

僕が!


……身内ネタですみません。
さて、マジメに返信します。

いやー、さすが鋭いっすね。
無駄に(煽り)

実際その通りで、多分キャラクター的な自分自身を僕は凄い意識してて。そこから逃れる方向に行くのか、それとも……っていう瀬戸際ですね、今。
色々希望も絶望も見えてきたんですけどねぇ……そろそろ新しい段階に進まなきゃかもしれません。
今後ともよろしくね。

では次の記事です。

mistclast.hatenablog.com

 服部豆蔵 

各人によって”正義”の価値基準が違うから、この手の話題は難しいですよね;;

コメントありがとうございます。
そうなんすよね。 初期地点が違うから難しいんすよね。一応、この記事ではそこーー初期地点をリセットすることも意識してました。

 jagabee

こんにちは、はじめまして。
ブログのアカウント作って半年未だ放置のjagabeeと申します。
ブログをちょくちょく拝読し、
共感度が高い記事が多くていつも震えています…( +・`ー・´)

今回は記事を読んでボクの色んな思考や煩悩や納得がリンクしたので、ついに初コメントをば、です。

いやー、街中で募金を見かける度に
「偽善てなんぞや」
「要するに何が問題ぞや」って悶々としてました。

それで
募金をした場合の違和感と
しなかった場合の違和感とで色々想定してみたら、概ねMirtirさんと同じ感じの結論に至ったわけなんです。
(内的偽善と外的偽善の表現はドンピシャでした!)

それを踏まえ、
気づいたことがありました。

募金活動にたいして

a.偽善を嫌う精神

"あっこいつ、いい子ぶりやがって、面白くもないくせに….腹立つわぁ"

っていうことなら

そこに

b.優越感、自己陶酔を見せられることへの嫌悪、怒り…

"俺を差し置いて前にでるんじゃねえ"的な

いわゆる

寄り根源的な不快感

みたいなものも含まれているんじゃないでしょうか?

そこで、ひとつの疑問が浮かびます。

a.偽善を嫌う精神に
b.の根源的な感情が含まれている状態
(a+bの状態)

なら
お互い同系統の"感情"として個別に分けることができる
(つまりは口論になっても、炎上しても沈静化しやすいといいますか…)

けれども

a.偽善を嫌う精神が
b.の根源的な感情から派生した精神の場合(b>aの場合)

どうでしょう?
結構厄介なパターンではありませんか?

派生しても時間が経てば独自の感情として成り立つこともあるとは思いますが

派生後まもなく、自覚もなかったら、個別に分けようがない。

あくまでこの2パターンの場合と仮定しても、一見して"同じ感覚を持つ人"として一括りにされてしまいそうな印象をうけるのです。

判断されるとそれに引っ張られる群衆の傾向を何度も経験してきたボクにとっては、

前者の
"こいつムカつくな…「ムカつく」カタカタ…よし、風呂入ろう"

なタイプの人が

後者の
"こいつムカつくな…「○○○(放送禁止用語)」…まだ言い足りへん…カタカタカタ"

なタイプのバージョンに取り込まれてしまう事が残念で…

何が言いたいのかというと、「募金活動」というテーマひとつ取っても"人って流されるんだなぁ"と思った次第で…
今度そこらへんの意見も是非お願いします!

ご感想ありがとうございます!
と、結構……難しいですね。

気になったのですが

a.偽善を嫌う精神

"あっこいつ、いい子ぶりやがって、面白くもないくせに….腹立つわぁ"

っていうことなら

そこに

b.優越感、自己陶酔を見せられることへの嫌悪、怒り…

"俺を差し置いて前にでるんじゃねえ"的な

いわゆる

寄り根源的な不快感

みたいなものも含まれているんじゃないでしょうか?

ここ……分けられるんですかね、この2つ。
不可分だと思うんですよ、この2つ。

というのも、多分……偽善に対する嫌悪感があるとするならば、まず嫌悪感があって、そこにみんな理屈をあとからくっつけてると思うんです。 
僕の中での前提がそこにあるから、迂闊に同意できないんですよね。
というか、僕は偽善を嫌う精神が即ちbだと思うんですよ。「いい子ぶってる」ことに腹立つのは、前に出てることに腹が立つのと同じ。
厳密に分けることは出来るかもですが……僕の直感には反してて。
だから、もしかすると懸念されてらっしゃる

あくまでこの2パターンの場合と仮定しても、一見して"同じ感覚を持つ人"として一括りにされてしまいそうな印象をうけるのです。 

ここ。まさに僕が「ひとくくりに」しているのかもしれませんね。
また、

前者の
"こいつムカつくな…「ムカつく」カタカタ…よし、風呂入ろう"

なタイプの人が

後者の
"こいつムカつくな…「○○○(放送禁止用語)」…まだ言い足りへん…カタカタカタ"

なタイプのバージョンに取り込まれてしまう事が残念で…

僕はこの2つの違いがいまいちピンと来ません。
ということで、またこの件で僕が取り違いをしているということであればまた教えていただければ幸いです。ツイッターでも何でも。ブログを教えていただければ読みますよ。

では、次のご感想です。

 w__dw__d

初めまして。少し前から、考えや意見のあまりの近さに驚きつつ、ROMしていました。
普段から特筆したいほどに同意できるのですが、今回特に飛びつきたくなった部分(この記事の本筋からは若干逸れてしまいますが...お許し下さい。)があったので、ついコメントしてみたくなりました。

"ついでに言えば、「風が吹けば桶屋が儲かるメソッド」を適用すればもっともっと語れてしまう。どういうことか。
「やらない善よりやる偽善だ!」と言ったこの人が
救った人たちが超覚醒を遂げて、1億人規模の大虐殺をしてしまうかもしれない。
もちろんこれは極論だけど、極論を考えることは非常に思考の整理に役立つ。"

私が思想や哲学に関する文章をあまり読まないこともあり、これまでこうした考えをきちんと外に見つけたことがほとんどなく、驚きました。
(一人でひねくれて考えることはあっても、思想や哲学の分野について専門的なことは殆ど知らないため、以下浅薄な部分があるかと思われます。)
私もつくづく、私達はは因果関係が近いほどよく認識し、因果関係が遠いほどだんだん認識できなくなること、故に因果関係が遠いほど善悪の追求も及ばなくなっていくこと、それによって善悪の考察が非常に困難となることを感じています。
非情なまでに理性の上澄みだけを用いて考えると、どう思考(実験("極論を考えること"でもありますね))してもすぐに純粋なニヒリズム(否定しようがない)に辿り着きます。ただ無意味の土台に立たされている、そんな感じです。そこには意味や答えがお膳立てされている訳ではないのだから、いくら考えてもキリがなくて(というか追及する意味すらなくて)当然だ、と少し(本能的に見て)ズルい解決(?)ができてしまいます。
しかし私も当然ながら全体としては本能的な人間で、日常的には本能からの圧を受けて、ニヒリズム程の根本的な階層が頭の中を支配することはありません。(あくまで頭の片隅(理性の上澄み)にあるだけ)
そもそも普段のMistirさんの記事に同意できることだって、本能からの圧により、頭の中が全体的に少なくともニヒリズムの階層よりは下りて(あるいは上って?)きているからこそのことです。
どれだけニヒリズムの階層から本能的な方に下りて(上って)きているか、それが人によっても場合によっても異なることは、時に相互理解(ここでは共感というよりは相手の存在をを認め最低限理性的に尊重することとでも言ったら良いでしょうか)ができないことや時に自分の意見の整合性がとれないことの一因になっている、そう感じています。(もちろん同程度の階層での相互不理解や不整合性も多く占めているでしょう。これは直観でしかないのですが、本能的な階層からニヒリズム的な階層に近づくほど同程度の階層での相互不理解や不整合性は起きにくいと思っています。(とはいえ頭の中をニヒリズムだけが完全に占める(本能的な人間がそうなれるのかは分かりませんが)ほど上り(下り)詰めてしまえば当然ながらそもそも尊重なんて概念自体消し飛んでしまいますね))
どうしたらより相互理解が広くなされるだろうか、でもそれがなされたところで人の世がより良くなるのだろうか(私は本能的にはそのほうが良くなると感じますし、それを望みます)、人格や考えの(残酷と言っていい程の)多様性がある以上どこかであるいは満遍なく歪みが出るのだろうな、そもそも正解が用意されているわけでもないんだからより良い方にすり寄せるしかないんだろうな、ところで生まれてくる人間の人格を完全に操作できるようになったとしたら(これも極論です)相互不理解による配慮の無さや争いがなるべく生じない範囲の人格だけの人間が生まれるようにすることは良いことなのだろうか(人格の多様性は守るべきなのだろうか)、ああそういえばそもそもニヒリズムの階層では何もかも無意味だな、良いもクソもないじゃないか、
と言った具合でぐちゃぐちゃになってしまいます。
結局その辺りはぐちゃぐちゃとしたまま、無意味の土台に立たされているだけなんだし、本能(大分広義?な使い方をしているかもしれません、言ってしまえば純粋なニヒリズムを経ない考えや衝動全般です)のやりたいようにやればいいか、みんなに本能があるからそれなりの秩序(数の弱肉強食とも言える(極論、人を殺したい耐え難い衝動を持つ個体として生まれてきてしまった人間は多くの社会においていずれ(大多数の人間のために)排除されることがいい例でしょうか(それはそうと私たちは私達のために殺生した食材にはいただきますしますが私達のために排除した人間にはいただきますしませんね(完全に寄り道です))))が存在しているし、うまい具合になんとか適当にそこに乗って自分の本能を満たしていくとするか、そんな感じの仮の結論(?)で過ごしています。例えばなるべく人を傷つけたくない、(本能的に)善いことをしたい、というのは、生命維持や単純な快楽といった原始的な部分の本能だけを優先する前提であれば非合理に見えますが、より高次のものも含めて(ニヒリズムを経ない考えや衝動全てを(ここまでくると私の人格というものも大きく影響してきます))本能とみてそれに従って過ごしているという自覚です。(本能的に、自分が)善いと思った善いことを(本能を満たすために、言ってしまうと結局は自己満足的に)するという自覚なので、今回の記事の本筋にも大変同意できました。(書いていて思いがけず本筋の方にも着地しました、良かった!?)

ごめんなさい、衝動的で拙いわ括弧が多いわ勝手にふわふわと曖昧な言葉を作るわで非情に読みづらい上、何が言いたいのかはっきりしない文章になってしまいました。多分共感できたMistirさんに見てもらいたかっただけです。身勝手ですみません。
もし万が一ご意見やご教示が頂けたらとても嬉しいです。

 

ご感想ありがとうございます!
僕の記事は色々感想いただけてすごい!(自画自賛)
そしてありがたい。いや、長文でご感想いただけるのホント嬉しいんすよ。

 
なるほど。おそらく、「本能」という言葉を「直感」と近い意味で用いられてますね。実は「これ以上理性的に追求するのはやめておこう」も十分、理性の働きなんですよ。
そうならず、それこそ中島義道的に「死ぬとはなんだ」を徹底的に考え過ぎるとニヒリズムの泥沼に堕ちちゃったりしますからね。だから「理性」で抑圧する。
その動きは本能じゃないんですよ。実は。ニヒリズムと本能を対比させているのは少し違うんじゃないか、とは思いました。正直。
というのも、本能だけで生きてるって究極にニヒリズム的なんですよね。そこには「意味」も「我」も無いんですから。
まあ、なんというか「善いと思ったから善いことをする」も本能じゃないんですよ。後天的に学習したものです、それは。

身を粉にして同種を助けるなんて、他の生物とは違いますもんね。ただ、それを「理性で行ってるわけじゃない」って言う意味合いで「本能」という言葉をお使いになっているのはよくわかりました。理性の極限状況をニヒリズムと位置づけると、その対極は「本能」になる。こういう意図であるのは理解りました。ただ、善意もルールもは本能からは生じないってだけの話ですね。

「意味」を追求すると無に至るだったか、神に至るだったか……そう言ってたのは誰でしたかね。忘れました。
実際、自覚があるご様子ですが「ニヒリズムを経ない思考」という考え方がある時点で、十分ニヒリズムの沼からは脱せているんですよね。僕はなんというか、「意味を追求するとニヒリズムに陥ることが分かっているから、強烈な『意味への執着』を一旦保留して、一見表層的な行為をする」っていうのと「そもそも意味に執着しない」は全く別物だと思ってるんですよ。「死について考えて考えて考えたけど考えてると生活に支障が出るから考えない」って人と「死について考えるのは無駄」って思ってる人が全く別物であるのと同じです。
だから、哲学的な泥沼に足を踏み込みながら、そこを「保留」する視点もあるってすごく大事だと思うんですよ。僕はそれをある程度意識してまして。
まあもちろん上手くは行かないんですけど、やっぱり「意味に執着する」のはそれはそれで大事だと思います。
ご感想お読みして、色々と哲学的な文章と相性良さそうだなーと思いました。というか結構哲学的な思考のご様子なので、「あまり読まない」とおっしゃらず是非ともお勧めいたします。僕の好きなバタイユなど。
『内的体験』から引用しますね。

誰か他人の前でみずからに問うてみる。いったいこの男は、どんな手だてをつくして、全一者でありたいという欲望を鎮めているのだろう?犠牲的精神か、順応主義か、ぺてんか、詩趣か、倫理か、粋人気取りか、ヒロイズムか、宗教か、犯行、虚栄、または金銭? 以上いくつかの組み合わせか、それとも全部いっしょくたにか? 悪意が、愁いに陰った微笑が、疲労の渋面が、束の間に輝き過ぎる人間のまばたきーー自分が全一者でないということの驚き、それどころか、狭苦しい限界を持つということの驚きから私たちの味わうひそかな苦痛が、そのまばたきのなかに露呈する。かくも公言をはばかる苦痛というものは、やがては内心の偽善へ、遠大にして仰々しい諸要求へと私たちを引きたててゆくのである(カントの倫理学がその例だ)。

いかがでしょうか。実は僕、まだ内的体験読破してないんですけどねw
あとは、僕がしょっちゅう引用してる中島義道も読んでみるといいかもしれません。


……さて。
数人分しか返信してませんが……まあボリューム満点だったからね。仕方ないね。

まだご返信してない分は後日に。
いつでもお気楽にご感想くださいね(必ず返すとは約束しません!約束すると義務感になるのでしんどくなるのです……)

ではまた次の記事で。
いつもお読みいただき、ありがとうございます。