Midnight Note

明日はどこまで行こうか。どこまで行けるだろうか。

他人を「許さない」というエンターテイメント

誰かを許さない人がいる。
誰かが失言をすると、その人が謝ったとしても、二度と日の目を見ないまでに追い詰められるべきだ、と「鬼」になる人がいる。

ここのところ僕はそれに触れて、たまらなく陰鬱になる。

そりゃ謝って済まないこともある。
僕も別に親を殺された人に「汝他人を許せ」なんて言わない。
許されてはならない悪もこの世に存在する。

だけど、そんな領域の話をしているわけじゃない。
舌禍なんて最たるもので、少なくとも「許されてはならない悪」という領域の話じゃない。

だけど、そういった領域の話に、「個人の怒り」を通り越して、「集団の怒り」を個人で受け持ってしまう人がいる。
そういった人たちは「大義」があるから、出口の無い怒りを「悪」と評価した相手にぶつけてしまう。

100人が聞いて概ね90人以上が「アウト」と思う発言をした人間に対して、その人が謝っても「許さない」と責め続ける行為は、「責められない」。

だって、「相手が悪い」から。
「誰がどう見ても悪いこと」を、そいつはしたから。

だけどさぁ……
それってもうおかしいと思うんだよ。

責めるなら、許すのもセットだろうと思う。
「許し」、言い換えると出口の存在し得ない責めなんてただの遊びで、もっと言うならただのイジメだ。
「お前が自分の認識する範囲から消えるまで俺はお前を許さない」なんて、それは許しじゃない。
ただの怒りに身を任せた断罪だよ。
もっとはっきり言うなら、エンタメだ。

それが成立する世の中がたまらなく嫌だ。

「これで終わり」「これで打ち止め」が必要だ。
それを想定せず人を断罪するなんて、やっぱり間違ってる。


もちろん、被害者が「鬼」になっても仕方ない事件もこの世にある。
大分県の竹田高校であった事件なんかは、ずっとずっと騒がれて然るべきだ。加害者がまだ何も言っていない。これだけの重大な事件であったにも関わらず、事件が闇に葬られている。

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でも、何度も言うけどそんな領域の話をしているわけじゃない。
鬼になんてならないほうが良いのだ。
なるべきじゃないのだ。
だけど僕には、進んで鬼になっている人が凄く増えているように見える。

うんざりする。
それを全部スルーできない自分自身にも。

書き殴りです。
ではまた。