嫌なタイトル!!!!!(千鳥ノブ)
自己啓発本を読んでも幸せになれない、のか?
最近、「○○で幸せになれる」の○○の部分について色々考える。
タイトル通り、例えばこの○○に「自己啓発本を読むこと」を代入してみよう。
案外、「自己啓発本を読んで幸せになろう」と言ってる人ってあまりいない気がする。
一方で「高額なオンラインサロンにハマっている人」や「自己啓発本『的』コミュニティにハマっている人」を見て、なんだかなぁという目線を向ける人は少なくないだろう。
さて。
少し前YouTubeで「ひたすらビジネス書を読んで叩き斬っていく」人の動画を見た。
その動画とその動画に寄せられるコメントは概ねビジネス書の内容を馬鹿にしたものが多かったのだけれど、それはそれでひとつの「コミュニティ」であることに気付いた。
前者と後者。
すなわち、自己啓発的ビジネス書の世界を(形はどうあれ)信奉する人々と、それを批判するコミュニティ。
どちらが幸せなのだろうか?
……
嫌な考え方!!!!(千鳥ノブ)
けどまぁ、多分前者なんだろうなぁ、と薄々思う。
「信じるものは救われる」ではないけれど。
……否、これぞまさに「信じるものは救われる」なのかな。
『セックス依存症になりました』
話が変わるが、『セックス依存症になりました』という漫画がある。
セックス依存症治療歴のある作者の虚実混じえたドキュメンタリーなのだけれど、性依存をはじめとして様々な「依存症」のリアルが描かれていて、何度も読み返している本だ。
(当ブログの筆者はものごとに大変依存しやすいタイプの人間である)
心底感心したのはこのくだり。
このくだりは、依存症治療の自助団体が「宗教的」であることの答え合わせとなっている。
余談だがこのあと主人公である作者が他の依存症患者に「神様信じるといいですよ!」と勧めてドン引きされるシーンがある。
このシーンからは色々考えさせられる。
「神を信じられない」=「メタに批判できる」精神を持った人は、精神的負担やストレスを全部自分で担うしかないんじゃないか?
宗教的に生きている人なら、「これは神が与え給うた試練なんだ」と納得できるようなシチュエーションで、世界か自分かを恨むしかないっていうのは、とんだハードモードなのではないか?
『セックス依存症になりました』にも書いてある通り、信じる対象は神でなくても、なんでもいいわけだ。
幸せそうな人たち
僕は結構料理や筋トレが好きということもあって、食事に関連する本を結構読む。
するとやっぱり相当な割合で「オカルト」な主張をしている本があることに気づく。
あまり例えを出したくないので内容は察して欲しい。
けれど共通していることがある。
そういった「オカルト」な主張をしている本は……
たいてい、めっちゃ幸せそうに書いているのである。
文体がダンスしているというか。
食に対するオカルトは、よほど過激なものでない限り別に良いんじゃないかと個人的には思っている。
実際ラーメンとポテチと酒が主食の人がどんな経路であれ菜食主義的な思想を生活に取り入れると、それまでよりも健康に近付くのは間違いないだろう。
結果的に良い方向に転がるのであれば、他人に迷惑をかけない限り、別にどういった世界観を自分の中に構築したとしても良いわけで。
まぁ、幸せになっちゃったらほとんどの人が他人にも押し付けたくなっちゃうんだけどね。
「なぜお前は神の恩寵を理解しないんだ!」的なやつ。
そうならないためには「信じつつ信じない」的なバランス感覚が必要になるわけだけど、それは途方もなく難しい。
神社で考える
僕の話になるが、神社が好きだ。
人類の歴史で、どうやらこの世界を形作っているのは科学だと人々が認識し始めたのはごく最近のことだ。
……本当に認識し始めてるか?
……まぁとにかく、医療や科学の声が大きくなるまでは、その役割は寺社が担っていたわけで。
たまに神社に行って缶コーヒー片手にボケーッとするようにしている。
神社には長い長い人の祈りと歴史が込められている。
医療も科学もTwitterも十分でない世界で、どれだけの人の心を救ってきたのか。
「もう2021年は科学的なことが全部なんで。神社とかお役御免っすわ」
……というのはちょっと違うだろーと思うのだ。
じゃあさっさと神道なりキリスト教なりに染まれば僕ももう少しは生きやすくなるのかもしれないが、どうもそれは厳しそうだ。
だったら、僕は今何を信じているのだろうか。
お金か?
否、それすらも……
あーダメだダメだ、考えすぎると何も信じられなくなる。
「ツッコミ」について
信じられるものは少ないけれど、信じられるものを探すことは相当やっている。
自己啓発本の王の一人であるホリエモンの本もそれなりに読んでいる。
ホリエモンは『ハッタリの流儀』で「ツッコミばかりしている人に熱は起こせない」という指摘をしていた。
これからの時代は「ボケ」の時代だ。「ボケ」られる人間が貴重だ。他人に「ツッコミ」ばかりしている人に熱は起こせない。周りはついてこない。
これは非常に重要な指摘であるように思う。
「ツッコミ」は言い換えると「メタに見る」ってことだ。
熱を入れるのではなく、熱を入れる人を俯瞰してみる行為のことだ。
「ツッコミ」は面白い。
現に「ビジネス書を叩き斬っていくYouTuber」はウケるし、「相席食堂」はクソ面白い。
けれど、人生単位でツッコミばっかやってると、どんどん自分で背負い込むことになるんじゃないか。
それは飛躍し過ぎだろうか。
何かを信じること
「信じるものは救われる」。
いろいろ考えてみて、やっぱりそう思う。
だが、一方で度を越して陰謀論に飛びついちゃったりしたら、それはバカでしかない。
「陰謀論に飛びつく」は「あっさり信じる」の極致だ。
「信じること」と「幸福」の繋がりを語ってきたから、今ならスッとこう書ける。
「あの人、悪い人じゃないんだけどねぇ(けれどカルト宗教にハマっている、陰謀論にハマっている、etc.)」のカラクリはこれだ。
彼らは幸せなのだろう。
幸せな人間が、なぜ悪い人間であろうか。
「悪い人」なんてあまりいない。いたとしても表には出てこない。
「頭が悪い人」はいるかもしれないけれど。
……とはいえ。
仮に汝の隣人が「陰謀論者」だったとして。
「それは悪い『信心』だ」などと、誰に言えようか。
「悪い信心と良い信心」なんて、どうやって判断するんだ?
「人に迷惑をかけるかどうか」で判別すると良い、というのは一つの方法かもしれないが、あまり賛成できない。
Twitterで「神社に行くと心が落ち着くよ。セラピー効果があるよ」と呟くのと、「水素水を飲むと心が落ち着くよ。セラピー効果があるよ」と呟くのは、いったいどう違うというのだ?
違うとして、誰がどう判断するのだ?
その判断は正しいのか?
間違いないのは、ここまでツッコミ気質が身についてしまっていると、幸せは遠いなぁ、ということだ。
……暗いなあ。暗い。
酒でも飲んで明るくなるか。酒は心底信じられる。うん。
【余談】
『セックス依存症になりました』には完全版が出ているのだけれど、これは自助団体のくだり等を完全にカットしていて、アニメ12話を1話にまとめた総集編並みのダイジェストだからおすすめしない。
買うならこちらの合本版がオススメです。