Midnight Note

明日はどこまで行こうか。どこまで行けるだろうか。

ほしいものが、ほしいわ。

親友が最近、自殺した。

それをネタにしてアフィリエイト広告まで貼ってブログを書くというのは……なんだかなぁと思わないでもないのだけれど、まぁ僕はあいつに散々振り回されたので、これくらいやってもバチは当たらんだろう。
それを責めてくるやつがいたら「君は何の権利で僕を責めてるんだ?僕やあいつの何を知ってるんだ?」って言えばいいだけだし。
ということで書こうと思う。
それではハイ、アフィリエイト広告。


話が変わるが……
高校の頃、僕は、ガラケーニコニコ動画にアクセスしては、変な動画を観たり公式配信の変なアニメを観たりしていた。
画質はガビガビである。

ガラケーにMP3を突っ込んだり、それだと明らかに音質が悪いからウォークマンを買ったりした。アニソンのCDはレンタルショップでも置いてる店と置いてない店がある。割と頑張って探す必要があった。
ニコ動にハマりすぎないように、あとライトノベルとかも読んだりしながら退屈な日々を過ごしていた。

時は過ぎ、2022年。
だいたいのことはスマホタブレットでできるようになった。
映画も配信されている、アニメも配信されている。それも超高画質、激安。
アニソンもストリーミングで聴き放題。聴けない曲の方が珍しい。
「なんかスマホタブレットがあればもう一生幸せに生きていけるんじゃね?」っていう気がしてくる。せっせと働く必要なんて、もうないだろ。
酒飲むにしたって、別に超高級ワインを望むわけじゃなければ、金銭的には別に大した支出にならない趣味だ。
ニコ動でアル中カラカラ、あるいはTVerやアマプラで相席食堂でも観ながら酒を飲めば明日も頑張れる。
……そうやって、日々を過ごす。
それで理屈の上では十分幸せなはずだ。

……言っておいてなんだが、「理論上の幸福」なんて、そんなバカバカしいものはない。それで幸せでいられる人は、多分、強い人なんだと思う。

僕は弱い。だからそんな日常がどうも苦しい。
「ほしいものが、ほしいわ。」と思ってしまう。
これは糸井重里が1988年に西武百貨店のポスターに寄せたキャッチコピーだ。
バブルの時代の物質的な充足の果て、その先の「本質的なもの」を追い求めた秀逸なキャッチコピーだと思う。「本質的なもの」なんていうものが本当にあったのかどうかは別にして。

時は2022年、1988年から35年近く経過して……
今、日本が経済的に良い状況で、物質的に充足しているか、というと非常に微妙だ。
微妙なんだけど……
「面白いものを気軽に」という意味であれば、バブル時代以上なんじゃないか?と思わなくもない。
スマホタブレットがあれば大体揃う」のだ。

にも関わらず、この閉塞感はなんだ?
いや、「にも関わらず」じゃない。
「だからこそ」なのか。

僕の親友だった男は、VTuberが好きだった。僕と同じだ。
僕と同じく、酒を飲みながら変な動画を観るのが好きだった。ずっと酒を飲んでいた。
最期はひたすら飲んで、スッカラカンで死んでしまった。

ここで念のため書いておくが、僕は、あいつの気持ちが分かる、なんて言わない。
この文章の目的は、あいつの気持ちの、生き方の分析ではない。
僕の気持ちの、僕の生き方の分析だ。

僕は半年前、色々あり司法試験(予備試験)の勉強を始めた。
ほしいものがほしかったのだ。
もっとも、これは後付けの理由ではあるのだけれど。

本来なら「これでいい」はずだ。
「欲しい物」をまた追いかける人生がそこから始まったのだから。けれど、何かモヤモヤしたものがずっと拭えない。
それは僕自身の生き方に対するモヤモヤだろうか、あいつの死に対するものだろうか。
よくわからない。
まぁ多分、そんな難しいものじゃなく、ただ勉強したくねーだけだろうな。
でも本当に心から欲しかったらこんな悩みは抱かないか。
うーん。

そんな歯切れの悪い日々を過ごしていると、最近人に会うたびに「元気ないね」と言われることに、少し自分でも危機感を覚えてきた。
僕はタナトフォビアなので絶対に自分で死を選ぶことは無いが、なんかこのままだとマズいと思い、しばらく休んでいた筋トレを再開した。
やはり運動すると気分が良い。
気分が良い一方、ハードトレーニングのあと全く勉強する気が起きず、落ち込んだりもする。

……話が変わるが。
スマホタブレットがあれば十分」「だからこそ」人は幸せになれない、という仮説がもし有効なら、もう叩き割っちまったほうが良いのではないかとたまに思うことがある。
知識に、情報に、欲しい物に「餓えて」なければ、そのために奮起するのは難しい。
何かに奮起できない日々は、少しずつ身体を蝕んでいく。

色々満たされた日々だからこそ、それをぶっ壊す何かが必要なのかもなぁ、と思う。
……一応繰り返すが、僕は自分の人生をぶっ壊す気はないことは念押ししておく。

そうして僕は「さて、どうするか」といつもの台詞を吐き、3歩進んで3歩下がり、たまに4歩進む生活を進めていくのだ。
それしかできない。それで良い。
それで許してくれよ、頼むから。

ではまたどこかで。