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バイクに執着することに虚無を覚え始めてきた今日この頃。
何か新しい趣味は無いか、何か面白いことは無いか。
このままではいけない。
何か新しいことをしないと。
でも、やる気が出ない。
そんなことばかり考えてきた。
よく寝て、考えた。
そして思った。
「バイクとか車よりおもろいことって無いししゃーなくね?」
あまりにもどうしようもない覚醒ではあるのだが、この思考過程には覚えがあった。
結局のところ、
- 現状を否定したくなる
- もう否定しなくて良くね?と気付く
- ちょっと元気になる
の無限ループなのである。
で、ここで言う「現状否定」はほぼほぼ「自己否定」と同義だ。
という話をしたい。
自己否定と現状否定
「自己否定と現状否定は違う」と思った方もいるかもしれない。
「自己否定せず、現状を否定する」。
そんなことが可能だろうか?
僕は基本的によっっっっっぽど心が強い人でもない限り不可能だと思っている。
例えば自分自身は肯定するけれど、自分の太った肉体は嫌だからダイエットする。
例えば今の自分も好きだけれど、よりよい自分になるために勉強する。
……。
言葉だと凄くキレイで、理想的だ。
けれど正直、30年以上生きてきて思うのは、こんなものはただの綺麗事でしかないということだ。
少なくとも僕のような人間にとっては。
大谷翔平や藤井聡太の場合は違うだろう。
いや、そこまで行かなくてもある程度「前向きに努力できる人」なら違うだろう。
っていうかそんな人は僕のブログなんぞ読んでないんじゃないか。
……と言いたいところだが。
……そして話が逸れるが、人ってのはグラデーションであり、「滅茶苦茶前向きに見える人」の中にも後ろ暗い何かが存在しているものなのである。
僕のブログはそういう存在を肯定するので、「前向きに努力できる人」もぜひ読者になって頂きたい。
話を戻す。
「自分を肯定しつつ現状を否定する」。
シンプルにこれは難しい話だ。
「自分を肯定しつつ、現状も肯定しつつ、向上する」
これもまた難しい話だ。
筆者はどうも「不快を取り除く」ことに関心が特化しているらしい。
ゼロイチ的なことにほとんど興味が沸かない。
何かを作りたいなーという気持ちは無くもないのだけれど、やろうとするたびに挫折する。
あっとういう間に話が逸れかけているので強引に再度話を戻すと、「現状を変えたい」となるときは、「現状が嫌いだ」がセットであることが多い。
少なくとも筆者の場合は。
倒錯
これは必ずしも悪いことじゃないのだが、たまに倒錯が始まる。
「現状を変えたい」
「だからこそ、現状を嫌わなければならない」。
「現状を否定しなくてはならない」。
そして最終的には、こうなる。
「今の自分を否定しなくてはならない」。
こうなってしまうと悲惨だ。
何も楽しくない人間の出来上がりである。
本当は違うのだ。
現状も自分も否定したくはないのだけれど、少しだけ物足りないだけなのだ。
この写真を見て欲しい。
これはふと越後湯沢の「ぽんしゅ館*1」にふと行きたくなり、近場のホテルを取り、駅で買った焼肉弁当と地酒を飲みながらアニメ
『VTuberなんだが配信切り忘れたら伝説になってた』
を愛用のiPad miniで見ている状況である。
ティッシュケースをスタンドとして代用している……
うーん。
完全無欠の趣味である。
ただ、クソ寂しいことを除いては。
……完全無欠、とは?
だが、この問題は結構馬鹿に出来なくて「こういう趣味続けてても寂しいだけだよなぁ」という感覚は常にあった。
だけど本来、寂しいことと車や旅の趣味っていうのは別軸の問題であって、……いやまぁ、確かに上の写真は自分で撮った写真ながらあまりに独身臭が強く直視に耐えない感はあるのだけれど……まあそれはそれとして……
……。
寂しさを解消するために自分の趣味を否定する方向を模索する、ってのは多分、幸せになれないことなんだろうな。
もっと面白いことを見つけて自然にスッと離れるならともかく、「このままじゃいけない」と必死こいて今の趣味やら自分のあり方を否定する。
そんなことしてたら、そりゃ病むよ。当然だ。
自己否定は結果か?原因か?
「メンタルが弱って自己否定に至る」のか、「自己否定の果てにメンタルが弱る」のか。
どちらもあるのだろうけれど、後者は馬鹿に出来ない程度には大きな問題なのだと思うようになった。
それを避けるためには。
難しいことだけど、今の自分とか趣味だとかに対して「これより面白いもの無くね?」とアホな肯定をしてみる。
その上で、その「外側」で欠けたものを探してみる。
あくまで現状は否定せずに。
例えば僕だったら、飽きるまで車やバイクの事を考え続けてみる。
これまでの10年飽きそうで飽ききらなかったし、向こう10年もそうなんだと思う。
寂しさはまあ、もしたまにバイクに飽きそうになったらマッチングアプリでもしてみるか、程度で埋めよう。
それで車やバイクに乗り続け、旅先で美味い飯を食い美味い酒を飲むために、日頃は健康的な生活をしよう。
ジムに通いまくろう。
頑張って仕事してお金も貯めよう。
それだけで十分。
車もバイクも否定する必要はない。
……うーん、ただ……
なんか今しっかり寝たから綺麗事言えるだけで、これもただの理想論に思えるなぁ。
まあそんな気もするけれど、それでも。
最近一つ思うことがある。
どこかで「自己肯定」というか「自己受容」は無理矢理であっても絶対に必要なんだろうな、と。
人は老いる。
運動神経を売りにしていた人は、いつか衰える。
美を誇る人は、いつかしわくちゃになる。
「良い老け方をする」とか言ってみたりもするけれど、なんら自分に負い目のない理由で病にかかり、自分の思い描いていた理想と全く異なる姿になってしまうかもしれない。
そんなとき、あなたは、僕は、「それで良い」と言えますか?
言えないと「いけない」のだ。
人生ってのは「そう」でしかないから。
この問題は色々語られてる割に、美醜の問題とか社会的な価値観の問題と組み合わせると滅茶苦茶難しいからまたどこかで腰を据えて語りたいと思う。
自己肯定、自己受容しても
厄介な話なのだけれど、自己肯定したところで社会のあなたに対する、僕に対する目線は変わらない。
自分を認められたところで、世間は自分を認めてくれない。
……あえてこんな嫌なことを書いてみた理由は。
最近思うのだ。
ここでいう「社会」とは、「世間」とは、結局「自分」が構成するものであって、その「社会」「世間」を変えるためにベースたる「自分」を変えることがどうも必須っぽいぞ、と。
「変える」っていうのは「自己否定せよ」ってことじゃなく、むしろ「無理矢理にでも自己受容する、できるようになる」っていう方向性で。
それはそれで無限ループに陥る人もいそうだけど……。
何が言いたいって。
暗い話が目に付く、あるいは歪んだ「世間」が自分にインストールされるSNSとかからはなるべく離れたほうが良い……。
というだけの話である。
……
タイトルの「自己否定の果て」に見つけたの、それ?
なんじゃそりゃ、しょーもない。
なんか今日の記事ふわっとしてるなぁ。
勢いで書いたからしゃーないか。
さて、3連休初日である。
今日は福島のホテルに泊まってくる。
急いでいるので、また。
*1:越後湯沢駅にある滅茶苦茶大量の種類の日本酒から500円とかで試飲ができる施設