Midnight Note

明日はどこまで行こうか。どこまで行けるだろうか。

「メシが美味そうに見える作品」の条件(と、村上春樹)

『幸腹グラフィティ』の食事シーンは、何故美味そうに見えないのかーー

こんにちは、みなさん。Mistirです。
いやー……ね。もうね、このブログ、我ながらフリーダムだよね。
ISIS問題」→「フランスの思想家の話」→「メシが美味そうに見える作品の条件」って、もはや何が何だかわかんねえ!!!


どんな読者層を狙ってるのか?
そんなもん知らん!
書きたいときに書きたいことを書くのだ、僕は!!

ってことで今回は『幸腹グラフィティ』っつーシャフトのアニメを観てると降ってきた、「メシが美味そう」っていう概念について考えてみようと思う。

僕は絵を描くってことは一応するけど、立ち位置はどっちかというと「創作サイド」ってよりも「批評家サイド」だ。ブログで何かの作品について語るってのが結構好きなのである。ぶっちゃけると、創作してるよりも何かについて語ってるほうが数億倍イキイキしてる
それはもしかすると「その方が楽だから」なのかもしれないが……

まあ本題ではないので、さっさと『幸腹グラフィティ』やその他のマンガ、アニメを観て思う「美味そうなメシ」ってテーマに関して語ってみよう。どこかでもう語られてるかもしれないが、そのときは許してくれ。それから僕の主観が大半だから、それもまあ許してくれ。「『幸腹グラフィティ』の食事シーン、めっちゃ美味そうやんけ!」と言う方がいらっしゃっても、僕はそれを一切否定しない。

 

まず、事前に『幸腹グラフィティ』というアニメについて軽く説明しておこう。


幸腹グラフィティとは (コウフクグラフィティとは) [単語記事] - ニコニコ大百科

 

↑ の記事を読んでいただけると分かるかもしれないが、要は……


「かわいい女の子がメシ食うアニメ」である。

乱暴だが、どう考えてもそれがメインなのでまあそうまとめちゃっても良いだろう。
勿論、ホームドラマ的要素や様々な要素が入ったアニメではあるが、タイトルからも分かるように「食」がメインの要素となっていることに間違いはない。

で……これはあくまで僕個人の感想であるが……
うん。このアニメはシャフト特有のクオリティの高さ、独特の演出、4コマ原作特有の(鬱展開などが無くて)何も考えずに観られる感じ、女の子が可愛い……と、まあそういうアニメなのだ、が。

肝心要の、食事シーン。
これが、僕にとってあまり美味そうに見えないのだ。

いや、メシ自体はそれなりに美味そうなのだ。
その辺はやっぱりクオリティの高いシャフトらしさで、メシそのものは本当しっかり描いている。画像だけ見ると美味そう。


だけど、それを女の子が食べるシーン……
エロい。エロいが……「美味しそう」とは違う!
何か、何かが足りない……!

この「エロい」って概念が重要であることは食べ物系のマンガ(料理マンガ)についてちょっとでも詳しい人ならご存知だろう。


最近の料理マンガがエロマンガ化している!? - エキサイトニュース(1/2)


よくまとまっている。話題にしてる『幸腹グラフィティ』に関しても触れられている。
そう、メシを食う描写とエロスは切っても切れない関係にある。

誰かが語っていたことだが……
エロい漫画に「濡れ場」が入ることと料理マンガに「モノを食べるシーン」が入ることの関係性は同じで、そこにエロスがブチ込まれるのは必然だとかなんとか。

ちなみに言えば、この『幸腹グラフィティ』は食事シーンに限ってやたら大人びた顔になるので「お前誰やねん」となります。唇とかしっかり描いてて、妙にエロいんだけど……

でも、何度も言うように、それは美味そうかどうかってことと何の関係も無い。本当に、何の関係もないのだ。

なら、「美味そう」とは何か。
僕がパッと思いつくのは孤独のグルメ』と『グラップラー刃牙(もしくはバキ、範馬刃牙)』である。

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孤独のグルメ』の井之頭五郎(上の画像のサラリーマン)は、妙な色気があるっちゃあるのだが、『食戟のソーマ』や『幸腹グラフィティ』のエロスとは全く無関係だろう。
下の画像にある肉に関しては説明不要であろう。ここまで美味そうな肉、食事シーンもそう無い。

アニメの話をしているのだからアニメで例えるべきなのだろうが、アニメで美味そうな飯を描いてる作品をパッと思い付かなかった。だが、説明ならできる。

上の画像(孤独のグルメ)も、下の画像(バキ)も……そう、どちらも……「リアクションが薄い」のだ。
それに比べると、いわゆる「エロス系」料理マンガは過剰なほどのリアクションだ。あたかもエロ漫画での喘ぎ、感情表現がすっげえ過剰なのと同じように。


もちろん、「薄いリアクション」で「美味そう」を表現するのは、創作者の立場にとって考えるとすっげぇ難しいことなのだろう。


例えば『中華一番!』や『ミスター味っ子』は、過剰なリアクションを楽しむアニメでもあった。リアクションが過剰すぎて、「飯が美味そうかどうか」は二の次な印象がある。これは『幸腹グラフィティ』が「飯が美味そう」っていう以上に「女の子のエロさ、可愛さ」を重視していることに通ずる面がある。

ちなみにこの「過剰なリアクション」を「さらに過剰にして」「完全なギャグにした結果」「もはや別の漫画になった」作品をご存知だろうか。

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ここまでくると「メシが美味そうかどうか」なんて本当どうでもいいのである。

 

さてさて、話を元に戻そう。
美味そうに見える作品の条件である。

「作品」と言い切れるかどうかは微妙であるが、めちゃイケで「美味そうに食べる選手権」的な企画をやってたことが妙に印象に残っている。これは非常に有益な(何にとってかは分からんが)企画だったように思う。

まず、よゐこの濱口が挑戦。「わざとらしい」……この評価が下される。
それなりに美味そうなのだが、やっぱり何かぎこちないのだ。たとえ「美味しい」と言ってみたところで。
なんかよくわからんがたんぽぽの白鳥は変な喘ぎ声を上げながら食べていた。もちろんクッソまずそうであった。

で、最終的に最高得点を叩きだしたのはよゐこの有野。
この食べ方が、本当に印象に残っている。
まず、かるくルーの部分に醤油をかけ、無言でひたすらがっつくのである。そう、無言で。だが、妙に美味そうだった。

最下位は大久保さん。「食べ方が汚い」……いくらがっついていても、この一つだけで一気に不味そうに見えるのだ。

そういえば、話題になった漫画でもある『花のズボラ飯』も「汚い」という評価が多い。グーグルで検索すると、サジェストされる。

 

 ということで検索していると、2ちゃんねるまとめサイトであるが、非常に興味深いモノを見つけた。

グルメ漫画でがっついたりして食べてる描写が汚く見えるんだが:わんこーる速報!

 

孤独のグルメの人が描いた漫画らしいが、80番の書き込みに貼られている引用画像が見事に「美味そうな表現」を体現している。
というか、このまとめ記事、「もう僕語らなくてよくね!?」ってくらい深く語ってくれている。特に最後の書き込みである「一番美味そうなのは黙って食っててシンプルな書き文字の擬音があるパターン 」にはなかなか同意できるものがある。
しゃーないので、そろそろ結論に入ろう。

 

美味そうに見える漫画、アニメの条件やその分析をある程度まとめると以下のようになるだろう。

1.がっついているが汚くないことは、「美味そう」に大きく関わる。
2.理屈は「美味そう」かどうかに対して特に関係ない。
3.「美味そう」はどっちかというと、女性的ではなく男性的イメージ。
4.ジブリはほぼ特例的な「美味そう」。
5.汚いと、場合によってはもう一発でアウト。
6.エロスは「美味そう」かどうかに対して特に関係ない。

 
4番の「ジブリは特例」に関して言えば、僕の考えとしては、ジブリの食事シーンは「自然」なのだ。「食べるべき」ときに「自然」に「食べるように」「食べている」。無理矢理ぶっ込むわけでもなく、本当に人間的な食事シーン。
上手く言えないが、それを表現するのはなかなか難しいってのは分かる。ハイレベルなジブリ作品では、その表現が妙に成功している。ドラゴンボールの食事シーンが美味そうなのもそれが原因なのかもしれない。自然なのだ。
もちろん仮説に過ぎないので、異論反論は随時お待ちしております。

よくよく考えてみると、料理マンガの「食べる」って行為は本質的に不自然だ。評価のために、評価員が食す。腹が減ったから、食事の時間だから食べるわけじゃない。
……まあこの辺りはまた別のお話かもしれない。もちろん、料理マンガを否定するわけではない。鉄鍋のジャンとか好きだし。ソーマも今のジャンプだと普通に熱さがあって嫌いじゃない。

 

 ……さあ、ここまで語って、実は今まで語っていなかった……
最も語りたいことを語ろう。


村上春樹のことだ

 
読者の皆さんの頭に
!?
が浮かんだことは想像に難くない。だが、語らねばならないのだ。

 

まず、ちょっと関係ないことから語らせてくれ。絶対に「美味そうなメシ」の話に戻ってくるから。

今の村上春樹は、一部で不当な評価を得ている!
大胆だけど、そう断言しよう。

まず、Amazonの『色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年』のレビューがこれだ。長いので、飛ばしてもオッケーです。

 

 満を持して、村上春樹を読んでみました。めちゃ売れてるって評判だし、本屋でも下品なぐらい平積みされてるし、アイフォーンの新作かってぐらいの長蛇の列がテレビで流れていたので、あんまりウザイから読んでみたのです。
 読んでみてすぐに王様のブランチで本仮屋ユイカとかが「うーん・・・なんか難しいとこもあったんですけど・・・最後にすごい村上さんから明るい励ましのメッセージをもらったようで元気になりました!」ってぶりっ子然な感じでなんの生産性もないコメントをしているのがなんとなく目に浮かび・・・。その脇で谷原章介が「うんうんそこが村上作品の魅力だよねー」とスカした感じで頷いてる光景が脳裏によぎりました・・・。王様のブランチで褒められている小説はたいがいろくでもないという相場は決まっております。だから変な期待を持たずに読み終えることができました。あらかじめ言っておくと、ボクは村上作品のいい読者ではありません。ノルウェイの森も途中やめにしてるし、アウターダークも途中退場、まともに読んでるのは象の消滅っていう短編集と風の歌を聞けぐらいで、1973年のピンボールなんか朝おきたらベッドの中にかわいい双子のおんな子がいたー!って時点で床に叩きつけています。言わずもがなカートヴォネガットとかレイモンドカーヴゃーもフィッツジェラルドも読んでいないし、ちょっと周りがもてはやしているから読んでみよう。でもいまいち良さがワカランなぁぐらいのレベルなのです・・・。しかし「風の歌を聴け」をはじめて読んだときは衝撃をうけました。その主人公のあまりのオシャンティーぶりに全身から血の気が引きそうになったのを覚えております。だって・・・あれだぜ・・・。ジャズバーにいたら自然と女が寄ってきて、そんで全然そんな気ないのに、ちょっと会話してたらもう部屋に連れ込めてるんだぜ? そんでワインのコルクを果物ナイフの先っぽでこじあけようとしてんだぜ? 果物ナイフでだぜ!? 「ビーフシチューは好き?」とか女に聞きながらだぜ・・・。コルク抜きとかつかわないんだぜ・・・。なんか石田純一が女の前でりんごを果物ナイフで切ってそのままナイフにのせて食べるって言ってたのと同じレベルの、スカシっぷり・・・じゃね?ジャズのレコードがかかってるムーディな部屋でだぜ・・・。しかもそのムードのまま、しっぽり、やれちゃうんだぜ。しかもやってる最中に、「あなたのポコチンはレーゾンディートルね」とか言われちゃうんだぜ? なにそれ? レーゾンディートルってなにw? クソ意味不明なんですけどw ググる気にもなんないんだけど・・・。仮性包茎のこと? 
 ここでノックアウトされるものはハルキニストになり、ここで「ちっ」と舌打ちするものはアンチ村上に転ずる、と言われております。ボクは、舌打ちするほうだったのでアンチとは言わないまでも、そんなオシャンティーな村上作品に対し、どことなく嫌悪感を抱いておりました。齋藤孝氏が「これは僕のなめた孤独とは違う」と言っておったのが、大多数のアンチ村上の意見なのではないのでしょうか。
 さて、じゃあ本作は主人公、多崎つくるくんはどうかというと、これもまた案の定、孤独です。まず冒頭二ページでこんなんです。

 ―――用事のない限り誰とも口をきかず、一人暮らしの部屋に戻ると床に座り、壁にもたれて死について、あるいは生の欠落について思いを巡らせた。彼の前には暗い淵が大きな口を開け、地球の芯にまでまっすぐ通じていた。そこに見えるのは堅い雲となって渦巻く虚無であり、聞こえるのは鼓膜を圧迫する深い沈黙だった―――
 
 ぼっちです。これは共感がもてます。大学生なので深刻です。これは辛い自体です。しかし、いちいち言い方がおおげさなのが玉にキズです。暗い淵が地球の芯にまでって・・・いくらなんでも深すぎです・・・。しかも「渦巻く虚無」とか「深い沈黙」とか「生の欠落」とかいちいち出てくる単語が思春期こじらせた中学生が書いたブログに出てくる言いまわしみたいでイカ臭いです。「深い沈黙」が聞こえる・・・ってのも意味がわかりません。
 しかしそんな瑣末なことにいちいち目くじらを立ててもしょうがないでしょう。大事なのはなぜ彼がぼっちになったか?ということです。そこも読み始めてすぐに説明されます。高校時代に仲の良かった五人組と、突然「おまえとは縁を切る」と言われたらしいのです。 それ以来、人間不信に陥り、他人とうまく関係を築けなくなったということがわかってきます。
 と、ここまで読んでいくと、「泣けてくるほどのぼっち小説ではないか!」と思ってしまいますね。
 
 しかし、すぐにその予想は鼻先でピシャっとやられます・・・。読む進めていくうちに、「あ、これはおいらとは違う」といつもの村上カラーが炸裂してきます。20ページぐらいで主人公は恵比寿のバーで女と喋っています。もうどこかで見た光景です。しかもそのバーに入った理由が「とりあえずチーズかナッツでもつまもうと思ったから」です。こんな軽い理由で恵比寿のバーに入れる人間をボクは同じ血が通っているとは思えません。しかも、会話もこんな感じです。

 つくる「それが存在し、存続すること自体がひとつの目的だった・・・」
    「たぶん・・・」
  女 「宇宙と同じように?」
 つくる「宇宙のことはよく知らない」
    「でもそのときの僕らには、それがすごく大事なことに思えたんだ。僕らのあいだに生じた特別なケミストリーを大事に譲っていくこと。風の中でマッチの火を消さないみたいに」
  女 「ケミストリー?」
 つくる「そこにたまたま生まれた場の力。二度と再現することのないもの」
  女 「ビッグバンみたいに?」
 つくる「ビックバンのこともよく知らない」

 
 「け、け、け、け、け、ケミストリー・・・・!」「い、いま、なんつったこいつ・・・!?」「け、け、ケミストリー!?!?」「ま、まじか・・・そんな尻こそばゆい単語・・・始めて聞いたんだけど・・・なにそれ・・・すっごいむずがゆいんだけど」「背中ぞわぁってするんだけど・・・すごい・・・変な汗出てきたよなんか・・・」「しかも、なんかケミストリーって言ったあとで、風の中でマッチの火をどうたらこうたらって、すごい恥ずかしい比喩表現上乗せしちゃってるよ・・・。恥の上塗りだろこれ・・・なんだよケミストリーってこええよ」「こんなやつバーで隣にいたらタコ殴りにしてるよ・・・」「しかもなんかあれだよ・・・女の子がせっかく『それは宇宙なのかなぁ?』とか『ビックバンみたいな感じ?』って必死で合いの手を差し伸べてくれてんのに全部『それは知らない』の一点張りだよ・・・。会話合わせる気ねぇよこいつ・・・どんだけ宇宙ネタ嫌いなんだよ・・・・。こんなやつ絶対モテねぇよ・・・。

 その後も頻繁に「ケミストリー」とつぶやくつくるくん。ケミストリー押しがすごいです。ところがモテてしまいます。なぜか、このつくるくん。二十歳で童貞だったわりには、女の子とはしっぽりしけこめてしまうのです。しかもその調子が、いつもの村上節です。心に大きな空洞をかかえたまま、他人に心を開いてないのにもかかわらず、ちゃっかり女は寄ってくる。いつものやつです。というか村上春樹の小説のキャラクターってこんなんばっかりじゃね? しかも童貞喪失のときに―――初めての体験だったが、それにしては何もかもがスムーズに運んだ。最初から最後まで戸惑うこともなく、気後れすることもなかった―――p132って、こんな都合のよろしい童貞っていらっしゃるかしら? 「村上さんの登場人物は避妊しないんですか?」というファンの質問に対して「うーん・・・いちいちゴムつけるとこ書くのめんどくさいでしょ」みたいな発言をしていたのを思い出しましたが、いくらめんどくさいからといって童貞をこんな女のあつかいに長けたサオ師みたいに描くのはやめていただきたい。あまりにもリアリティをシカトしすぎです。童貞を舐めないでいただきたい。「ヤリチンヤリチン」とずいぶん批判されてきたのに業を煮やしてか、やっとこちら側に擦り寄ってきたかと思いましたが・・・またこれです・・・やってることはやっぱりヤリチンです。

 いろんなところに目をつぶってみても開始何ページ目かでボクはあまりのオシャンティーぶりに卒倒しそうになりかけました・・・・。嫉妬とはーーー世界で最も絶望的な牢獄だったーーーとか、人の心は夜の鳥なのだーーとか、彼は荒ぶれた闇の中で消え入るように息を引き取り、森の小さく開けた場所に埋められた。人々がまだ深い眠りについている夜明け前の時刻に、こっそり密やかに。墓標もなくーーとかいちいち目を覆いたくなるような、ゴミ箱からほのかに漂ってくるようなスペルマ臭い言い回しとも必死で戦いました。

 ところが、多崎つくるくんひとりならまだしも、つくるくんの友人がこれまたひどい・・・とくにアカはひどい。女に「友達に嫌われた理由を探してみたら」と言われたので、十年ぶりにつくるくんは昔の友達のところへ尋ねるのですが、このアカってやつが、なんというか、もういろいろこじらせちゃってます。ビジネスセミナーのコミッショナーなんですけどね。もうなんかビジネスセミナーのコミッショナーだからなのかあれなのか、身のこなし、言葉の節々から、自己陶酔感がただよってるんですよ。もちろん応対するのは昔の友人(つくる)ですが、それにしても自分大好きオーラでまくってます。だってこれですぜ。

 アカ語録。

 アカは笑った。「嘘偽りはない。あのままだ。しかしもちろんいちばん大事な部分は書かれていない。それはここの中にしかない」、アカは自分のこめかみを指先でとんとんと叩いた。「シャフと同じだ。肝心なところはレシピには書かない」

 「あるいはそういうこともあるかもしれない」とアカは言った。それから愉快そうに笑って、指をぱちんと鳴らした。「するどいサーブだ。多崎つくるくんにアドヴァンテージ

 アカは言った。「俺は思うんだが、事実というのは砂に埋もれた都市のようなものだ・・・」

 
 福山雅治なら許されます。ガリレオのときの雅治なら許されます。しかし、それ意外は、断じて許されません。無論。こういうことを言って、「おめーいてーよなんだよそれ。鋭いサーブだってなんだよw」「なにが多崎つくるくんにアドヴァンテージだよw」なんていう人間はひとりもおりません。自然なのです。「封を切ってしまった賞品の交換はできない」とか「まるで航海している船の甲板から、突然ひとりで夜の海に放り出されたみたいな気分だ」とか村上小説の登場人物は総じて、もういちいちなにかしゃべるときは、気の利いたこと、おしゃれな比喩を言わないとすまない性格だと肝に銘じたほうがよさそうです。

 しかしここまでこの書評を読んできて、話の内容がいまいち見えないという人も多いでしょう。ものすごくざっくばらんにネタバレしますと、多崎つくるくんが友達と再会を通して知った自分が絶好された理由とは「シロというおなじ五人グループの女の子をレイプしたから」というとんでもないものでした。つまりすごく雑に流れをまとめるとこうなります。
 オス!おいら多崎つくる!なんかよくわがんねーけど、すげえいきなり友達から絶好されちまった!――――→なんかそれがきっかけで自信もなくしたし、人間不信になっちまった!――→でも職場で知り合った女(沙羅)がすごいいい女で、結婚してーって思った!――→でもなんか女から「友達に再会してみたら」って言われたんで会ってみることにした!ーー→友達に何年かぶりに会って理由聞いたら、おれが勝手に友達(シロ)をレイプしたことになってた!――→なんかもっとよく聞いてみたら、シロ死んでて(好きだったのにショック)、しかもちょっとメンヘラだった!!!――→外国に住んでる友達に聞いたら、なんかメンヘラだったシロを救うためにやむなくついた嘘だってことがわかってきた!――→怒ろうかと思ったけど、すごい謝られたし、なんかすごい「ずっと好きだった」とか「自信を持ってー!」って言われたから「うん、おで頑張る!」ってなった!――――でも沙羅浮気してた・・・。沙羅に振られたらたぶんおいら死んじゃう・・・電話してみたけど・・・反応よわい・・・おいらを選んでくれんのかなー・・・うーん、やきもき・・・。―――→完!!!

 うーん・・・この物語になにを感じればいいのでしょうか・・・。読んでしばらく考えてみましたが、なにひとつ感想が浮かんできませんな・・・。作品にちりばめられたメッセージ「あの頃の思いがどこかに消えるわけじゃない」とか「自信を持ってー」「あなたはあなたのままでいいのよー」とかも、なんというか鼻息で一掃したくなるようなしろものだし。なにが面白いんだろうと思ってアマゾンで星5のレビューとか読んでみたら、けっこう「自信をもらいました!」っていう感想が多くありまして、意外に多崎つくるという主人公に感情移入している人が多いことに気づくのです。個性のない、なんのとりえもない、そんで自信がもてない、自己評価が異様に低い、こういう人は世のなかにたくさんいますし、この小説を読んで主人公に同化して「よっしゃ、なんか自信出てきたわ」ってなる人は、それはもちろん悪いとは言いませんが、そういう人はもともとかなり健康なお方なのではないのかと思いました。生きづらさを感じている若者へのエールって書いてる人もいたけど・・・いやーすれてないですなみなさん・・・。まさに生きづらさを感じている者の代表として言わせてもらいますとボクは読んでるあいだ、終始、「多崎つくると俺は違うからなー」と思っておりました。だってあれだぜ。ラストで恋人からの電話を待ってる時にオリーブグリーンのバスローズきてカティーサークのグラス傾けながらウィスキーの香りを味わってんだぜ? オリーブグリーンってクソ緑だぜ? 趣味悪くね? そんで「孤独だ・・・・」とかつぶやいてんだぜ? 石田純一なの? 孤独ってこんなオシャレだっけ? こんなやつに感情移入なんかできませんわな・・・。しかもこの小説の着地点も、シロというミューズを失った主人公が沙羅という新しいミューズと出会うという、「けっきょく恋愛だよねー」としか言い様がないイラッとくる結論だし。なぜイラッとくるかといえば、「それができない人はどうするの?」と読んでいて頭に疑問符が湧いたからであります。これを救済とか、救いととるなら、こんな残酷な救いはありませんな。沙羅という見ただけでズキューンとなる女に物にしないと自信を取り戻せないなんて・・・。そんな女に出会えないのが大多数の人生なのに・・・。なんでこれをよしとしているんだろうって思ってアマゾンのレビュー読んでたら、ひとりぼっちな男が救済されて元気出すにはやはり沙羅のようないたれりつくせりな女性に手伝ってもらわないと、、というかこんな女性に救済されたいなぁ、、とくたびれ果てた男どもが勝手に妄想するのが沙羅なんです。って書いてあって、あぁなるほどと納得いたしました。これはつまり、孤独なサラリーマンの妄想小説なのですな・・・。いやー・・・そんなイカ臭い妄想には付き合っていられません・・・。 

 

 これ読んで、さすがに笑っちゃった。いや、正しいことは正しいんだ……
だけど、村上春樹が評価されるようになった要因を考えると、ちょっとこのレビューが切なくなる。芥川賞作家である保坂和志氏は以下のように語っている(どの本だったか忘れたので、僕が多少編集してます)。

曰く、村上春樹は「これからこういった世界が来るかもしれない」という空気感を本当に上手く表現した作家だった。
例えば『ノルウェイの森』が出た1987年当初には、「これからこういった妙に気取ったおしゃれな会話を人々がするような時代が来るかもしれない」という、そういった「予感」を文学によって語ったのが村上春樹である。
だから、2010年を超えた現在、その予感が消え去った世の中で「村上春樹じみた小説」を小説家志望が書いても「それは違う」。

以上、保坂和志氏の意見の要約終了。

この分析はやはり見事なもので、時代が変わろうが村上春樹は結局村上春樹なので、結果として上のレビューのような感想が生まれてしまったのだと僕は思う。
『色彩を以下略』を僕はまだ読んでいない。だが、村上春樹は「その当時の社会的空気、文脈」ナシで読むのはちょっとキツイんじゃないかというのが僕の意見だ。
まあ、上のAmazonレビューにあるような読み方も否定はしない。事実、笑える。
だけどちょっと浅いなあと思っちゃう。主観だけどね。

 

……さて、話を戻そう。僕は何故、村上春樹という作家について語ったのか。
それは……

 

彼に美味そうなメシを書かせると、天才的を通り越して神域のレベルであるからだ。
正直、彼の食事描写は常軌を逸脱している素晴らしさなのである。

村上春樹の文学的価値がどうのこうのと喋る気は無い。
先程の軽い分析程度は許して欲しいが、それ以上は今回何も話す気はない。


だが、これだけは間違いない。
氏の「食事描写」は、やはり普通の小説家レベルを大いに逸脱している。

これはご本人も意識しているようで、「出てくる料理を食べたいと思わせた」なら氏にとっては成功らしい。どこで読んだのか忘れたが、インタビューか何かで実際にそう言っていた。
村上春樹の小説に出てくる食事に関してまとめた本も出版されているほどである。

とりわけ、強烈過ぎる印象を残しているシーンが有る。
ノルウェイの森』の、きゅうりにノリを巻いて醤油で食べるシーンだ。


ノルウェイの森的きゅうりの海苔巻き : zizo cafe

 

 こちらのブログでも触れられている。
はっきり言って、このシーンは「神の領域」に到達している。

考えてみて欲しい。「きゅうりにノリを巻いて醤油をつけた物体」を、読者に「食いたい」と認識させる……これって本当に凄まじいことだ。
というか、「きゅうりにノリを巻いて醤油につけた物体」という存在の、この計り知れないデカさ。

別格。この言葉が相応しい。

下手すりゃ、深い思想を読者に伝えたり、大恋愛を描いたり、そんなことよりよっぽど難しいはずだ。

しかも何故そんなに美味そうに見えるのか、上手く言えないのである。こればかりは『ノルウェイの森』を実際に読んで確認してみて欲しい。
あのシーンだけでも村上春樹は神域の作家であると認識する価値があると考えている。

……さて、とりとめのないことを長々と語った。
結論を言おう。

なんやかんやで村上春樹、スゴイ!(あまり好きじゃない小説もあるけど)

 

……何の記事だったっけ、コレ?
まあいいや、また次の記事で会いましょう!では。