「誰からも愛されないなら、自分が自分を愛してやるしかないじゃないか」
こんにちは、Mistirです。
暇です。引っ越したはいいものの、机が届かないので、ちょっと不便です。だからテーブルでパソコンいじってます。
さて、上の言葉は誰の言葉でしょう。
俺だよ。
……いや、多分もう誰か言ってると思う。まあそれはいいとして……
上の言葉は、以下の記事を読んでてぱっと思いついたものだ。
ユリ熊嵐への酒鬼薔薇聖斗世代の邪悪なオタクの感想とラストの予想 - 玖足手帖-アニメ&創作-
現在放送中のアニメ『ユリ熊嵐』。これに関しても語りたいことは山ほどあるけど、今回は保留。
上の記事で気になったのは、以下の部分。
こういう人間が事件を起こすと「自分のことを大層に考えている自己愛、ナルシシズムに酔った狂人が他人の命を軽視している」と言われるのだが。当事者の実感として考えると、それはむしろ逆で「自分のことを大層に重視しているナルシスト」 と思われがちだが、実際にはそう言う人物は割と幼少期から尊重された経験が少ない。しかし、尊重されなくても死因が無いと生きているという歪んだ状態での 自分に整合性を持たせるために過大に自分に物語を付加する傾向がある。「誰にも尊重されていない自分が生きているのには、何か物語的な理由があるのではな いか」と、反射的に思ってしまう。まあ、僕もサイコパスとして32年生きてきて、僕に教育熱心だった母親も自殺して父親は半分ボケはじめるのを見ると、生きているのには特に理由もなく単に死因が無いだけであるなあ、俺も70億もいるヒトというムシの一種で雑な排卵と射精の混合物に過ぎないのだなあ、と思うのだが。
だが、若いうちはそう言うのが分からないので、「自分は特別なはずだ!」とか「特別になりたい!」って思っちゃうんだろうなあ。
これを読んで、僕は少し思い出すこと、というよりチラつく存在があった。
オーケン(大槻ケンヂ)である。ここから、ちょっとだけマニアックな話になるけど「誰からも愛されないならば」というテーマにきっちり戻ってくる(はず)なのでしばらくお付き合い下さい。
僕はある時期、『さよなら絶望先生』三期OPの『林檎もぎれビーム!』という曲の歌詞、その素晴らしさについてずっと考えていた。
聴いたこと無い人は聴いてみてください。名曲なんで。
それが無理って人は、この先「林檎もぎれビーム! 歌詞」で検索して、歌詞を読みながら読んでみてください。さすがにあの歌詞知らないと何言ってるかサッパリだと思うので。
『林檎もぎれビーム!』は、「リンゴ送れC事件」と呼ばれる事件をモチーフにした曲だ。「リンゴ送れC」とは、「宇宙人による大量破壊から救われるためのメッセージ」と解釈しておいて構わない。いわば「世界の崩壊」、「変革」の暗示だ。
で、解釈はこちらの記事を見て下さい。
絶望のこっちがわへ向かう意志(『林檎もぎれビーム!』レビュー) - すべての夢のたび。
大筋においてこの記事で言われてる解釈に同意なんだけど、クライマックスの「エブリシンガナビーオーライ!」以下の解釈はけっこう異なります。
Aメロ以降、歌い手にネガティブな要素として突き付けられている「お仕事」「マニュアル」っていう言葉が、クライマックスで「明けぬ夜はない」(なぜなら)「それがお仕事でマニュアルだから」っていう、微妙な価値転換が行われてるんですね。
これを上の記事の筆者さんは「どんがらがっしゃん」と捉えてるけど、僕はちょっとだけそこに意味を加えたい。
要はこれって「価値観が変わる瞬間」、つまり「大人になる瞬間」の歌なんじゃないかと。世界を受け入れろっていう。確かに「どんがらがっしゃん」なのかもしれないけど、その先がある。
お仕事であり、マニュアルであることを受け入れた瞬間、「たとえ向かうべき場所が決して届かない」としても、少なくとも苦悩や悲しみ、「まだ探してさえいない」ような状態を脱することができる。3回あるサビのうち、前の2回は「でもどこへ行ったとて同じだろうか」という「躊躇い」で終わっていますが、最後のサビだけは「さあ行こうぜ」という叫びで終わっています。これは、状況は変わらなくても解釈が変わることで何かは変わるんだっていうことなんじゃないかと。メッセージソングってわけじゃなく、ただあるがままの事実を曲として提示してる気がします。
大槻ケンヂの小説『グミ・チョコレート・パイン』にも似たようなこと言ってるジジイが登場します。受け入れろ、と。世界を。そうしないと、どうしようもない。
と、こういったことを高校の頃ずっとずっと考えてました。その結果、文学部に進学しテクスト分析することになりました。
というのは余談です。
さて、本題である、先程の引用に戻ります。
こういう人間(※機能不全家庭で育ったサイコパス)が事件を起こすと「自分のことを大層に考えている自己愛、ナルシシズムに酔った狂人が他人の命を軽視している」と言われるのだが。当事者の実感として考えると、それはむしろ逆で「自分のことを大層に重視しているナルシスト」 と思われがちだが、実際にはそう言う人物は割と幼少期から尊重された経験が少ない。しかし、尊重されなくても死因が無いと生きているという歪んだ状態での 自分に整合性を持たせるために過大に自分に物語を付加する傾向がある。「誰にも尊重されていない自分が生きているのには、何か物語的な理由があるのではな いか」と、反射的に思ってしまう。
ここ読んで、凄く考えこんじゃうんだよな。
独断的な言い方だけど、オーケンの曲に何かを感じちゃった経験があったら全員、どうしようもないくらいの「何か」を感じるんじゃないか?僕がその1人なんだけどさ。
ナルシシズムってとってもとっても難しくて、「自分が好き」ってだけじゃ語りきれない。そりゃ精神分析の専門家とかなら「分かる」って言えるかもしれないけど、結局どういうことなんだよ、と。
例えば、鏡に写る自分の顔見て「今日もイケメン♪」って言えたり、鏡に筋肉写して「今日もマッスル♪」って言えたり、そういう「ナルシスト」なら別に全然難しくない。
全然、難しくない。
難しいのは、そう。「自分の価値を感じられないから」こそ「自分に(独自の)価値を与えるしかなかった」というタイプの人間。
このタイプの人間は、程度に差こそあれ山ほどいるし、ついでに言えば自分のナルシシズムに気付いてないことも多いだろう。
それが「悪い」と言ってるわけでは決して無い。そんなこと言う権利は、僕にはない。
さらに言えば、「自分に(独自の)価値を与えるしかなかった」カッコ内の「独自の」の部分を変えることによって、いくつかのタイプがあらわれる。
「自分に(高給取りであるという)価値を与えるしかなかった」「自分に(高学歴であるという)価値を与えるしかなかった」「自分に(英語ができるという)価値を与えるしかなかった」……ここまでが比較的客観的なスペック編。
「自分に(俺は他の奴らと違うという)価値を与えるしかなかった」、言い換えれば「自分に(俺は特別だという)価値を与えるしかなかった」……。こういう生き方を、大槻ケンヂや滝本竜彦といった作家は詳細に描いてる。とりわけこの両者はこの「俺は特別だ」って感情と「俺には何もない」っていう認識の間の「ゆらぎ」みたいなものを描くのが滅茶苦茶上手い。
例えば滝本竜彦の『ネガティブハッピー・チェーンソーエッヂ』って作品で描かれたのは、「チェーンソーで戦う美少女戦士をサポートする自分」の特別性だ。これは「いい大人」なら「アホくさい」と斬って棄ててしまうかもしれない。この感覚は、おそらく分かる人にしか分からない(分かったからといってエライわけではない)。
そして最終的に「チェーンソー男と心中することで、『死』という究極的に固定された価値を手に入れたい」という望みを抱き始める(本当はもっと複雑だけど)。
これは極めて高校生的な、分かる人にしか分からない願望だ(分かりすぎちゃった人は大学でバタイユを研究し始めたりする。冗談だけど)。
そして、「自分に『大量殺人すらもできる』という価値を与えるしかなかった」……物語では語り尽くされてきたテーマです。
もちろん、「現実にあった犯罪」を「分かりやすく」「物語」として捉えるために、動機を決めつけるのは短絡的な思考停止なので、そういうことはしません。
ただ、そういうテーマもあるなぁ、っていうだけです。
最初の話に戻ります。
誰からも愛されないならば。「どうするか?」って解答を求めてこの記事を読んでくれてる人はいないと思うけど……
キレイ事を言えば「社会貢献は誰でも出来る、誰でも社会の一員になれる」的な話に持って行くことも可能なんだろうけど、あえて僕は「誰からも愛されないこと」の不条理さを見つめたい。
家庭ってモノには歴然とした差があって、家族ってモノにも歴然とした差がある。例えば秋葉原の通り魔事件の話とか聞いたことがあると思うけど、おぞましい話だ。
詳しくはググってください。語るのも厭になる。
ああいう家庭が現実的にあることを考慮せず「みんな平等だ」なんて言っちゃうことがそもそも「暴力」だと僕は思っちゃう。どうしようもないこともある。
でも、自分が「どうしようもなくない」状況であるならば、……うーん。
その状況に感謝するしか無いね。
あ、本題に戻ろう。
「誰からも愛されないならば」、「自分が『まずは』自分を愛するしかない」……「ならば」、「誰かから愛されてる人は」、「自分を(なんらかの形で)愛している人を『ナルシスト』と断罪するのは、やめてくれ」。
うーん、結局よくわからないけどね。
多分大多数の人が最終的に自分を愛することと、自分を憎むこととの間、厳密に言えば自分の劣る部分を憎むこととの間で揺らぎながら生きている。
間違いなく言えるのは、それが自然であって、なんら他者にとやかく言われることではないってことです。
……昼ごはんでも食べようかな。
それではまた。