こんにちは、Mistirです。
東京の引越し先が決まりました。これから忙しくなりそうです。
今回は備忘録的な記事です。時折、努力のこととか自己啓発のこととか書いてきたんですけど、最近明確なビジョンの変化があったので、自分のためって意味も込めて考えつつ書いてみようと思います。それこそ、「気楽に」ね。
自己啓発本に、元気な言葉に何も感じない人へ - MistiRoom
この辺りで語ってきたことの、いわば「解答」です。ついでに言えば
この記事で触れたことに対する「解答」でもあります。
要は、
「何一つ覚悟せず」
「何一つ背負わず」
「何一つ努力せず」
「何一つ苦労しない」生き方こそ至高なんじゃないか?って仮説。
以前、ヤンキーみたいな旧友とメシ食いながら、そいつが言ってたことが妙に印象に残ってる。
「居酒屋経営しながら人動かして、自分はずっとパチンコやって生きていたい」って。
そいつね、「宝くじ当たればいいなあ」みたいな願望系で言うんじゃなくて、明確に目に力込めてこう言うのよ。正直そいつは「お勉強ができる」奴じゃないが、妙なカリスマ性のあるヤツで、「こいつなら実現しちゃうんじゃないか?」と信じさせる謎の力があった。
妙に印象に残っている。
「こいつなら実現しちゃうんじゃないか」っていう感触。
僕はずっと努力やら覚悟やら、そういったものの必要性ってことに関して考えてきた。でも結局、結論は出ずにいた。「やるべきことはやらないといけない」ってのは間違いない。例えば、英語の勉強せずに英検1級は(ほぼ)絶対に取れない。無勉強で司法試験合格も(ほぼ)不可能だ。絵は描かないと上手くならない。音楽理論を一切知らずに、作曲……は稀にやってる人いるから例としてはよくないか。
とにかく、何か目標に向かっていく「動き」がなければ、何もできないわけだ。
極端な話、コーヒーを飲みたいと思っても「水道水を汲んで」「コーヒー豆をコーヒーメーカーにセットし」「スイッチを入れる」程度の動きは必要だ。
努力云々なんてその「おまけ」みたいなもんだろう。結局、やることやればいいのだ。
だけどまぁ、コレが難しい。
「禁煙したい?簡単ですよ、タバコをやめればいい」
これで納得する人がいないから、世の中にはたくさんの自己啓発本が溢れている。
でもみんな、知ってる。それは解決に(だいたい)役に立たない。
ついでに言えば、大きな成功を大きな自制心によって果たした人間でも、ある領域に関して言えばダメダメだって例もある。僕の読んだ本に書いてあったんだけど、例えばオバマ大統領。彼の政策がどうであれ、「大統領になる」って並々の人間にはできることじゃない。「努力すれば誰でもアメリカの大統領になれますよ!」なんて言ってる人がいたら、即座に精神を疑われてしまうだろう。
だけど、そんな「成功」を手に入れたオバマ大統領は、禁煙を何度も失敗している(今は成功したらしいけど)。
つまり、禁煙を一発で成功した人間はその点においてオバマ大統領を上回ってるわけだ。
でも、これくらいのことなんて山ほどその場に転がってる。一流経営者でもギャンブルだけはやめられなかった。一流俳優だけど女遊びはやめられない。
だけど、そんな自称「一流」たちが努力や自制心やらの強さを説く。
もちろん、短絡的に「だから努力は不要なんだ」なんて話じゃない。コトはそんなに単純じゃない。
ここでスッゲー参考になるのが、所ジョージ(敬称略)の言葉。
所ジョージさんの名言「苦労とか努力っていう人はたぶん才能ないんだと思う」から考える諦めの重要性| らふらく^^ ~ブログで飯を食う~
この言葉が、物凄く僕のもやもやを解消してくれてる。
人生を楽しくする所ジョージさんの言葉 - NAVER まとめ
この記事とかを読んでると、所ジョージって人は凄く「ゆるい」印象になるかもしれないけど、書いてあることは結構厳しいぞ。
最近この人の考え方が凄く僕に馴染んでくる。僕は基本20年ちょい生きてきて、松岡修造とか岡本太郎とか、そういう「熱い人」をビジョンにして生きてきた。
実際、僕は自分で言うのも何だが、結構熱い。でも同時にエラく退廃的な至高も兼ね備えてる。極端に暗いものを好む思考もある。
どっちが自分の本質かなんて、そんなこと考えることに意味は無い。自分の本質なんてどこにも無いからだ。
だけど、もう「熱さ」だけで生きていけないって思いはじめて来た。いや、そもそも僕が本当の意味で「熱かった」ことは無いのだ。
話が脱線してきているが、もう少しお付き合いいただきたい。
僕は、あるいは僕らは例えば『ワンピース』の「海賊王に俺はなる!」と言って、そう決めておいて、そこに一直線に進むって物語が、あるいは『NARUTO』の「火影(一番エライ忍者みたいなもん)になるってばよ!」っていうストレートな物語が大好きだ。
もっと現実的な話をしよう。イチローが「野球選手」になるために生きてきた人生を眺めてみて、「努力して結果を掴んだ」って物語で捉えるのが大好きだ。
もちろん、それはそれでいい。
でも、そう生きられない人間がいる。
その「物語」から弾かれた人間がいる。
そういった人間に、教育は、世の中は「夢を見ること」「夢を語ること」「夢を追いかけること」の素晴らしさを説く。
僕はもう、うんざりなんです。僕みたいに基本は夢の無い人間はどうしろと?
死ねと申すか。
例えばこのツイートよ。
六年生にもなって、きみは目標も持たず、ただぶらぶらと今まで過ごしてきたのか。 pic.twitter.com/YOHvbZ2ihG
— 寺沢拓敬 (@tera_sawa) 2014, 12月 20
このツイートの「校長先生」、何言ってるんだろう。
極論、僕はこういう考え方って職業差別だと思ってる。
例えばだけどさ、小学生が「国税専門官になりたいです!」って親の影響以外で言うと思う?職業について知るのって難しい。あとこの校長はペタンクって競技を知ってるのだろうか。知らないなら、この発言は間違ってる。この校長は「ペタンク世界一になる」可能性を自ら閉ざしてるのだ。
……我ながら分かりにくい。要は、結局人は知ってることでしか世界を判断しない。結構な年数生きてきても知らないことは知らない。知らないことに対して、目標は持てない(例えば、ペタンクを知らない人間が「ペタンク世界一になる」って目標は持てないし、国税専門官の職務を知らない人間が「国税専門官になりたいです!」って言っても、それは嘘の目標だ)。まして、小学生なんて基本的に何も知り得ない。「小学生でも学ぼうと思えば何でも学べる」という意見もあるかもしれないが、例えば小学生が「AVの監督になりたいです」とか「煙草売りたいです」、「バーテンダーになりたいです」とか、そう言ったとしたらどうする?「その職業に就く必要はない?」職業差別じゃないっすか。
要は、小学生に目標なんていらないってのが僕の考え方だ。カブトムシつかまえたいとかムジュラの仮面3DS欲しいとか、その程度で十分。
話を戻そう。「夢を叶える」という暴力から逃れるべき僕らは、どう生きればいいのか(夢がある人のことを否定は一切しない。僕らに関わらず勝手に叶えてくださいってだけで)。
上に「人生を楽にする所ジョージの言葉」ってあるけど、ありゃ多分、結構「難しい」生き方だ。
「遊びがわかってないね、まずは一生懸命暮らすこと」
この言葉の重さ。
プロゲーマーのウメハラは、テレビのインタビューで90歳近い団子屋のばあちゃんが「毎日、変わらないことを続けるのが、いっちばん大変」って言ってたのを聞いて鳥肌が立ったそうだ。
どうしようもないほど、普通の言葉。どうしようもないほど、聞き飽きた言葉。
でも、何故この言葉に途方も無い重みを感じるのか。
誰でも解ってる、この言葉に。
その答えは多分色々あるけど、少なくとも言えるのが「この(毎日)続けるっていう『いっちばん大変』なことをどうやったら僕らができるようになるのか」ってことだろう。
ここで、経営者的な、人生に成功した人的な言い方をすれば「覚悟を決めること」とか「目標を定めること」、「期限を明確にすること」、とか、自己啓発本によく書いてある内容に帰結するんじゃないかと思うんだけど……
あえてここに、所ジョージのさっきの言葉をぶつけてみる。
「 苦労とか努力っていう人はたぶん才能ないんだと思うよ」
多分、この言葉によって「人生を否定」されちゃう人は少なく無いだろう。
事実この言葉にも疑問点はある。例えば筋トレ。きつい筋トレそのものが、「ケーキを食べるのと同じように」好きな人はいないだろう。結論部分にある「マッチョマンの自分に憧れて」(プラスに近づく欲望)、あるいは「醜い体型の自分(になること)を怖れて」(マイナスを避ける欲望)、つらいトレーニングを進めるわけだ。
もちろん「ハードトレーニングそのものが快感になっちゃった」っていう人は少なく無いだろうが、それよりももっと「つらくてやめちゃった」って人の方が多いことは想像に難くない。
「筋トレつらいならやめちゃえ、向いてないから」……そんな無茶苦茶な話はない。もちろん、所ジョージもそういった意図で発言してないと思う。
じゃあどういう意図?って僕が解説なんてできないけど、解釈ならできる。
「筋トレに向いてる人」ならいる。美しい肉体への欲求が結構強くて、つらいトレーニングでもある程度気楽にやれる人のことだ。
「筋トレに向いてない人」もいる。筋トレしないといけない、っていうプレッシャーで幸せに生きられなくなっちゃうような人だ。そういう人はちょっと締りのない体型でも、幸せに過ごした方がいいのだ、多分。
僕は「健康に対する強迫観念」が嫌いだ。タバコをめぐって、こういう「強迫観念」はよく見られる。「タバコは健康に百害あって一利なし、全面禁止にしろ」的なアレ。だけど、僕は「不健康である自由」ってのがもっと大事にされるべきだと思う。
結局のところ、みんな幸せならいいのだ。幸せは他者に定義されるもんじゃない。
……アレ、何の話だ。
そうそう、筋トレに向いてるとか向いてないとかの話だ。
さっき言ったように、筋トレにでも何にでも、向いてる人と向いてない人がいる。それは「才能」って言葉で語ると、本質を見失ってしまう。
例えば筋トレで言えば「美しい肉体への欲求を筋トレの苦痛を紛らわす程度あるいはそれ以上に持っていること、持てること」、それが「才能」の具体的な説明になるだろう。
この「〜(目標達成)への欲求を〜(目標への障害)の苦痛を紛らわす程度に持っていること、持てること」を「才能」って言い換えた僕に、ノーベル賞が授与されるべきだと思う。
ノーベル賞が無理なら、誰か1万円くれませんか。家具買うんで。
冗談はさておき。
このカギ括弧付き「才能」って、生まれつき云々もあるし、本当に「偶然」でもある。
要は、「どれだけお前の欲求は強いの?」って話。
自己啓発本の「目標を明確にしましょう」がある意味的外れだと思うのは、「目標を明確にしたところで、それが強い欲求じゃないなら達成出来るわけ無いじゃん」ってところ。「本当の欲求じゃなくても紙に書いたりすることで無理矢理『本物の欲求』と認めさせましょう!」って意味なら分からないでもないけど、でも「自然と生じた欲求」じゃない限りなかなか続かないってのは殆どの人が経験してると思う(どこまでが「自然」なのかって議論は別にして)。
ここで、所ジョージの言葉が大きな価値を帯び始める。
「苦労とか努力っていう人はたぶん才能ない」の重みが。
苦痛を和らげられる程度の欲求を持ち得ないなら、さっさとやめちゃえばいいのだ。
生き方はいくらでもある。
「どうしてもやめられない」こともあるだろう。これまた極端な喩え話だが、刑務所で服役してる人に向かって「嫌なら服役をやめろ」って言ってもそりゃ無理だ。でも、今回はその話はまた別。
「苦労や努力をすれば」「海賊王になれる」の完全な否定。それがしたかった。
で、否定した先に何があるのか。
タイトルの「何一つ覚悟せず生きる」ことに戻ろう。
反発を招くことを「覚悟して」、あるいは「覚悟せずに」言おう。
「覚悟は目標達成の足枷となる」と。
そう、まさに足枷。フレキシブルな生き方の妨げ。自由からの断絶。あえて自分を不自由に投げ込むこと。
だったら覚悟せず、ぐうたら生きてたらいいのか。
違う。覚悟しないことは、ぐうたら生きることを意味しない。
要は自然な欲求に従えばいいのだ。(それが出来るかどうかは別にして)1ヶ月も何もせず過ごしたら、大抵「何かしたい」となるだろう。そこで、その欲望に従えばいいだけの話。
こんな仰々しいことを散々書いたけど、要は……
「気楽に行こうぜ」ってことです。
僕は色々考えちゃう人間なので、「気楽に行く」っていう結論に辿り着くだけで20年以上かかりました。
「気楽に行く」ってなんか、物事やそれこそ目標達成に対して諦めてる感じがして、好きじゃなかった。
だけど、目標達成を最も現実的に捉えて、最も実現可能性を高めるやり方って気楽にやることなんじゃないかと。
下手すりゃ『ワンピース』も『NARUTO』も否定する言い方だけど、「覚悟を一々引っぱり出さないと達成できないような目標に達成価値はない」のかもしれない(他者から与えられる目標、社会人のノルマとかそういうのは別ね)。
まあナルトもルフィも「子どもじみた」欲求を持ち続けられる人なんだけどね。この「子どもじみた」の部分がホント大事で。ある程度の歳を超えると子どもじみた欲求に子どもじみた考え方で近づくことを否定されたり否定したりしがち。
だけど、それが一番大事なんじゃないか。
別にフィクションで例えなくてもいい、それこそイチローで例えてもいい。イチローは自己啓発本を読みまくってから野球選手を目指したのか?成功法則を考えて挑んだのか?
多分、考えていない。勿論僕らの想像を絶するハードワークはしてきただろうが、同時に僕らの想像を絶する欲求があったのだろう。
だから、イチローのマネをしても、絶対にイチローにはなれない。
「気楽」って言葉にこの場合違和感があるから、「自然」って言葉を使おう。少年イチローにとってバットを振ることは「自然」なことだったんじゃないのか。
僕らは、少なくともこんなブログ読んでくださってる方は、イチロー的な生き方じゃないと思う。
でも、今から何かしたいことを見つけて気楽にやってみることはできるのだ。
じゃあどうやったら気楽(自然)に生きられるのかって、そんなこともう知らん。
自然になろうとしたら不自然になる。
……ま、多分少なくとも僕は、こんな感じでいいのだ。
どんな感じかは知らねえけど。
さて、旧友の言葉をもう一度引っ張りだしてみよう。
「居酒屋経営しながら人動かして、自分はずっとパチンコやって生きていたい」
この欲求は強い。この言葉を発せる時点で、そいつには多分、才能があるんだと思う。
僕には「パチンコだけやって会社経営しながら生きて行く」「才能」はない。この「才能」は「欲求」と言い換えてもいい。
「才能」って、結局「欲求」なんだよ。それが「向き不向き」ってことだよ。
「才能不要、努力が全て」みたいなこと言う人間は反省するように。
「才能は必要です、だって才能は欲求だもん。でも才能がないからって悲しむ必要はなし。才能がないなんて、そんなことあるわけない、欲求はあるでしょ。何、欲求が無くて悲しい?欲求を持ちたいって欲求があるじゃん、それ才能だよ」。僕の全くありがたくないお言葉です。
向いてないことはやらない方がいい。
向いてないことをやらずに生きていくための「努力」。
何事も覚悟しない覚悟。
何事も背負わないという覚悟を背負うこと。
ここまで来ると言葉遊びだけどね。
あと5年くらい経ったらこの考え方変わるかもしれないけど、ま、そのときゃそのときで。
みんな、明日のことなんて考えず、気楽に生きようぜ。
多分、それが一番「実用的」だぜ。
そんなお話でした。
ではまた。
……それにしても、岡本太郎尊敬してた人間が所ジョージを尊敬してるって言うようになるって方針大転換にも程があるなぁ。まあいいや。