Midnight Note

明日はどこまで行こうか。どこまで行けるだろうか。

冷笑と情熱、そして平成が終わる

こんにちは、Mistirです。

夢を追いかける大人が嫌いだ。
いや、厳密に言えば好きじゃないだけで、嫌いじゃない。
あるいは、嫌いとか好きの軸じゃなくて、ただただ苦手なのかもしれない。

言い換えよう。
夢を夢のまま消化できる大人が苦手だ。

「困ってる人の役に立ちたいから医者になりたいです」と言われるより、「年収5000万円稼ぎたいから医者になりたいです」と言われたほうが、よっぽどリアリティがある。
「社会貢献」?
クソくらえ、だ。
個々の欲望の果てに社会は生まれるものだろう、欲望の前になんで社会が存在するんだ。

そして僕はいつの頃からか、僕の言葉を使うとするならば……「抽象的レイヤーでの欲望に従って努力できる人たち」に、本能に近いレベルで嫌悪感……あるいは苦手意識を覚えるようになってしまったらしい。

発端は、多分高校時代にあると思う。


 

僕は「勉強してますよ」的な雰囲気を出してる奴らがことごとく嫌いだった。「頑張ってますよ」っていう雰囲気が大嫌いだった。
だって、君らが頑張ってる雰囲気出してる間に、僕は君らより圧倒的に良い成績取ってるんだよ?
徹底的な現実主義。あるいは合理主義。少なくとも勉強においては、それこそが僕にとってのファースト・プライオリティだった。

無駄、なれ合い。そんなものは邪魔でしかない。
ただただ、最短効率、最適なやり方で、最高の偏差値を取ればいいだけだ。
頑張ってるとか頑張ってないとか、そんなことはなんの関係もない。
頑張る理由?そんなもの、偏差値80を超えてから考えればいいのだ。

「頑張ってる」やつらの「頑張ってる」方法を、先生たちは勧める。
その方法はただのノイズだ。無視して、僕は誰にも追いつけないような成績を取る。

抽象的な「頑張り」を振りかざしてるやつに、僕は決して負けない。
僕は事実、勝ち続けている。

それでいいのだ。
それでいい。

……それで勝ててる、うちは。

……後々、気付く。

「抽象的な目標に愚直に向き合えて、努力できて、さらに効率的な方法を取れる奴らに、ただただ効率的な方法を取ろうとしてる奴は、一生勝てない」と。

気づいたときには、もう遅い。
効率と合理性を追い求めた人間に、抽象的レイヤーでの頑張る理由を探すのは、とても、とても、とても荷が重い。重すぎる。
なんでそんな抽象的レイヤーの目標で真っすぐに頑張れるの?
結局、君らは何がしたいの?

それはいつしか、僕の大きなコンプレックスになった。
そして僕は、僕がなにがしたいのかよく分からなくなった。

さて。
「抽象的な夢を語る大人」と、「非効率的な努力」を結びつけるここまでの議論に疑問を覚えられた方も多いかもしれない。
確かに本来、それらは明確に別軸で語られるべきものだろう。それ以前にそもそもそれらは本来、何の関係もない。

だが、社会人になってから気付いた。
社会人にとっては、「努力」の価値が学生のそれよりも急激に上昇する。「ちょっとでも」努力しているだけで、周りと大きな差がつく。

それこそ、「馴れ合いチックなものであったとしても」、努力に身を投じてる人間とそうでない人間が雲泥の差であることを、僕は大学以降で学んだ。
そして、大学を過ぎても少なからず「努力」を継続できる人間で、「抽象的レイヤーでの目標」を語れない人は、そうそういない。
少なくとも僕は、見たことがない。
彼らは、自分なりの「使命感」に準じて生きている。

僕はどうだ?
そんなものは微塵もない。持ちたくもない。

だから、頑張れないのだ。
あるいは、そんな言い訳を旗印にして、頑張らないのだ。

そんな自分が嫌いだった。
嫌いだった、……が。
最近は、それはそれで良いかと思うようになっている。

どうやら、僕のような人間は目立たないだけで途方もなく多いようだ。
その割に、僕のような人間はあまり声を上げない。
それもそうだ。
声の上げ方がわからないのだから。どっちに向かって声を出せばいいか、分からない。

ただ。
本当に不思議なことだけれど、ここに挙げたことをはじめとして、あらゆるものごと……特に非合理的なものごと、あるいは「馴れ合い」に属するような行動、あるいは具体性を欠く事象を冷笑してきたはずの僕の中には……
まったくもって不合理な、よく分からない情熱があった。

多分、その情熱はほぼ100%、怒りなのだと思う。

分からないことに対する怒り。興味を持ちきれないことに対する怒り。やり切れない怒り。

自由になれない、なりきれない、怒り。

その怒りは、やりきれなさは、うっすらと膜のように、夜の帳のように、僕の人生そのものに覆いかぶさっている。今も。
が、何度も言うように……
それはそれで良いのだ、多分。
こういう生き方しかできない。なら、こういう生き方を好きだと言ってくれる人を愛そう。こういう生き方を好きだと言ってくれる人に、愛されよう。
それで良いのだ。

さて。
あと2日で、令和だ。
平成が、終わる。

それをどこか冷笑気味の頭で眺める僕がいる。
天皇の代替わりも、いわば共同幻想だ。
実態的なものは、何もない。
何も変わらない。
平成31年4月30日11時59分59秒と、令和元年5月1日0時ちょうどの違いは、たったひとつ。「1秒の差」。それだけの話に過ぎない。

……だが。
その共同幻想から、連休が生まれる。活気が生まれる。カネが生まれる。自由が生まれる。愛が生まれる。何かが生まれる。

もしかすると、僕が冷笑してきた何かは、想像以上に何かを生み出していたのかもしれない。

……だったら、同時に。
僕のこの冷笑からも、何かが生まれているのかもしれない。
そうだ、それはいい考えだ。
その情熱の中に、僕は生きよう。
それはひとつの良いアイディアだ、きっと。

……平成が、終わる。
感慨深いとは思わない。

……。

……ごめん、嘘だ。
やっぱり感慨深いや。それがたとえどんな「共同幻想」に過ぎなくても。何かを生み出してるとか、生み出してないとか。そんなこと関係なく。

ひとつの時代が、自分が生きてきた時代が、終わる。

それは僕が決めたものではなく、誰かが決めたものだ。
でも、それを受け容れてもいいのかなと、僕は思う。
受け容れようが、拒絶しようが、それはやってくる。
平成が、終わる。令和が、来る。
次の時代が、来る。

僕はどう生きる?


とりあえずGSX-R1000欲しい。理由?世界一カッコいいからです。
カッコいいもの欲しいのは抽象的?共同幻想?いいえ、違います (理由なき断言)

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http://www.suzukicycles.com/Product%20Lines/Cycles/Products/GSX-R1000/2017/~/media/9216339442A2418CB66B6101AFA88D9B.ashx


お読みいただきありがとうございます。
ではまた、変わらず、次の記事でお会いしましょう。