Midnight Note

明日はどこまで行こうか。どこまで行けるだろうか。

朝日新聞の投書から学ぶ「善人」の「気持ち悪さ」

こんにちは、ひねくれ者のMistirです。

 

さて、今回は前回の記事の続き。

mistclast.hatenablog.com

前回は「結局善行だって思うなら誰がどー思ってもやりゃいいじゃん」っていう非常につまらない結論に至りました。
つまらない結論なのはまあ、なんというか仕方ない。別に「変な結論だから真理」ってわけでもないしね。

 

さてさて。
今回は結構変わった話を。
「善人って嫌だねぇ」って話です。
とはいえ、「善行をする奴は嫌なやつ」みたいな話じゃない。結論から言っちまうと、「善の受け入れを強制する奴はダメだね」って話です。

 

この記事をぜひ読んでほしい。

girlschannel.net

僕、コレ読んで「地獄じゃねえか」って思ったんですよ。

このコメントが象徴的かなって思ってさ。

21. 匿名 2015/10/29(木) 21:21:22 [通報]
ひねくれたじじい 
人の好意はありがたく受けるもんだ

この掲示板に書き込んでる大半の人は「善人」だと思うんです。
ただし、おそらく皆さんの想像してる「善人」とは意味が違います。
後で詳しく語ります。


さて、議論に入る前に、前提条件として「老人」のしたことを分離しよう。

老人は善意を受け、

①「罵声を浴びせた上で」

②「それを批判した」

 

僕の考えを最初に言っておくと「①=口が悪かったこと」は十分に批判されて良いと思ってる。それも、当事者たる中学生によって。
どういうことかっつーと、中学生は老人に以下のように言い返せば良かったのだ。

「なるほど、確かにあなたは僕の欺瞞を感じ取ったかもしれない。だがそこまで憶測で語られる言われはない!僕はあなたの罵声に傷つけられた、その一点において撤回を要求する!!」と。

……どこのロボットアニメだ。さすがに無理だね。


まあこれは無茶苦茶だとしても、やっぱり……

f:id:Mistclast:20151108131818j:plain


この対応、つまり「新聞に投げて皆に同意を求める」のは「おかしい」。
別に「同意は求めてないのかもしれない」が、「自分は人助けはするタイプ」と主張しているあたりに大いなる「腐臭」を感じる。
極論、こういった考え方の中学生は「危うい」から、今のうちに「老人」から学べて良かったじゃないのとさえ思う。

でも、どうもそれを「学べない」方々は世の中に多いらしい。

学ぶべきことはたったの一つ。いや、二つかな。
「善は相手に見返りを求めてはならない、少なくともこの事実を認識するこれだけ。
そこからさらに追加するなら「それでも貴方が善を遂行するならやればよい」だけだ。

 

何故相手に見返りを求める「善」はもはや「善」ではないどころか「悪」になるのか?
簡単に言えば、相手に見返りを求める「善」は契約書の無いビジネスと同じで、「押し売り」と同じだから。

この「中学生」は見返りを求めてない?
いやいや、十分に求めてると思うよ。「感謝」という見返りを。
いや、違うかな。「そういうことをした」という自己満足。

誤解してほしくないんだけど、僕はそれ自体を「ダメ」とは言わない。だからこそ「少なくともこの事実を認識する」って言ってるわけだ。
ぶっちゃけ、よほどの聖人君子じゃない限り「感謝される程度の見返りも求めず善を行う」なんて無理だと思う。だから、別に求めたっていい。
大事なのはその後。結果として「受け入れられないかもしれない」こと、受け入れられないどころか「石を投げられるかもしれない」ことを認識すること。
そういうこともあるよなって。

そのとき「石を投げられた」ことに対して
「どうして石を投げた!」と批判するのは間違いじゃない。
だけど……
「どうして『こんなに善いことをしたのに』石を投げた!」となってしまうと、腐臭が漂うのです。


社会的な了解として……僕の嫌いな言い方をすると、「常識的に考えて」。
「席を譲られると嫌がる人なんていない」って思う人が多いのは、まあ分かる。
だけど現実的にそれを嫌がる人もいるのだろう。

 

そのときに「俺の善を受け入れなかった」ことを非難するとすれば、それは最早「善」でもなんでもなく、「契約書の無い押し売り」と同じ。

犯罪レベルなんですよ。

ぶっちゃけ。

ただし、「良かれと思ってやったのに逆に殴られた!これも批判しちゃダメなの?」というのは違いますよね。殴られたことは批判していい。
そういう話なんです。

もしさっきの画像。

f:id:Mistclast:20151108133616j:plain

これが本当に「中学生」だと仮定すると、今なら間に合う。
どうせこんなブログ読んでないだろうけど、考え方を改めたほうが良い。
僕は良き大人じゃないけど、この「中学生」には以下のように言いたい。
「それは災難だったね、酷く口の悪い大人もいるものだ。だけど、君が良いと思ってやったことは必ず相手を喜ばせるとは限らない。こういうこともあるんだって解った上でやることだね。きっと多くの人はそれを喜んでくれる。それを喜んでくれる人のためにやればいい。あと、君は『理解を超えた言葉』と言ったね? それは『理解しよう』と努めなければダメだよ。老人は『俺らに気を使うな!』っていう言葉を非常に強く言っただけなのかもしれないだろう?『老人扱いするな!』と言いたかったのかもしれないだろう?じっくり考えないといけないよ。その上で、『学校で教えることは良いことだから』なんていう『薄い』理由じゃなく、自分だけの『強い信念』として『良いこと』を行えばいいんだ」

ってね。

こんな風にグダグダ語ったのは何故かっつーと。

『「良かれと思って」の行為なら必ず受け入れなければならない』……

こんな世の中が心底「地獄」だと思ってて、かつそう言ったことに一切疑いを挟まない「善人」たちが反吐が出るほど嫌いだからです。
この記事で最初に語った「善人」のニュアンスはそう考えてください。ただの「善行をする人」じゃない。

 

girlschannel.net


もうざっと見て吐き気がして全部は読んでないですが、もうアレだね、地獄絵図。
感謝しない人間を集団で全力で非難する、善人たちの地獄絵図。


ましてや「団塊世代が」なんていう論法を持ち出してる人間には吐き気を通り越した感情さえ覚える。
そうやって、「本質」は見逃されていく。
「席を譲られたら感謝するべきだ」という極めて「善良で健全な」考え方によって。
そうして、「俺は席を譲られて不快になった」というマイノリティ的な発想は封殺されていく。

非常に参考になるというか、僕のこういった考え方の骨格になってるのが哲学者・中島義道の考え方。
直球ドストレートにこんな本さえ出してる。 

善人ほど悪い奴はいない  ニーチェの人間学 (角川oneテーマ21)

善人ほど悪い奴はいない ニーチェの人間学 (角川oneテーマ21)

 

まあ、ちょっと僕は影響されすぎてる気がして、それはあまり良くないなーとも思ってるんですけどね。

 

はっきり言って「健康で善良な」思想の人のほうが多分多いんだと思う。
僕みたいな考え方をしてると、疲れちゃう。
でもその上で言おう。
善人共が気持ち悪い、と。
地獄を作り出している、と。

 

その上でさらに言えば、「マイノリティに配慮する世の中」の真の姿は「老人」的な思想……ひねくれた思想が大いに認められる、跋扈する世の中なんじゃないかと思ってる。

パッと見ると綺麗な「みんながみんなに感謝する世界」はね、「マイノリティに配慮しない地獄」に地続きだ。
このことを強く認識して、どうも上手く噛み合わない世の中を楽しみましょう。

 

お読みいただきありがとうございました。
ではまた次の記事で。