こんにちは、Mistirです。
最近世間を賑わせてる夫婦別姓の問題だけど……
この話は色々議論されてるから、僕はちょっと別方向から語りたい。
……いつものことやね!
みんな、名前にこだわるんだなぁ……って話だ。
突然だけど。
みんな、名前ってそんなに大事?
ここで言う「名前」に深い意味は無い。
「有名」の「名」だとか「名誉」の「名」じゃない。
あなたが田中太郎さんだったら、その「田中太郎」のことだ。
山田花子さんだったら、その「山田花子」のこと。
結論、そして極論を言っちゃうと……
名前にそんなに執着する意味、あります?
いや、そりゃさぁ……「長いこと一緒に生きてる分愛着が湧く」っていうのは分かる。
でもさ、名前なんて自分が頑張って手に入れたものでもなければ、予め備わった才能のようなものでもない。
もちろんこの理屈で言ってしまえば、「じゃあ貴方が男であることも『頑張って手に入れたものじゃない』んだから、貴方は明日女として生きて行けるのですね?」と反論されてしまうかもしれない。
だけど「名前」と「性別」には同じ「生まれつき決められたもの」という点以上に明確に違う点がある。
性別は生物の問題だけど、名前はシステムの問題だってことだ。
性別は気楽には変えられない。
もちろん、身体は男性だけど心は女性って方はたくさんいるだろう。でも、今はそういった話をしてるわけじゃない。
「今まで男性として生きてきた精神も男性の人が、明日から急に女性になれるか?」って話だ。
多分、なれないだろう。
でも「名前」は?
「明日急に名前を変えるとして」。その際の面倒な部分って、システム的な部分だけじゃない?戸籍がどうのこうのとか。
あと、「友人に改名を通知する」っつーのももちろん人間の「システム」の問題だし。
前置きが長くなったけど。
僕が言いたいのは、『「名前」ってそう大事なもんなの?』って疑問の提示だ。
あくまでも、「疑問」。「反語」じゃない。
『「名前」ってそう大事なもんなの?全然大事じゃないじゃん!!』ではないということだ。
じっくり「本当に名前って大事なのかなァ?」って疑問を掘り下げてみたいと思ったのだ。
マイナンバーってあるじゃん?
アレ色々と批判されたけど、役割としてはぶっちゃけ「名前」も同じだよね。あまり言う人いないけど。
身も蓋もないことをいっちゃうと「名前」も「ナンバー」も、パソコンの世界にぶち込んでしまえば同じ1と0の羅列に変換できるよ。
「名前」に個人のアイデンティティが結びついてるとするなら、じゃあ同姓同名はどうなんの?って話だし。マイナンバーの方が重複しない分確実に「個人」を表してる。
じゃあ名前とマイナンバーには違いがなくて、マイナンバーの方が優れてるか?っつーと全然そういう問題じゃなくて。
名前は
・それ自体が意味を持ち
・親から付与される
っていう特徴がある。
多分、親も「滅茶苦茶可愛い子に育って欲しい!」と思ったときに「権兵衛」とか「平八郎」とか付けないだろう。
「革命家になってほしい」と思ったら「平八郎」って付けるかもしれないね。
まあそれはそれとして。
でも、この「意味」って……ホンットに身も蓋もないこと言っちゃうと……
「親のセンス次第」だよね。
身も蓋もなさすぎるけど、これって結構残酷なんだよ。
一時期DQNネームってよく聞いたけど、アレは要は親にセンスが無いってことなんだ。
……まぁ。
この記事で語ってるように、「多少難読であるだけでDQNネーム呼ばわりされる」っていうとんでもない被害者もいるわけだけど。
それはまた別問題。
上の記事には「僕は僕の名前が好きだ」と書いてある。
ここまでの内容と矛盾してるように思われるかもしれない。
一応僕もそれなりのアイデンティティ感覚は持ってるらしく、「明日から名前を変えろ!」と言われたら、確かにショックは感じると思うのだ。
なんせそれで数十年生きてるわけだから。
だけど、案外ためらいなく改名できそうだ。
「もっとカッコよくてもっと画数が少ない名前」に。
画数少なけりゃ普段ラクじゃん。
なんやかんやで、僕にとって名前ってそういうものな気がする。
でも同時に、それはなんか親に申し訳ないなーって気もする。一応親も色々思いがあるわけだろうし。
じゃあ「名前」を大事にするとするならば、それは親のためなのか?
僕のためではなく?
じゃあその理屈で言えば、「この苗字を途絶えさせないでくれ」という親の思いがあれば、それを根拠に夫婦別姓に反対することもできるわけだよねぇ。
なんだこの違和感。
なんというか、それは時代に合ってないだろって気もする。
面倒くさいのでもういっそのこと名前なんて全部自分の意志で自由に変えられるようにすりゃいいんだよとも思うのだが、それはシステム的な問題でクッソ不便だろうな、とも思う。
ああややこしい。
今回の記事はいつもに増してグダグダだが、言いたいことはここに帰結する。
「名前って、個人そのものと一致してるのか?」
ってこと。
友人の山崎くん(仮名)が諸事情で佐藤くん(仮名)に変わったことがある。
最初は違和感があったけど、山崎であれ佐藤であれそいつはそいつだった。
すぐに慣れた。
今後友人の女の子の苗字がどんどん変わっていくことは想定されるけど、そいつはそんなに変わらずにそいつだろう。確実に。
でもまぁ……
「名前が個人と一致する」っていうのを「錯覚だ」って切り捨てるのもまた違う気もしていて。
ここまでグダグダ語ったのはこの動画を見たからなんだけど。
この動画そのものに関する批判やらなんやらは保留。
「賛同も反対もできない」とだけ。
だけど最後に引用されてたこの発言。
「合憲判決を聞き、涙が止まらなかった。(戸籍上は別の姓のため)自分の名前で死ぬこともできなくなった。これから自分で生きる方向を見つけなければならず、つらい」
これはなんというか、「名前依存」っていう例だよね、と思ったのだ。
例えば……「圧倒的にピアノが上手く弾ける」人が、何らかの理由でピアノが弾けなくなって「これから自分で生きる方向を見つけなければならず、つらい」って言う。なんというか、こっちの方が納得がいく。
でも「名前」に関してもそのレベルでアイデンティティの基盤を作っちゃう人がいる。
それは「自然」なのか、「不自然」なのか。
わかんないよねぇ。
断ずることはできない。
ただ、やっぱり「納得」はしないかな。「そこまで名前にこだわる?」っていう感想が来ちゃう。
まぁ夫婦別姓は別の問題もあるんだろう。
田中っていう苗字に全くコダワリがなかったとしても、強引に夫の名字である山田に変えられるのは嫌だ!みたいな。
以下余談。
今思い出したんだけど、昔、アイヌの若者が「俺はアイヌの人間だ!」っていうことをデモで訴えるっていう映像を見た。
僕はどうもその映像が腑に落ちなかった。
「貴方はアイヌの人間、だからどうしたの?」って思ってしまったのだ。
おそらく、この感覚は文化人類学とかそういった領域に詳しい人なら「それは日本人が民族の問題に疎いからだ」って指摘するかもしれないね。
実際そうかもしれない。
でも、もし「明日からお前は韓国人だ!」って僕が言われたとしたら……多分、そんなに僕は反発しない気がするんだよなぁ。僕は韓国の政治に関しては明確にアホやなぁと思う部分が多々あるから、あえてそういった国を引き合いに出したけどさ。
……別に明日から韓国人でも構わない。ただ……
「だからお前も安重根(伊藤博文を暗殺した人)を尊敬しろ!」って言われたら、それはちょっと嫌かも。
あ、もしかしてアイヌの人もそういった問題なのか?……いや、違う気がするぞ。
そのアイヌの人、「人生の途中で自分の出自を知った」って感じで、同調圧力に怒ったって感じじゃなかったし。
んー、難しい。
そういえば、こんなこともあった。
高校の何かの授業で「家制度に関してどう思いますか?」みたいなアンケートがあって、僕はただ二文字「不要」って書いた。
はいそこ、厨二病とか言わないの。その通りだけど。
……そうしたら先生が苦笑いしながら「アンタらしいわ」と言った。どうやら周りからもそう思われているらしい。
僕には僕特有のバイアスが、たぶんある。
やっぱり「名前」について考えるとき、そのバイアスを抜きに語ることは、多分僕には無理だ。
……まぁ、このブログはそういった方針で別に構わないのかな。
グダグダ語りましたが、今回はこれくらいで。
お読みいただきありがとうございました。
ではまた次の記事で。