こんにちは、Mistirです。
大学時代に筋トレを一時期頑張っていたのですが、最近また頑張ってます。
きっかけは色々あるのですが、この映画に与えられた影響がかなり大きい。
この映画を見ると、「やべえ、鍛えよう」ってなる。
その真相は映画で確かめて欲しい。
そしてもう一つ、「この本」が与えてくれた影響も非常に大きい。
筋トレが最強のソリューションである マッチョ社長が教える究極の悩み解決法
- 作者: Testosterone
- 出版社/メーカー: ユーキャン
- 発売日: 2016/10/21
- メディア: Kindle版
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この本の論旨は要するに、
「人生の99.9%の悩みは筋トレで解決する」
っていうことで、作者のTestosterone氏はまさにそのままのタイトルの本も出してる。
こっちの本の方は、部位別の筋肉の鍛え方に言及してたり、より実践的な内容になっている。
これらの本の魅力……というか独特な点は、「んなアホな」と否定したくなっちゃう点に対して、圧倒的筋力……というより、圧倒的に合理的な論理の流れで「筋トレがソリューションである」という事実を語ってくれることだ。
そして気付いた。
確かに……筋トレで人生の悩みの99.9%は解決する。
間接的にだけど、最大のソリューションを与えてくれる。
そこから、もう一つの仮説に気付く。
「現代日本で最も『宗教』として完成されているのは、筋トレなのかもしれない」という仮説だ。
そのことを、少し詳しく語りたい。
筋トレは一種の信仰
さっきの本の作者であるTestosterone氏はTwitterで基本的に筋力の有り余るツイートを繰り返されている。
『筋トレが最強のソリューションである』の方は、Testosterone氏のツイートを纏めた本だ。
Testosterone氏の主張のひとつに、「筋トレは自傷行為である」というものがある。
手首切るぐらいなら筋トレして筋繊維切れ!傷の代わりに筋肉が増えるし、筋肉痛で生きてる実感を感じられるし、リストカットが病みつきになる原因の一つセロトニン分泌も筋トレで促進できるし「何目指してるの?大丈夫?」と人々に心配してカマってもらえるし、ダンベルという親友もできて死角がない。
— Testosterone (@badassceo) 2017年4月29日
なんだ、この筋肉理論は。
……Testosterone氏は脳が筋肉になってしまっているのだろうか。
否、よく読むと非常に理路整然としている。……ような気がする。
ちなみに氏は企業経営をこなすバイリンガルのインテリだ。
実際、最近自分も気付いた。
モヤモヤする。悩む。自分の中に何か、黒々とした陰鬱な気持ちが滞留している。
とりあえず、その気持ちを横においておく。
体がだるい。無視する。
「ジムに行くだけでいい。最悪、風呂だけ入って帰ればいいんだ」。
そう自分に言い聞かせる。
Testosterone氏も言っていた。
「意志力で気分に逆らえ」と。
自分の気分くらい、自分の意志で制圧するのだ。
ジムに行く。
ラットプルダウン、50キロにセット。
最初の一回は本当に最悪の気持ちだ。僕は基本的に憂鬱なんだ。
でも、いっそのことだから最後までやりきる。
やりきらずに帰るのは、お金が勿体無い。
1時間前後追い込んで、余力があれば有酸素運動して、その後シャワーで身体を冷やしきってから、寒くなったトコロで風呂に入る。
実はこれ、手順としてはあまり良くない。筋肉を酷使した後はあまり熱い風呂に入らないほうがいいのだ。
でもそんなとき、僕はこう言う。
「知ったことか。ジムに行って風呂に入らない選択肢があるわけがないだろう」と。
ということで、風呂でボケーッとする。というか、疲れで頭がまわらなくなっている。
黒々とした陰鬱な気持ちについて考える程度の思考能力は、既に奪われている。
次の日。
筋肉痛は「頑張った証」として現れ、自分に確固とした成長の足跡を見せてくれる。
僕は「成長」という言葉が大嫌いだ。
誰かにとって成長に見えたソレは、自分にとってはただの妥協かもしれない。
誰かの言うその成長は、自分にとってはただの退化である場合すらある。
でも。
「筋肉の成長」だけは違う。
これだけは誰にも否定することができないーー自分さえも否定できない、本当に、純粋な、完全なる「成長」だ。
……そしてこのプロセスを週に2, 3回程度繰り返している内に、気付く。
悩んだ瞬間、思考を止め、ジムに行く。
ジムに行かなければならない。
ジムに行かなければ、ダメになってしまう。
逆に言えば、ジムに行きさえすれば、とりあえずは「問題は解決するのだ」。
……ここにあるのは「努力」じゃない。
「信仰」だ。それも、「確固とした効果のある」信仰だ。
「ジム」を「神の元」に置き換えてみるとよく分かる。
これは一種の、依存の領域だ……。
でもまぁ、依存すればするほどそれは「良い」影響を及ぼすのだから、ここから離れる必要は何もない。
ここまで考えて、理解した。
「筋トレは、現代の日本で『最強』の宗教だ」。
実は、日本で徐々に広まりつつある宗教は「合理主義」だと考えてる。
「合理主義」という言葉はとても広い意味を含有しているので深く語りたくはないのだけれど、「自分の認知できる範囲で、違和感のない程度で、可能な限り非合理的なものを排除しよう」という考え方だと思って欲しい。
実は、この考え方っていわゆる「宗教」とは相性が悪い。
まぁ当然だよね。自称無神論者に「神が全てを解決してくれる」と言っても冷笑されるだけだろう。何故って、「非合理的」だし「非論理的」だから。
でも一方、「合理主義」もまた一種の「宗教」と言える。
それを信じていれば幸せになれるという意味において。
そして、別の宗教と対立しやすいひとつの概念であるという意味において。
(宗教を概念呼ばわりして良いのかは微妙なトコロだけど)
さあ。
そこで、だ。
見えてくるものがある。
「筋トレ」は、全てを融合させる。
合理的であり、非合理的でもある。
筋トレは何も解決してくれない……はずなのだ。
僕の人生の諸問題が、例えば「僕はどういう仕事をするべきなのだろうか?」という問題は、筋トレによって解決されるはずがない。当然だ。
なのに。
筋トレ後には、解決されているのだ。
確かに、一過性の「ジムに行った前後ではそんな悩みは忘れる」という意味もある。
そこに大した意味はない。
でもその奥に、「筋トレを続けるとメンタルが異様に太くなり、心に余裕ができてくる」という、一種の副産物の存在がある。
「心の余裕」は全てを解決する。
これは事実だ。
「僕はどういう仕事をするべきなのだろうか」。
この問題は、心に余裕がなければ目に見える範囲が非常に短い期間のことだけになってしまう。
心に余裕が生まれた瞬間、妙に長期スパンで物事を考えられるようになる。
この作用は、まさに「神の信者には」最初から備わっているものなのだろう。
そう、「信じる者は救われる」だ。
「信じる者には、心に余裕ができる」と言い換えてもいい。宗教の作用とはそういうことなのだろう。
弊害
……
ブログが、前ほど書けなくなった。
というか、書きたい欲が前ほど沸かなくなった。
そう。
今まで、Twitterで色々考えないといけないな、と思うようなものを見つけては、徹底的に考えて、考えて、考えて、書いていた。
今はどうだ。
考えるのはとりあえずジムに行ってからにしている。
……単純な話、かつてブログを書いていた時間をジムに持って行かれてるだけな気もする……
これは……良いことなのか?
……
よし、ジムに行こう!
と言いたいトコロだけど、ジム、もう閉まってるな。
……ちょっと外走ってくる。
ではまた次の記事で。
お読み頂き、ありがとうございました。