ども、Mistirです。
凄くホットな話題がある。
呆れてものも言えなくなるんだけど、自分の髪の毛は「加工してないもの」であることを証明させられるらしい。
……こんなこと、今の時代にやったらどうなるか本気で分らねえのかよ……
と呆れてしまうのだけど、教育の世界が悪い意味で「聖域化」していることを強く感じる。
そして一種、同情してしまう。
「施すべき策について迷走した結果、最悪の選択肢を選んじゃったんだな……」と。
少しだけ、語りたい。
「ルール教徒」の存在
実は、だいぶ昔「ルールを神のように扱う方々」についてブログで語ったことがある。
あ、このアイコン昔描いた絵です。
あの頃はまだ絵頑張ってたな……
それはさておき。
要するに、「世の中には一定の割合で『ルール』に従うことを絶対的価値観とし、それを疑う思考回路を持たない人がいる」っていう話だ。
はっきり言って、今回の問題はほぼ同じ構造だ。
「黒髪でストレートが正義」というルール。
実は、何の根拠もないルールだ。それこそ生まれつきの体質で髪の毛が真っ白なひともいる。遺伝のルーツ次第で髪の色が変わることなんてザラにある。
このルール自体が、「終わった」ルールなのだ。
このことについて指摘する@C4Dbeginner氏のツイートは非常に的確だ。
いまだにこんな校則ごっこしてるの?と思うけど、今回の議論はたぶん外国籍生徒やハーフ・クォーター生徒が増える中で地毛証明書を出させているというところがポイントで、黒髪直毛が正しい髪という価値観にいい加減無理が来てるということだと思う。https://t.co/VJXILsfpv2
— cdb (@C4Dbeginner) 2017年4月30日
今回の件は
「黒髪でストレートヘアが正義で、それは加工していない髪の象徴」というルール
に対して強引に「手抜き」を被せた結果、「地毛ならOK」という歪な新ルールが仕上がったという話になる。
……実は。
批判はしているけど、教師の「立場」も理解してはいる。
理解するだけで、賛同は決してできない。
だから「手抜き」という表現を使っている。
おそらく、「髪の毛の加工をOK」にしてしまうと、なんというか……
ものすっごいアーティスティックな髪型の生徒が出てくる、と。
そういったことを教育の現場では懸念されているのだろう。
まぁ、わからなくもない。
そういった「過度な」生徒が出てくるのを抑止するために、とりあえず「一律して」加工はアウトとしておく。
教師としては、手が抜けてちょうどいいかもね。
でも、よりによって……そこは、手を抜いちゃダメなところだった。
今、世の中の流れって凄く難しいことになってる。
「生まれやら出自やら (生まれたときの髪の毛やら)を迂闊に問い詰める」っていうのは、凄くデリケートな問題として厳しく監視していく流れがある。一方、「世の中の『ふわっとした部分』をきっちりルール化しましょう」っていう流れもある。
このふたつは、中々組み合わせるのが難しい。
教師も困っているのだろう。
アレはアウトにして、コッチはセーフ。
そんな判断を迫られると疲弊してしまう。それはよく分かる。
でも、その結果として「デリケートな部分」をガン無視して、土足で踏み込んでしまうとしたら……
本末転倒だ。余計にしんどいことになる。
全てを疑え
前提として、教育現場も「世の中は動いている、ルールは変わる」って、もっともっと認識した方が良いのだと思う。
単純に言えば、
「教師は、教師だからこそ、もっと『疑わなければならない』」
そりゃまあ、一括して「雑な新ルールで被せてしまえば」楽かもしれないけど。
「違う、そこは根本的にルールが間違っているのではないか?」と疑った方がいい。
そもそも、何故ダメなのか?っていうのは、疑うのが難しい。正直なトコロ、思考を回した経験の量にも起因しているように思う。
例えばだけど、「何故人を殺してはいけないのに、虫を殺して良いのか」って質問に答えられる大人は、子供の頃僕の周りに誰もいなかった。
誰もいなかったから、考えて考えて考えて考えて考えて考えた。
その経験が出来たのは、単純な話、「僕がそういう性癖だったから」、それだけの話だ。
そういう「性癖」の人は、どうやらさほど多くないらしい。
人によっては、もっと素直に「受け入れて」しまう。
たまたま僕はそういった「性癖」だったけど、やっぱりみんなが「ルールを疑う」性格になるためには、教師が率先して「疑う」ようになっとかないとダメなんじゃないかな。
「物事をきっちり疑う」人は、「疑わしいルールがあった」ときに「何故そのルールに従わなければならないのか」、筋道立てて説明できる人だ。
「何でも批判する人」は「物事をきっちり疑う人」じゃない。思考停止して、目の前のことの逆を言っているだけだから。
今の時代は、ラッキーなことに……
疑うのも考えるのも、昔よりも大分しやすい。
その気になれば、あるテーマに対する多角的な意見や情報を、極めて簡単に収集できる。
「世界で自分一人」になることが、なかなかないのだ。
※たまにあるけど
だから僕は、「あ、いいなこれ」って思ったことに対して、批判的な検索ワードを付与して検索してみたりする。
そうすると、スーッと頭が醒めて、ニュートラルな目線で物事を見られるようになる。
逆に言うと、それをしてもなお「好きだ、良い」って思えるなら、それは本当に好きだってことだから。
……僕はもしかすると、自分自身をも疑っているのかもしれない。
さて。
結論としては、今の教育現場に僕が言いたいことは、この一言に尽きる。
「受け容れるな、疑え」
ルールの健全な最適化が進められる教育現場を、僕は望んでいる。
お読み頂きありがとうございました。
ではまた次の記事で。
【追記】
「なら思考停止してない結論ってなんなんだ?」という質問を受けました。
これは個人個人によって異なるものですが、あくまでも僕の意見を書くなら、
「予めルールを『作っておいてはならない』。作るにしても、『比較的幅広い解釈を許しておいて、都度対応したほうが良い』」
というのが、この件に関しては結論です。
例えば途中で触れた「ものすっごいアーティスティックな髪型の生徒」が出てきたら、「出て来る前に先手で潰しておく」ことばかり考えるから「髪の毛に手をいれるのは一括でアウト」なんていう雑な縛り方になるわけです。
これはもう、後手で対応するしかないんじゃないかな、と思う。
例えば「真っ白な髪の毛はアウト」っていうルール作ってたとして、地毛が真っ白な人が転入してきたらどうするの?って話だし。
それなら「華美に髪の毛を飾るのはアウト」って程度に解釈に幅のあるルールだけ定義しておいて、後は現場に任せたほうがいいんじゃないか、と。
幼いころの写真を提出するのが義務、で人権問題にならないと思うなら、それは見積もりが幾らなんでも甘すぎる。
勿論、ルールをがっつり決めておいたほうが現場は楽になるだろう。
でもその結果、人権侵害しちゃダメでしょ。
だから、ルールをがっつり決めるのはその先に問題が発生しない場合に限っておいたほうがいい。
……というのが僕の考え方です。
これは唯一の正解ではないから、あまり書きたくなかったんですけどね。参考程度に。