Midnight Note

明日はどこまで行こうか。どこまで行けるだろうか。

欲望を駆動せよ

 何をやっていても、〝他人の目からはどう見えているのだろう?〟と気になって夢中になれない。
 そういった〝生きてて全然楽しくない地獄〟にハマってしまうと、人間はどうなってしまうのだろうか。
 まず、朝起きるのが辛くなる。

若林正恭『ナナメの夕暮れ』第二章


ここのところ朝ずっと起きれていない。
欲望の枯渇を感じている。
今日に始まったことではない。

30歳になると「欲望をキープする」ということの大変さに気付く。
いやまぁ、酒は美味いしゼルダはおもろいし、楽しいこと自体はたくさんある。
けれどどちらかというと、そういった「楽しいこと自体がたくさんある」ことの方が問題で、「長期的な野望」みたいなものを抱くことがどんどん難しくなっているのを感じる。

筆者は2年前に司法試験の挑戦を始めたのだが、ここ数ヶ月全くやる気が起きず、とことん中だるみしている。
難易度に絶望したのではない。
むしろ、基礎論点なら六法以外何も見ずに答案を書けるようになってきたくらいだ。

だが、とても根本的なことが今更問題として立ちはだかってきた。
「弁護士になりたい」という欲望が、あまりに希薄なのだ。

そりゃまぁフワッとした憧れみたいなものはある。
色々な理不尽な事件について司法試験の勉強という枠組みから外れて学んできたし、そういった事件について能動的に関われる法曹という立場自体には大いに興味がある。
けれど、今の立場や仕事を手放して転身している自分に、やっぱりこう、全く実感が湧かない。

筆者は応用情報とかその他ITの資格をいくつか持っているのだが、それは「現在の仕事に100%プラスになる」という理由で取った。
そして実際にある程度プラスにはなった。
そこには実感に近いものがあった。

けれど、さすがに司法試験となるとなかなか厳しいものがある。
……もしかすると、逆に筆者が「司法試験合格に憧れすぎている」だけなのかもしれないが。

まぁ、もし実感がないならせめて「弁護士になってタワマン住もう」とかいうのも良いかもしれないが、それも実感が湧かない。
お金は確かにあるに越したことはない。
むしろ必要だ。
ただもう、なんか疲れたのである。

独立したての頃はたまーに池袋のアニソンバーとかに行って1万円弱使ったりしてた。
楽しかった。
だがどこかに虚しさがあった。
そういったバーより高価なキャバクラにはあまり興味が持てなかった。
一度仕事の付き合いで行ったが、「なんでわざわざ結露拭くねん、無駄やろ」としか思えなかった。

最近はそういったバーやスナックの類には全く行ってない。
その代わりに一人でたまに夜な夜な鳥貴族に行って、メガ金麦と唐揚げを頼む。
鳥貴族の唐揚げは一時期全く良い印象がなかったのだが、今はリニューアルしたのか筆者の好みが変わったのか、これが美味い。
あっさりしたムネ肉に濃い目のダシが効いた味がついていて、他の店の唐揚げのような露骨な豪華さは無いが、かえってサッパリ感もあって非常に良いのだ。
その他適当に飲んで二, 三千円である。

そんな生き方をしていると、「このまま10年ほどなんとか今の収入をキープできれば、それなりに逃げ切れるんじゃね」という気もしてくる。
というか実際できるだろう。

でも筆者は知っている。
「現状維持」を望んだ瞬間、人は終わるのだ。

青春が終わる、的なヤツではない。
現状維持すらできなくなるという意味だ。
なぜなら使わないモノは錆びていく一方だからだ。

欲望を駆動せよ

人間の生きるエネルギーは何か。
死んだように生きないためにはどうすれば良いか。

そういった問いの答えは2つで、「大義」と「欲望」だと考えている。
「大義」は「使命感」と言い換えても良い。

たまにいる。
大義とか使命感だけで生きてるような人が。
生粋の宗教家、活動家だったり、起業家だったり。
こういった人たちの中には「サイコパス」と呼ばれる人も結構いると思っている。

なんにせよ、レアケースではある。
目立つから世の中こういった人ばかりに見えるが、勘違いしてはいけない。
もし世の中大義とか使命感だけで生きてる人がもっと多いのならば、こんなにお酒を出す店が世の中に多いわけが無いのだ。
酒は大義や使命感と対極のものだ。
何故って、酔ってしまえばもう大義を追うどころではなくなるから。

もう一方は「欲望」だけれど、これは単純に見えて捉えがたい。
まず、たまに内部分裂を起こすという特徴がある。
「健康的マッチョになりたい」ならば「毎日二郎系ラーメンを食べたい」という欲望は捨てて、せめて「たまには二郎系ラーメンを食べたい」くらいにまで抑えなければならない。
次に、……ここで先程述べたことに繋がるのだが……使っていないと錆びつくという特徴がある。
今の世の中、手軽に満たせる欲望が多すぎるからだ。
否。
昔から「酒」という特効薬がそこには存在していた。
けれど、酒ばかり飲んでいてもいけないというのは昔から言われていたことだろう。

結局のところ、大義も程々には抱えながら、特効薬に依存しない長期的な「欲望」を、錆びつかせず磨き続けるというのが「朝起きれない」という現状に対して必要ということになる。

ちなみにここで「大義も必要」と言っているのは、ここのところノブレス・オブリージュどころか、「大義」どころか、その手前にある「人としての最低限」すらも捨て去ったような刹那的な人たちが増えたように思うからだ。
別に説教したいわけじゃない。
日本国発展のために他者を慮れとか、権利を得るためには義務があるとか、そんなつまらないことが言いたいわけじゃない。
むしろ筆者は(パターナリスティックな制約や権威主義を著しく嫌うという意味で)リベラル寄りである。
ただ、人として捨てちゃダメなものまで捨てちゃってる人が結構いるんじゃねえか、っていうことをたまに思うという、それだけである。

mistclast.hatenablog.com


閑話休題。

じゃあ結局、どうすれば欲望は磨き続けられるのか。
件のオードリー若林は「自分が本当に楽しいと思うこと」に気付くため、「肯定ノート」を書き始めたらしい。

 自分に、こんなに楽しいと思うパワーがまだ残っていたことに驚いた記憶がある。
 そうすると、世間の流行などに流されているわけではない、自分が我を忘れて楽しめることが少しずつ増えていった。

(同上)

「肯定ノート」が万人に向く方法かどうかは分からないが、少なくとも筆者は深く納得した。
というか、若林という人が自分と凄く似た考え方をしていて相当驚いた。

結局のところ、「自分に向き合う」しか無いのである。
そして自分の中にある萌芽を、徹底的に誇張する。
そうしないと、濁流に飲み込まれる。

それは見ようによっては不自然な生き方かもしれない。
けれど「僕ら」はもう、欲望を駆動するしか無いのである。

若林は「欲望を鈍らせる」のは「他者の目線」だと解釈した。
だが筆者個人の事情としては、「他者の目線によって鈍らされている」という感覚は、少しはあるのだろうが大きいわけではない。

思うに、昔から欲の持ち方に癖があるのだ。
自分のことを「欲が無い」人間とは微塵も思わない。むしろ欲深い人間だ。
だが、どこか常にその欲望について、冷めている自分がいるのだ。
メタに見て、冷笑している自分がいる。
楽しいことをしていても、切なくなる。
生来の懐疑主義者であり、それがいつの間にかネジ曲がり、冷笑主義を通り越した虚無主義的な自分をたまに見出す。

それは多分誰にでもある感情だろうし、故に「筆者は特別だ」と言いたいわけじゃない。
むしろ逆で、「みんなそうだから、(それが問題だと思っている人は)みんな解決しなきゃいけない」問題だと思っているのだ。
常に自分の欲望をテストしている人生なんか、……ちょっとつまらないだろう。

だから若林のように「肯定ノート」を書いていくか、それに似た方法でなんとかしていくしかないのである。

駆動に疲れたら

とはいえ、この方法には難点がある。
疲れるのだ。
滅茶苦茶疲れるのだ。

本当にもうダメってなったときは、肯定ノートなんてもう見たくない。
飲んで寝るしか無い。
否、むしろ酒を飲みたいから「疲れた」と言い訳しているのか。
わからんけど、とにかく疲れているのである。

もう、そういったときは休むしか無いのだろう。
僕もそろそろ疲れてきた。

そもそも木曜真っ昼間から何を書いているのかという話だが、現在筆者は個人事業主であり、運良く1日8時間週5日フルタイムで働かなくても良い立場である。
そのため時間はそれなりにあるのだが、最近こういったことを考えて頭が全く整理できていないでいる。
それは司法試験からの逃避なのかもしれない。
あるいは司法試験挑戦に疲れて「欲望はない」と考えることで、逃げ道を探しているのかもしれない。

自分の本心も一つではないのだ。
痩せたい自分と二郎系ラーメンが食べたい自分がいるのが矛盾しないように。

今日は自分のために文章を書いたが、それでもやっぱりスッキリはしない。
でもなんとかこうやって吐き出していた。
これが何かしら有益なものだったのかどうか、それは定かではない。

まあそれでも、動くしか無いのだ。
僕みたいな人間は。
欲望の枯渇や、現状維持を恐れるのならば……その限りは。