感動。涙。情動。感情。衝動。
そういった領域は。
なんとまあ、安っぽいんだろう。
なんとまあ、どこまでも自分に属しているんだろう。
ふと思った。
昔は「自分の感動を共有すること」は自分のミッションの一つだと思っていた。
素晴らしい歌。
素晴らしい物語。
そういったものは「自分が」誰かに伝えないといけない。
そう思っていた。
けれど、今の時代はみーーーんなそれをやってる。
ごくごく簡単に誰もが評論家になれる時代だ。
その上で、「自分で感動を作れる人」は熾烈な競争を繰り広げている。
もちろん競争とか抜きに創作に耽溺できる人もいるだろうが、多くの創作者はレッドオーシャンの中を泳いでいる。
少なくとも僕にはそう見える。
僕は自分自身が創作をできなくても、何かを分析できる人間であれば、何かを読み解ける人間であれば、それで良いと思っていた。
けれど。
自分の涙とか、感情とか、そういったものは。
どこまで行っても自分にしか属さないんだな、と……
ふと思ってしまったのだ。
なんでこんなポエムみたいなこと急に言いだしたかと言うと……
今日は特に何もやる気が出ず、でもまあなんかゲームとか部屋の掃除とかできたな、でもなんか食欲でないなっていう夜を迎え、力尽きながらふと開いたYouTubeでこれを見たとき、自分でもわけのわからない涙がバッと溢れてきて。
多分、今の精神的状況その他諸々が色々限界を迎えてていると自覚し。
その涙の理由を語ろうとするならば、その言葉は、おそらくどこまでも陳腐で、どこまでも自分にしか属さないと、なんとなく分かってしまったというか。
僕が見たのは、いわば言語の限界ということなのだろうか。
それは自分自身の限界なのだろうか。
「言語の限界が世界の限界だ」と言ったのはウィトゲンシュタインだったか。
これはもしかすると、少し僕も大人になったということなのかもしれない。
大人になるというのはこういうことなのか。
いや、なんか違う気がする。
話が変わるが、ここのところずーーーっと死ぬことを考えている。
と言っても自殺衝動ではない。
死ぬことが怖い人間なので基本的に自殺衝動は持ち得ない。
言葉通り「死ぬこと」を考えているだけだ。
その原因は色々あるのだが、割愛する。
嫌なことだけれど、人生にはタイムリミットがある。
それは当然のことだ。
だが、『バトルシップ』の名言「だが今日じゃない」と言って生きていくしかない。
いつか何かが分かると、いつか何かが伝わると信じて。
……ぼちぼち婚活でも始めようかな。はぁ。
酒でも飲んで寝よう。
なお、今はシラフである。