Midnight Note

明日はどこまで行こうか。どこまで行けるだろうか。

何があっても絶対に死にたくない人へ

こんにちは、Mistirです。

ずっとこのテーマで書こうと思ってたけど、タイミングを逃し続けていました。
タイトルは釣りでもひねりでもなんでもなく、そのままの意味です。

僕は、何があっても絶対に死にたくない。

そういった話をすると「病んでるの?」と言われてしまいそうだし、そもそもそんな話を日常的にはしない。
でも、僕の中に確固として「絶対に死にたくない」っていう気持ちがある。
そして僕は病んでるわけじゃなく、至って健康に……
「死にたくない」と強く思ってます。

稀に「何歳まで生きたい?」って聞かれることがありますが、淀み無く「150歳くらいまで」って答えてます。
でも、実はそれは嘘。
本当は数百年、数千年でも生きたい。
面倒だからとりあえず雑に150歳って言ってるだけ。

少しだけ、語らせてください。

 

 

みんな、死と向き合ってるのだろうか

僕がずっと影響を受けてきた哲学者がいる。 

どうせ死んでしまう・・・・・・私は哲学病 (私は哲学病。)

どうせ死んでしまう・・・・・・私は哲学病 (私は哲学病。)

 

中島義道。

氏ははっきりと「死ぬのが怖い」と明言してる。
その結果として、「死というものを逆に目をそらさずに徹底的に見つめることで、逆に死の恐怖を克服する」っていう、見ようによっては物凄く倒錯した生き方に辿り着いてしまったとのこと。

この人の世の中に対する眼差しに、僕は大いに影響を受けている。

一方。
最近、物凄く影響を受けているのが……

ホリエモンです。

ameblo.jp


死を常に見つめていたひねくれた哲学者に影響を受けていた僕が、「カネの亡者」のイメージも強い、「意識の高い」パワフルな人に影響を受けている。

これって、結構変な話です。
でもホリエモンの本は、読んでてすっと吸収されていく。

その理由は、この人の本を何冊か読んで分かりました。

この人……
生き方の根底に驚くほど大きな「死への恐怖」があるんだ、と。
そこに共感するからこそ、僕はこの人の本がすっと入ってくるんだ、と。

色んな本でその気持が吐露されてる。

以下、そのひとつの引用です。

 はじめて死を意識したのは忘れもしない、小学 1年生の秋である。
 学校からの帰り道、一緒に下校していた友達と別れ、自宅へと続く一本道を歩いていたときのことだった。深まる秋に、すでに空は赤く染まっている。足元には枯れ葉が舞い上がり、冷たい風の吹き抜ける夕方だった。これといって考えごとをしていたわけではない。なのに突然、気がついた。
「僕は、死ぬんだ 」
人はみな、いつか死んでしまう。お父さんもお母さんも、いつか死ぬ。そして僕も、死んでしまうんだ。この世から消えてなくなってしまうんだ … … ! !
あたりの景色が暗転したような、猛烈な恐怖に襲われた。
気がつくとその場にうずくまり、うなり声を上げながら頭を抱えていた。僕は死ぬんだ。消えてなくなるんだ。死んだらどうなるんだ、僕はどうすればいいんだ ! !嫌だ、嫌だ、死にたくない ! !
この日の帰り道以来、僕の脳裏から死への恐怖が消えることは一度もなかった。
ぼんやりと物思いにふけっているとき、ひとりで道を歩いているとき、電気を消して眠る前。突如として 「僕は、死ぬんだ 」 「この世から消えてしまうんだ 」という恐怖に襲われる。まるで発作を起こしたかのように、頭を抱えて 「ウワ ーッ 」とうなり声を上げる。
誇張しているのではない。この発作は中高時代も、大学時代も、そして大人になってからも定期的にやってきた。
人はなぜ死ぬのか。いや、それ以上になぜ 「僕 」は死ぬのか。僕が死んだら、どうなるのか。考えても考えても答えは出てこない。夏の終わりにセミが死ぬように、縁日で買った金魚が死んでしまうように、人は、僕は、ひたすら死に向かって歩を進めている。大人たちが平然と暮らしている理由が、さっぱりわからなかった。まさか自分だけは死なないとでも思っているのだろうか。
ゼロ―――なにもない自分に小さなイチを足していく

ゼロ―――なにもない自分に小さなイチを足していく

 


正直、この感覚あまりにも「分かりすぎる」
本当に僕にも「発作」が定期的にやってくる。 
でも、どうやらその「発作」がない人もいるらしい。

僕には信じられない。

ちなみにホリエモンは「考え抜いて、無駄な時間を一切作らない」ことで、死への恐怖を遠ざけてるらしい。中島義道と対極の生き方だけど、人生に対する温度の高さって意味なら共通してる。


たまに僕は、死ぬことを考える時……
生まれる前のことを考えます。


僕の最初の記憶は、大体3歳くらい。
何故か自宅のドアの前でふらふらしていた記憶です。
皆さんも、「遡れる限り遡ったらここまではなんとか思い出せる」っていう最初の記憶があると思います。
で、「これ以上は遡れない」限界の記憶を思い出したら、「そこから数年前」を思い出してみる。

これは絶対に、不可能です。
「自分が存在していない頃」の記憶を思い出すことなんて、できるわけがない。

でも、「それを試みる」。
その状態から……パッと、「最初の記憶」に切り替わる瞬間を、想像してみる。

想像できました?







死って、その「切り替わり」が永遠に来ないんです。





「自分が死んだ後」も、「自分が生まれる前」も、「いかなる形でも自分が存在していない」って意味なら、同じです。
つまり僕らは、「時系列的には」誰しもが「死」を「経験してる」って言っても間違いじゃない。

それを考えると、怖くならないわけがない。
そりゃ、理屈では「死んだ後に恐怖の感情もなくなるから、死は怖いものじゃない」のはわかりますよ。

でも、この人生が、この生き方が、この世からパッと「消えてしまう」と思うと。
やっぱり怖い。
怖くて仕方がない。

だから僕は、その感情を意図的に忘れつつ、……それでもその感情を逃した瞬間「僕は僕じゃなくなる」っていう、中島義道とホリエモンを足して二で割ったような生き方をしてます。
自分がいつか死ぬ。そのことを認識しつつ、無理矢理にでも「人生を充実させるために行動する」ことで、恐怖を遠ざける。
遠ざからないけど、一時的に忘れることができる。
でも、いつか死ぬことは忘れない。
我ながら結構倒錯してる。

でも、世の中はどうやら僕みたいな人はもちろん、「死ぬことが死ぬほど怖いし、それに取り憑かれてるような人」って少ないみたい。
平然と「老けないうちに迷惑かけず死にたい」みたいなことを言う人がいる。

否定はしません。
ただ、僕には全く理解できない。
何があっても、誰に迷惑かけても、どんなに恥を晒しても、それでも生きたい。

余談だけど、僕には
「虫を直接殺せない」
っていう、人に言えるような言えないような微妙な弱点(???)があります。

昔、親に
「何故人を殺してはいけないのに、虫は殺していいの?」
と聞いて、納得のいく答えが得られなかった。

他の子どもたちは容赦なく虫を殺す。

理解できなかった。

自分に置き換えて考えてしまった。いつか、巨大な手のひらが自分を押しつぶす。僕は苦しみながら死ぬ。
それをシミュレートしてしまった後には、もう虫は殺せませんでした。
※ただ昆虫採集(標本とかは作らず、捕まえたらすぐ逃がすやつ)は大好きで、トンボとか捕まえる時に頭をはねちゃって、凄く申し訳ない気持ちになったりはしましたが……

今になったら、流石に部屋で蚊が飛んでるような状態を放置すると次の日の仕事に支障をきたすので、なんとかして殺しますが……
それでも、直接手で叩き潰すことができません。
蚊取り線香とか、スプレーとかそういうの使わないと無理。

でも「食べるため」なら生き物を殺すことができて、釣った魚なんかは容赦なく殺してた。
今はむしろ、それさえも無理になってきてる。
不思議な話だ。

スーパーで加工された肉や魚が買えるのに、何故それ以上の殺生をしなければならないのか?と疑問に思ってしまう。
この辺りはスリランカ上座仏教の長老として有名なアルボムッレ・スマナサーラも同じようなことを言っていた。

食べなければ苦しいし、死にたくもない。生き物を食べるということは、残酷な食物連鎖でもある。だからと言っても食べなければ生きていけないしね。「やむを得ず食べています 」という場合は、きちんと食べる量も管理するし、自然を破壊していないし、身体に悪影響も与えていない。「これを食べると健康にいいから 」 「これを食べると綺麗になる 」とか、そういう恐ろしい世界も消えちゃいます。ほとんどの問題が解決するでしょ ?だから根本的に土台が間違っていますね。「生きることに価値がある、意味がある 」ということにね。生きることは尊くないのです。

(中略)

「あなたはそれ以上どうすることもできないのに、そんなこと考えて何になるのですか ? 」ということです。理論は合っていますよ。自分が牛肉を食べるのだから、牛は殺されています。しかし、私が牛肉を食べることをやめたとしても、牛は一頭も助かりません。半額にしてでも売られてしまいますからね。日本人みんなが牛肉を止めましょうとなったら、日本の牛は守られます。これって現実的にあり得ない話でしょう。

仏教は宗教ではない ?お釈迦様が教えた完成された科学? 仏教は宗教ではない 前編

仏教は宗教ではない ?お釈迦様が教えた完成された科学? 仏教は宗教ではない 前編

 

この本、聞きに徹するイケダハヤト氏が見られるのでその点でも面白いです。


余談終わり。
そろそろ、語りたかった結論へ入ります。

何があっても死にたくない人へ

これだけ語って、何が言いたかったのかって話ですが……
気付いたのです。

僕は、「死を恐怖する人」とは共感することができると。

さらに言えば、それを堂々と言ってる人であれば言ってる人であるほど、共感できる。
生き方の根底にあるものが、凄く理解出来る。

例えば、僕は凄く多趣味なんだけど、そこには強迫観念的なほどの「人生を良くしたい」って気持ちが含まれている。
その根源にあるのは、確実に「死への恐怖」、「失われゆく時間への恐怖」です。

ホリエモンと同じように、動いて、変えて、変わることが、それだけが僕を死から遠ざけてくれる。

あと、多分今一番濃い趣味はバイクなんだけど、……
普通に考えて、「死ぬのが怖い」っていう人間の趣味じゃないですよね。

でもなんというか、「死にたくないからこそ、死と最も近いバイクが趣味になってる」気がする。死を意識しすぎて、死に近づいちゃってるというか。

……で。
ここまで語ってきたことって、多分伝わらない人には、全く伝わらない。

でも一方でこうも確信してます。

伝わる人には、多分痛いくらい伝わるって。

で、伝えることに確実に意味があるって。
そう思ったから書きました。

だって僕が今まで中島義道やホリエモンの文章を読んで、腑に落ちた点があまりにも多かったから。
今なら理解できる。

死への恐怖って、死への恐怖がある人の口からじゃないと上手く伝わらない。

だからなんとなく言いたかった。

ここに一人、死ぬことが死ぬほど怖い人がいますよ、と。

それで楽になってくれる人がいるかどうかはともかく。
その恐怖と戦いながら抗ってる人がいますよと。

まるで宗教みたいだけど……
むしろその逆だと思ってる。

「死ぬことなんか怖くない、考えても無駄、忘れよう」って生きて、あたかも自分が永遠に死なないように振る舞いながら生きるっていう生き方の方が、見ようによっては「宗教的」だ。

僕がやってることはむしろその逆。
もしかすると……相当、ハタ迷惑な行為かもしれない。

それでも、少しだけでも何か伝われば良い。
なんとなくそう思ったのです。

お読み頂きありがとうございました。
ではまた次の記事で。

【追記】

6年越しに続きを書きました。
この先の話です。

mistclast.hatenablog.com