Midnight Note

明日はどこまで行こうか。どこまで行けるだろうか。

いじめられる側も悪い、という論理について

ども、Mistirです。

最近、こんな記事を読んだ。

news.nicovideo.jp

昔から言われていることだ。
「いじめられる側も悪いか」。

答えは出ている。
「いじめられる側も悪いワケがない」。
当然だ。

それでもなお、「いじめられる側も悪い」という理屈がたまにまかり通る。
それは何故か?

 

実は、日本語の問題なのではないか

結論を言ってしまえば、僕はこの件は、日本語の問題ではないかと思ってる。

確実に言えることがある。
「いじめられる側にも『原因』は、ある」

何故、「彼」ではなく、この「僕」がいじめられるのか?
その理由はなんでもいいわけだ。

「彼」は筋肉質だが、「僕」は華奢だ。
「彼」は良い性格をしているが、「僕」は性格がゴミだ。
等等。

最終的には、
「僕」が「僕」であること
さえ原因になり得る。

いじめられない「彼」といじめられる「僕」を隔てる何かがある。
で、いじめる側の理屈としては、それは十分に「原因」になるわけだ。
その原因を「いじめられる側が」、「持っている」。
なるほど、理屈としては通っている。

でも。
大事なのはこの先だ。

・いじめられる側にも「原因」はある
は正しいが、
・いじめられる側も「悪い」
は間違っているし、ましてや
・いじめられる側にも「責任」がある
は、大間違いだ。

どうもこれら三つがごちゃまぜになって議論されている気がしてならない。

その「違い」は本来大人が教えてあげることなのだろうけれど……

「いじめ」については語り足りないけど、とりあえず今日は体力の限界なのでここまでにします……。

お読み頂き、ありがとうございました。